ゲッチャバック!〜玲子と龍彦(1)
2012年6月からのお話で「山猫の手懐け方」とリンクしています。気障なアラフィフの恋はちょっと、という方はスルーして下さい。
前話「白鳥の水かき(3)」の続きから始まる物語です。
夜6時半、バータイムのJuneには、ちょっとふてくされた男がひとり。
「あれ、今日順ちゃん、いないの?」
これで何人目だろうか。常連の亮が言った何気ない台詞に、Juneのマスター賢は苦笑いして、順の夫である海の方を顎でしゃくった。
「亮、それを言うなって。ヤツの機嫌が悪くなるから」
「聞こえてますよー」
海はにっこり微笑んだ。
「順さんはいませんが、下ごしらえだけは“きっちり”していってくれました。ちゃんとお食事も出来ますよ? どうぞなんなりとお申し付けください?」
がちゃがちゃと盛大な音をたてて食器を洗っている。賢は肩をすくめて、な? と目配せする。
「今日はお祝いでね。誠也と暮らしてる1階の“ブルーム”の里奈ちゃん、知ってるだろ? あの子の兄貴の結婚が決まって、誠也のとこでパーティするんだと。里奈ちゃんから料理を教えて欲しいって言われて、順が駆り出されてるんだ。代わりに海がピンチヒッターでうちのキッチンをね」
「順さんに言われた『お留守番お願いね』が、まさか店のこととは思いませんでしたよ。賢さんから『遅い』って電話もらったときには何のことかと」
「結構抜けてるよな、順も」
「新婚惚けじゃないの? 海くん、かわいがるのもほどほどにね?」
冷やかされて海はやっとうれしそうに微笑んだ。
その時、からんからん、とドアベルがなって、一人の女性が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
年の頃は40くらいだろうか。歩くたび肩にかかるストレートの髪がつややかに揺れる。鮮やかなブルーのシャツが白い肌に映え、麻のタイトスカートから伸びた足のラインも美しくハイヒールが良く似合った。彼女は迷うことなくまっすぐにカウンターに向かう。
「こんばんは」
「おお、何だ、玲子!」
賢は目を見開いた。
「ええ、玲ちゃん?」
カウンターで話していた常連の亮も驚いて立ち上がった。
「亮ちゃん久しぶりね。賢ちゃん、いつも里奈のこと頼みっぱなしで、ごめんなさい」
「?」
海は彼女の顔をまじまじと見た。小作りの顔、子鹿みたいなつぶらな瞳。
「……もしかして、里奈ちゃんのお母さんですか?」
玲子と呼ばれた女性は、海にぺこりと頭を下げた。その仕草も里奈にそっくりだ。
「若いお母さんですね……」
正直に感想を漏らすと、賢はにやりとした。
「元々童顔だから若く見えるけど、こう見えてもアラフィフなんだぜ」
「ええっ」
「ちょっと賢ちゃん! それルール違反」
玲子が眉を上げた。
「悪い悪い。それだってオブラートに包んだじゃないか」
賢は手を合わせながら、海に向き直った。
「玲子は昔からの友達なんだ。実は結婚式のパーティにも呼んで来てくれてたんだけど、子供達に内緒、って言うから紹介できなかった」
この母親が恋多き女性だったために、大学生だった夏樹が高校生の里奈を連れてふたりで暮らしていたことは伝え聞いていた。今も行き来がないわけではないらしいが、複雑な事情があるのだろうということは察しがつく。
「玲子が俺や千春の友達だってこと、未だに里奈ちゃんは知らないんだ。里奈ちゃんの実力で就職して、そこがたまたま千春の持ちビルだっただけなんだけど。縁故入社だなんて勘ぐられると困る、って玲子に口止めされてね」
玲子はばつが悪そうに微笑んだ。
「あ、この男が順の旦那の海」
「初めまして。いつも里奈がお世話になってます。とってもいいお式だったわ。素敵な旦那様で順ちゃんも幸せね」
海は顔を綻ばせた。
「それより、ここに来るなんて、どういう風の吹き回しだい? 里奈ちゃんと鉢合わせするからって、あの子が就職して以来ほとんど寄りつかなかったのに」
玲子はそれには答えず、カウンター席に腰を下ろした。
「折り入って賢ちゃんと千春に相談があるんだけど」
そう言われると、常連の亮が立ち上がった。
「俺、千春ちゃんの様子見てきてやろうか」
彼も古いつきあいだ。バーの店主をしているせいか、妙に察しがいい。
「悪いな、亮。そろそろ仕事も終わる時間だと思うんだが。頼む」
「いや、他ならぬ、俺たちのマドンナ、玲ちゃんのためだ」
「もういい歳なのに、そんなこと言ってくれるのは亮ちゃんだけ。相変わらず優しいのね」
「よせやい。それ以上俺をその気にさせるなよ?」
彼はおどけて片目を瞑り、足早に去っていった。
替わって千春がやってきた。
「玲子!」
会うなり千春は玲子を抱きしめた。
「結婚式はありがとう。どうしたのよ。今日は」
「ごめんなさいね。里奈を預けっぱなしで」
「私は何にも。良くやってくれてて、真也も本当に頼りにしてるのよ? あ、玲子もいつものでいい?」
千春が確認をしないうちから、賢はかつかつと氷を丸く削っていた。切り子細工のふたつの青いグラスに丸氷を入れると、ウイスキーを注ぎ入れ両手でバースプーンを持ってふたつのグラスをくるくるとステアする。ほどよく冷えたところでふたりの前にことんと置いた。もう何を飲むかは暗黙の了解。そんな付き合いだ。
「玲子は今誰かと暮らしてるの?」
千春が当然のことのように言うので、思わず玲子は苦笑した。
「千春ねえ、私だってもうそんな事ばかりしてないって。最後の男と切れて何年になるかなあ。もうしばらく自由気ままなおひとり様よ」
賢が煙草を勧めるが、玲子は断った。
「煙草は止めたの。職場が禁煙だから」
「おいおい。玲子が煙草まで止めるって」
「もう若くないから命も惜しいし?」
肩をすくめる玲子に、賢はため息をつく。
「玲子が命乞いをするようじゃ世も末だな……仕事は何を?」
「介護ヘルパーよ」
その途端、夫婦が同時に声を上げた
「介護ヘルパー?!」
「何よ……」
玲子はふてくされて頬杖をついた。
「玲子がそんな堅実で大変そうな仕事につくなんて」
「ちゃんと研修も受けて資格とったんですからね! そんなに見入りのいい仕事じゃないかもしれないけどやり甲斐あるし、いろんな家庭が見られて小説書くのにも参考になるわ。私、両親も祖父母も早くに亡くしてるでしょ。お年寄りと話すの好きなのよ。結構合っているのかも」
「まだ小説書いてるの」
「まあね。子供達にも呆れられてるわ。夢を見るのもいい加減にしろって」
「あら、会ってるんだ?」
千春は意外そうな顔をした。
「そ、こっちからはどの面下げて、って言われそうで会いに行きたくても行けないでしょう。最近夏樹が生意気にも私の心配してくれて、時々里奈と一緒に来てくれるの。親はなくても子は育つってね。ほんと出来がいい息子ってのも、やんなっちゃう」
「あなたが一生懸命育てたからふたりともいい子なんじゃないの」
千春が言うと、賢も頷いた。
「そう言えば、昼間、兄妹揃ってきてたな、里奈ちゃんと夏樹くん。夏樹くんも結婚するって、婚約者を連れてきてたけど」
「ええ、その後うちにも来たのよ。突然兄妹揃って相手を連れてくるから、面食らったわ。ま、里奈の方はね、パーティの時さんざん見せつけられちゃったけど。まさかあんたたちと親戚になるとはね?」
玲子が苦笑すると、千春は彼女の手を握った。
「ごめんね! もう誠也ったらやりたい放題で」
「真也くんもよ。人の息子巻き込んで、なに変な茶番劇やってんのよ」
「はは、あれは真也と智ちゃんの入れ知恵らしい。でも夏樹くんだってノリノリだったぜ?」
「全くねえ、この歳になって、”愛こそすべて”が流れるチーク・タイムで娘のキスシーンに遭遇するとはね」
ウイスキーをくい、と煽ると、玲子の白い喉が動いた。相変わらずいい飲みっぷり、と千春が呟く。
「”愛こそすべて”かあ。70年代のブラックミュージックがよくかかってたディスコ、“ラジオシティ”、だっけ? あそこのチークの定番だったよね。玲子だって、あの曲でたっちゃんと散々キスしてた」
千春が肘で突くと、玲子はふう、と息を吐いた。
「何十年前の話よ。で、その龍彦のことなんだけど」
玲子は賢と千春を真剣な目で見上げた。
「あの人の居場所、知らない?」
里奈の母玲子は高卒で飲食店に勤め始めた頃、仕事帰りに遊びに行った夜の街で賢や千春と知り合った。彼らはいつも連んではディスコやプールバーで遊んでいた。先程帰った亮や、賢の妻だった今は亡き真弓、そして玲子の離婚した夫、龍彦も一緒に。
皆の反対をうけながら小説家を目指していた玲子を、唯一理解して無条件に愛してくれたのが龍彦だった。
「玲子の小説は味がある。うまく言えないけど読むといつも何かぐっと来て、最後に幸せな気分になるんだよ。絶対続けろって」
龍彦はいつも明るくて奔放でいいかげんで、それでも憎めない男だった。「支配からの脱却」だと言っては様々な立ち入り禁止エリアに忍び込んでつかまったり、アメリカを放浪すると言っては資金不足で1ヶ月もしないうちに帰ってきた。それでも玲子は不器用だが愛情深い彼に恋をし、結婚した。夢見がちな彼は子供が出来てからも、猫のブリーダーだの森林のオーナーだのと、とりとめのない職については失敗し、借金ばかりが増えていった。玲子も仕方なく水商売などに勤め始めたが、それが龍彦の怒りを買った。
「他の男なんかにべたべた触らせるな!」
「好きでやってるんじゃないわ! あなたが不甲斐ないからじゃないの!」
どんな状態であっても玲子は龍彦を愛していた。だから彼が突然離婚届を持ってきたときは身を切るような思いだったが、それが彼の意志なら、と言われるがままサインした。ふたりの子供を抱え、玲子は身を粉にして働いた。小説を書いている暇などは到底ない。寂しさや思うようにならない生活に疲れて酒に溺れ、よく知らない男とも付き合った。しかし誰も龍彦の代わりにはならない。すぐに別れが来て、また新しい男が家に転がり込む。当時息子の夏樹は大学生。母の弱さは許せるものではないが、それもまた父や生活のせいだということを理解出来る年だった。夏樹は高校生になったばかりの里奈への影響を考え、ふたりで暮らしたいと持ちかけた。幸い離婚した玲子に龍彦の借金が被ることはなく、当時の玲子の交際相手も玲子とふたりで暮らすために資金は惜しまなかった。結局その男とも別れてしまったが、その頃には夏樹は社会人となり、自分で稼げるようになっていた。
「たっちゃん、海辺の民宿をやるって、賢に持ちかけてたんでしょ」
千春が言った。
「そうそう。去年は俺もいろいろあって、Juneを畳んでどこか行こうと思ってたんだ。そんな時、亮のバーで偶然たっちゃんに会って」
さっきまでいた亮は店が休みの月曜はこうしてJuneに飲みに来る。賢も結婚前にはよく亮の店に行った。
「『今何してんの』って聞いたら、『海辺の民宿をやるつもり』っていうからさ。じゃあ渡りに船で世話になろうと思ったわけ。結局はま、こいつに引き留められたというか……」
賢は千春を顎でしゃくって照れくさそうに頭を掻いた。
「たっちゃんには、断りの電話を入れた。突然の『いち抜けた』だもんな、相当な痛手だったと思うのに、『お前はそれでいいんだよ』っていつもの調子で笑って許してくれたんだ。『結婚式には呼んでくれ』って言ってたから招待状出したんだけど、欠席で返ってきてたな」
賢は、奥の引き出しから、住所録を出してきた。
「ここの住所で間違いないと思うけど」
玲子は自分のバッグから細身のボールペンと手帳を取りだし、差し出されたその頁を写そうとしたが、手が止まった。
「ここって……」
玲子が龍彦の元へと向かったのはJuneを訪れてから2週間以上たった7月上旬のことだった。電車を乗り継いで3時間以上はかかる所で、仕事が休みの日でなければ無理だったのだ。ヘルパーの仕事は不規則で、夜間もあれば早い時間もあり、調整に手間取った。
迷いもあった。今更会わない方がいいのではないか。ただ紛いなりにも彼は夏樹と里奈の父親だ。連絡しないのはフェアではない。そしてそれを電話でうまく伝えらえるか、玲子には自信がなかった。
10年振りに降り立った最寄りの駅は、あまり変わり映えしていないようだ。大きな行楽地もない。ただ豊かな海があって、自然があって。そんな町。
——龍彦の故郷。
彼の父親は漁師で海難事故のため亡くなったと聞いた。彼を女手ひとつで育てた母親は、海辺の大衆食堂をひとりで切り盛りしていた。龍彦は親にしてみれば心配ばかりかける放蕩息子。負い目のためか極力実家には帰りたがらなかった。早くに両親を亡くした玲子は、龍彦に親がいるありがたみを蕩々と説き、彼を無理矢理引っ張っていっては母親を喜ばせた。そんな玲子をかわいがってくれた龍彦の母。龍彦が自分からこの町に帰るなんて、何があったのだろう。
玲子は駅を出てから北へ、記憶を辿りながら歩いて彼の実家に向かう。タクシーを拾ってもよかったが、潮風に当たって歩いてみたかった。海を見るのも何年振りだろう。仕事をして、生活の合間に小説を書いて。仕事以外では買い物すら極力出かけない玲子はこうして外気に触れて歩くこと自体しばらくないことだった。幸い道は海岸沿いを歩いて行けば駅から徒歩で15分ほど、漁港の近くに彼の実家はあったはずだ。パンプスでも何とか辿り着けるだろう。白いジャケットを脱ぎ、エメラルドグリーンのノースリーブのブラウス姿で歩き出す。
その時後ろから派手にクラクションを鳴らされた。振り返れば古い形の赤いピックアップトラックだ。後ろには段ボールや発砲スチロールの箱が詰め込まれている。運転席の窓が開いて、青いアロハシャツにサングラスの男が首を出した。日に焼けた顔がにっ、と笑えば、口元から白い歯がこぼれる。
「ハイ、そこの彼女。きれいな脚してるねえ。一度お手合わせ願いたいな」
玲子がぎょっとして逃げようとすると、彼はサングラスをさっと取った。
「よっ」
と微笑みかける。痩せて顔の皺は増えたけれど、きらきらと悪戯っ子のように輝く瞳、片頬をきゅっと上げるその笑い方。
彼女が覚えていたとおりの、龍彦だった。