ゲッチャバック!〜玲子と龍彦(2)
「……龍彦」
どうしてそんなに変わらないの。
「乗ってきなよ、俺のリンカーン・コンチネンタルに」
彼はそんな軽口を叩きながら、さっと運転席から降りてきて、助手席のドアを開けた。
「俺に用があってきたんだろ? うちで話そう。悪いけど早く帰らないといけないんでね」
龍彦は助手席を顎でしゃくって玲子を促す。乗りたくないんじゃない。彼があまりに昔のままで、動揺して動けない。
「どうぞ、姫?」
ピックアップトラックの車高は高い。龍彦は拒否する間も与えずさりげなく玲子の手を取った。器用そうな長い指、でも仕事のためか手は少し荒れて。親指の付け根にある小さな傷に覚えがある。昔ナイフで切ったと言っていた……こんな事を覚えているなんて。彼に触れるのはどれくらい振りなのか、顔から火が出そう。乗り込んですぐ慌てて手を離すが、
「……たーこ。照れてんじゃねえよ」
玲子の額を指でぴん、と弾く。玲子は真っ赤になったままシートベルトを締めた。開けた窓からサーファーたちが波と戯れる姿が見える。エンジンがかかって耳慣れた音楽が始まり、はっとした。
刻むビートが胸を逸らせる。ビーチ・ボーイズの『ゲッチャ・バック』。ちょうど夏樹が生まれる頃に流行っていた曲だ。
臨月だというのに、海に行きたいという龍彦に付き合って出掛けた夏の日。夢中になって波に乗る龍彦に手を振りながら聴いたメロディ。ゲッチャ・バック。
彼の横顔を盗み見る。
何を考えてるの。久しぶりに会ったっていうのに驚きもしないで。
日焼けした肌に浮かぶ髭のそり跡も刻まれた皺も、それなりに年齢を重ねてきた彼にはアクセサリーになる。私はこんなにくたびれちゃったのに。潮風が玲子の髪を揺らす。彼はよくこの髪もきれいだと褒めてくれたっけ。未だに手入れを怠らずパーマもヘアダイもせずにいるのは、決して彼のためなんかじゃないけど。
「……まだ小説、書いてんのか」
龍彦の声にはっとした。
「書いてるわ。今はネットがあるからね。結構いろいろ投稿してるけど、まあ、最終選考落ちってとこね」
「最終選考まで残りゃたいしたもんだ。ここまできたら続けろよ?」
何でもないようにいう彼の声が、じんわりと玲子の心を温める。ああ、やっぱり龍彦だ。変わってない。
「着いたぜ」
気付けば彼がドアを開けてくれていた。車を降りると、そこには「ペンション・シードラゴン」という看板。仰ぎ見れば、覚えがあるあの古い母親の食堂は既になく、白い木造のアメリカン・ハウスが玲子を迎えた。入り口の近くには“ランチやってます”“コーヒーいかがですか”と2本ののぼり旗が風にはためいている。
「悪いが鍵を開けてくれるか」
彼が放った鍵を受け取ると表玄関の鍵を開ける。彼はトラックの荷物を下ろしていた。両手をふさがっている彼が入れるように、大きく扉を開ける。中は木肌が優しい印象の玄関で、入り口には小さなフェニックス椰子の木、床にはアヒル型のランプ、天井にはレトロなシーリングファンが付いていた。
「懐かしい。80年代のカフェバー風?」
「ははっ。カフェバーって、死語だろ。ファンもランプも亮からもらったんだ。あいつの倉庫に眠ってたのをくれるって」
「……私とは連絡をとらずに、賢ちゃんや亮ちゃんとは連絡取ってたんだ」
嫌みっぽくいうと、勘弁してくれよ、と彼は顔をしかめ、段ボールやスチロールの箱をキッチンに運び始めた。暫くすると、麦茶らしいふたつのグラスと水の入った大きめなピッチャーをトレイに乗せてでてきた。
「さてと。お袋に会うかい」
「ええ! お元気?」
そう言うと、彼はちょっと顔を曇らせた。
「まあ、どうやら? お袋! 遅くなってごめんな。でも懐かしい奴を連れて来たぞ!」
彼が声をかけてドアを開ける。そこにはリクライニングベッドを起こして座る彼の母親の姿があった。玲子が覚えていた彼女は丸々と太った明るい食堂の女将。それが見る影もないほど痩せこけ、きれいに染めていた髪は真っ白、身体も力なく、やっと起きているといった状態。
「あ……あ! 玲ちゃん!」
弱々しい声。それでも玲子を認め、枯れ枝のような手を伸ばそうとする。しかしその手も思うように動かず、指の関節すら曲げられず、突っ張ったままだ。
「おか……」
おかあさん、と言おうとして口ごもった。龍彦の妻ではない今、おかあさんとは呼べない。
「いいよ……おかあさんで」
そう言って彼女は玲子に懸命に微笑む。思わずぼろぼろと涙が零れた。
「おかあさん!」
玲子がそれでも遠慮がちに抱きつくと、龍彦の母も嗚咽を堪えきれないようだった。抱きしめるとさらに感じる、小さくなってしまった身体。
「ご病気を?」
玲子が龍彦を見ると、彼は慎重に容器にクリーム色の液体を入れているところだった。棒にぶら下げ、手際よくチューブを繋ぐ。母親のパジャマをめくると、彼女の腹には小さなボタンの様な物がついている。そこにチューブの先を嵌め込んだ。
「胃瘻……」
介護ヘルパーである玲子はすぐに悟った。彼の母は何らかの病気で飲み込みが悪く、口からの栄養補給が出来ない分をこの胃に通じるボタンから流すことで補っているのだと。
「もう2年になるかな。昔から首は悪かったんだけど、港で荷物を持ったまますっ転んで、頸椎損傷。幸い、喋るのだけはいいんだが、手足も飲み込みなんかもだめで」
頸椎損傷。たぶんほぼ寝たきりだ。膀胱機能もだめらしく、尿道からの管も出ていてベッドから受けるバッグがぶら下がっている。シーツやパジャマもこぎれいにしているが、
「あなたがひとりで面倒見てるの? ヘルパーとか訪問看護は?」
龍彦は苦笑した。
「介護保険使うと金かかるんだろ? 1年前に退院してからはほとんど俺がひとりでやってる。たまに医者が往診で尿の管取り替えてくれるくらい。まあ真澄姉もきてくれるし」
彼の姉真澄は隣町に嫁いでいたはずだった。それにしてもここまでの重症者をひとりで。なかなかできることではない。
「龍彦……」
玲子は涙目になって彼を見た。やはり彼は母親のためにこの町に戻ってきたのだ。
「そんな顔すんなよ」
玲子の表情は彼の母を気遣ってのものだと思ったらしい。龍彦は笑顔を作ると立ち上がった。
「あ、俺そろそろランチの準備あるから、お袋としゃべっててくれるか。あと、その栄養剤が終わったら知らせてくれ。そのままにしとくと詰まっちまうから……」
「大丈夫、やるわ。水を通せばいいんでしょ? 水はさっきもってきたピッチャーのでいいのね? シリンジはどこ?」
玲子はベッドサイドを探し始めた。
「お前、経験あんのか」
龍彦は目を丸くする。玲子は得意気に笑った。
「これでも介護ヘルパーなの。胃瘻って本当は医療行為だからヘルパーが扱うのは禁止なんだけど、やむを得ずやらされることもあるわ」
「介護ヘルパーだあ? 玲子が?」
仰け反るようにして驚く龍彦に、玲子は笑った。
「賢ちゃんと千春もおんなじ反応だったわ」
「だってよお、辛い仕事だろ」
「皆私の事どれだけ怠け者だと思ってんのよ」
彼ははあ、と息をつくと、エプロンを締めた。彼のエプロン姿も久しぶりだ。調理師の免除を持っていた彼は、良く玲子や子供達にも食事を作ってくれた。
「今日は泊まりの客はいないけど、土曜日だろ? ランチはそこそこ忙しいんだ。すまないが話は夕方な?後で食事は持ってきてやるから」
「えっ! 夕方?」
まだ昼前なのに。
「だって、ゆっくりしてる暇ねえもん。ここまで来るんだ、泊まる用意くらいしてきたんだろ?」
龍彦は玲子のボストンバッグを指差してにやっとする。
「部屋は空いてるから」
玲子は慌てた。確かに着替えくらいは持ち合わせているが、それはどこか別の場所に泊まるつもりだったのだ。
「大した話じゃないの。なんなら立ち話でも」
玲子が言うと、龍彦は真面目な顔で振り返った。
「なら、どうして、わざわざここまで来た。電話じゃ済まない話なんだろ」
そう言われてしまえば断る言葉が見つからない。
「な、待っててくれよ。胃瘻止めてくれるんだろ? 久しぶりなんだからお袋とも話してやってくれよ」
ましてや、母親のことを言われてしまっては。
「……わかったわ」
玲子は承諾して、ベッドの脇に腰を下ろした。
龍彦が厨房へ行ってしまうと龍彦の母親は乏しい表情ながらも微笑んで見せる。働き者で前向きだった龍彦の母。口癖は「わきゃあないよ」。訳もないよ、なんてことはないよ、あっという間だ、という意味らしい。いつもそう言って愚痴もこぼさず家事も仕事も笑顔でこなしていた。それが、指一本動かすのも大変だなんて。玲子はその皮膚がつっぱってつるつるの細い手をさすった。昔は水仕事でがさがさでたっぷりと脂肪もついていたのに。
「玲ちゃん」
涙目になった玲子に龍彦の母が声を掛ける。
「ごめんね」
「え、そんな、胃瘻を止めるくらい。慣れてるんで気を使わないでください」
「違う、違う」
頸椎のせいで首も振れない彼女は、懸命に声を上げて否定する。
「……龍彦のことだよ」
今までのことを謝っているのか。
「それこそ、おかあさんのせいじゃないですよ」
「違う、違う!」
彼女はまた否定する。自分の気持ちが伝わらないことに少し興奮気味になっているのか、語気が荒くなる。玲子は声量のない彼女の言葉を聞き漏らすまいと身体を乗り出した。
「離婚の、こと」
振り絞るような声。彼女は涙を流して、上がらない手を必死に上げようとする。
「すまなかったね、あたしのせいだ」
何を言うのかと思った。離婚は元はと言えば龍彦の借金のせいで、今になれば彼を思いやれなかった自分にも責任はあると思っていたが、母親には関係ない。
「おかあさんのせいなんかじゃ」
「違う、違う、あたしのせい」
涙でぐしょぐしょになった目や頬をハンカチで拭いてやると、彼女は言った。
「借金を肩代わりするから、玲ちゃんと離婚しな、って言ったのはあたしと真澄なんだ」
玲子はびくっとしてハンカチを取り落とした。
「最後の借金の時、あたしが保証人で。取り立ての人はまともじゃなくて、玲ちゃんや夏樹や里奈も何されるかわかんなかった。あたしと真澄でお金は出すから、離婚して家族から離れろっていったのは、あたし。あたしなんだよ」
あの時、離婚届を持ってきた龍彦は、ただ離婚してくれの一点張り。違和感を感じていたが、彼の意志が固いことだけは分かった。愛情深かった彼。家族を手放すなんてよほどのことだ、と玲子は最後には泣く泣く離婚を承諾した。全てに合点がいく。
「あの後、この家を抵当に入れて、あたしと龍彦は生活保護になっちゃった。そのうち借金の取り立て屋が阿漕なやり方してたのがわかって捕まって、家が戻ってきたのがやっと数年前。その時には食堂はつぶされてこんなハイカラな建物になっちゃってて。でも生活保護も打ち切られたからしかたなくこのまま民宿でもやろうかって言ってたとこで、あたしが転んで手足が効かなくなって」
知らなかった、何も。自分は愛想を尽かされたのだと泣いて、心の中で散々龍彦を責めて、酒に溺れ、他の男に走って。何も知らずに、私は。
「一番悪いのは龍彦。でも玲ちゃんのことはずっと……」
彼女が必死で言葉を継ごうとした時、
「早いけど昼飯だ」
龍彦が現れた。はっとしてふたりは黙るが、母親の泣き顔は隠せない。
「お袋、何か余計なこと言ってないだろうな?」
彼はふざけて凄んでみせる。だがそれ以上は詮索しなかった。彼は近くにあったテーブルを引き寄せてランチのプレートとアイス珈琲の入った銅製のカップを置く。プレートには、脂ののった魚のグリルとサラダ、そしてガーリックライスが乗っていた。
「ガーリックライス!」
それは思い出の味だった。忙しい時に龍彦がよく作ってくれたメニュー。醤油味とニンニクのパンチのきいた味付けで、玲子も子供達も大好きだった。玲子が何度やっても同じ味にはならなくて、秘訣があるらしいのだが教えてくれない。彼は片目をつぶってよく言ったものだ。『コツを教えたら、俺が作ってやれなくなるだろ?』と。
「魚とサラダはランチメニューだが、ガーリックライスは玲子だけ特別な」
「ありがと!……と」
玲子は食べられない龍彦の母を申し訳な思いで見た。
「大丈夫。お袋もプリンなら食べられるんだ。後でおやつの時な」
「食べて、玲ちゃん」
ふたりが言うので、礼をしながらありがたくいただく事にした。何年振りだろう。湯気が立つそれにスプーンを入れる。口に運べばふわっと香ばしい香りが満ちて、噛みしめればコクのあるうまみが口中に広がった。
「これこれ! ああ、懐かしい。夏樹や里奈にも食べさせてあげたいなあ」
思わず顔を綻ばせる玲子に、
「……食べたよ」
龍彦はぼそっと呟いた。
「えっ」
「こないだふたりで来た時、食わしてやった」
玲子がスプーンを持ったまま勢いよく立ち上がる。
「いつの間に、あの子たちに会ったの!」
「……悪い。賢のお節介が教えたらしい。先週かな、結婚が決まった、ってここに報告に来て」
玲子は唇を噛んだ。賢ちゃんも、亮ちゃんも、夏樹も、里奈も! 皆、私に黙って! そこで、ピンとくるものがあった。
「……もしかして今日、私がくるのも、知ってた?」
賢たちには今日行くことを言ってある。案の定、龍彦はばつの悪そうな顔をした。道理で久しぶりに会っても驚かなかった訳だ。スプーンを持つ手がかたかた震える。
「結婚の話、知ってるんだったら、私が言うことはないわ。帰る!」
スプーンを置いて、荷物を取ろうとした。
「玲子」
玲子の肩に龍彦が手を置いた。
「悪いがもうすぐランチタイムなんだ。俺の代わりにお袋の胃瘻止めてくれるって約束だろ? なあ、玲子。いい子だから、冷めないうちに俺の久しぶりの飯を食っていけよ」
『いい子だから』。
その一言に玲子は龍彦を見上げた。いい大人なのに、昔から何度この言葉に絆されただろう。
『いい子だから』。それは玲子が拗ねた時に龍彦がよく言った台詞だった。宥めるようなその声の調子。愛しそうに髪を撫でてくる大きな手。今でも思い出せる、甘い記憶——胸が、疼く。
「……いればいいんでしょ」
再び椅子に腰を下ろした玲子を満足そうに見ながら、
「夕方、手が空くまでな。悪い」
そう言ってまたキッチンに戻っていった。
ランチの時間になると彼の姉の真澄も手伝いに来た。彼女も玲子を認めるとびっくりするやら泣き出すやらで、大変な騒ぎだった。
「本当に玲子さんには苦労ばかりかけたわね。あの時は本当に仕方なくて」
真澄も同じような事を言って玲子に謝った。どうやら借金をきれいにして玲子たちを守るために離婚を迫ったのは本当らしい。龍彦がもし本当のことを言ってくれていたら、とも考える。そうしたらもっと別な人生があったろうか。わからない。答えは出ない。
龍彦は本当によく働いていた。この辺には洋風のランチを出す店が少ないらしく、ツーリングやサーフィンの若者が結構訪れるという。
「梅雨が明けたら今度は泊まりのお客が来るよ」
母親が言って微笑んだ。
「あの子は昔からやんちゃだったし、サーフィンもバイクもやってたから若い子とも話がはずむらしいんだ。また来てくれる子も多いって」
今になってみれば、彼の天職のような仕事ではないか。彼はこの港町から都会に飛び出したくて調理師学校卒業を機に笠倉町のレストランに就職した。玲子や賢と出会ったのはその頃だ。それが巡り巡って結局故郷へ。
「あの人がこんなに働き者だとは思わなかった。わかんないもんですねえ。」
予想がつかないから人生は面白い、なんて、余裕のある人の台詞だと思っていたけど。離婚してここに来た龍彦も、今現在ここにいる自分も、あの頃誰が想像しただろう。
「楽ではないけど、生活保護や借金があった頃に比べたら、わきゃないやね」
龍彦の母もそう言って目を細めた。
「……あ、終わりましたね」
ふと見れば母親の栄養剤のボトルは空になっており、玲子は処置のために立ち上がった。




