白鳥の水かき〜夏樹と由良(3)
「2階なら階段だね」
そう言って夏樹はさらに由良の背中を強く押した。
「ちょっと何」
あまりに強く押すので、身体がよろける。手を振って見送る真也の姿が見えなくなると、夏樹は由良に顔を近づけて囁いた。
「見とれてたでしょ、真也さんに」
「えっ」
やば、ばれた?
「……由良」
夏樹を取り巻く空気が変わる。
可愛い年下の男の子から、由良を渇望するただの男へ。
「きゃ」
階段の入り口で、入り組んだ角の壁に肩を押しつけられる。売場からは死角になって見えない。夏樹の目がきらりと輝く。
「由良、君は……誰のもの?」
彼は由良の左手を持ち上げ、目の高さで薬指のリングをゆっくりと撫でる。
「言って。誰のもの?」
「な、夏樹の……です」
上擦った声で告げると、彼は頷きながら満足そうに微笑んだ。
「宜しい」
そのまま両手を捕られ、ピンで止めたように顔の脇に押しつけられて、夏樹の顔が傾いた。
「俺のものなら、俺だけ……見て?」
唇が重なる。
しっとりと合わせられた後、隙をぬって、深く。
こんなところで、と初めは分別もあったのに、週末のお泊まりがなかった分、キスも久しぶりで、始まればついのめり込んでしまう。いつしか由良の手は夏樹の首に掛かり、夏樹も腰にしっかりと手を回し由良の身体を引きつけた。
「ん」
思わず声が……。
って、え?
私の声じゃない?
「ふ、うん……」
微かだが上の方から、甘い吐息混じりの声が漏れてくる。思わず唇を離して、夏樹と目を合わせた。夏樹は、にやっと笑うと人差し指を立てて、くいくいっと上を指さす。え、まさか。覗きに行こうって言うの? 無言で首を振る。そんな趣味はない。ちょっと! 止めようよ! 夏樹はシャツを引っ張る由良に構わず、足音を忍ばせてゆっくりと階段を上がる。
「……は」
近い。多分2階の踊り場だ。すでにリップ音が響いて、何をしているのは明白。音だけ、というのは、ある意味視覚より刺激的だ。由良は真っ赤になりながら夏樹の後を追った。夏樹の足が止まる。由良は背中越しに向こうを覗き込んだ。
茶色い髪を逆立たせた男が踊り場の隅に身体を滑り込ませ、すらりと長い左足をつっかえ棒の様に壁に投げ出している。その踊り場の角と彼の左足が作る三角形の中に、艶やかな髪の小柄な女の子が閉じ込められていた。彼の手がその髪を掻き上げるように彼女の頬を引き寄せ、愛おしそうに口づけている。
「ん、里奈……」
一瞬離した唇から彼が漏らした名前に、夏樹がぶっ! と吹き出した。もしや。
「……妹さん?」
ふたりの声に、男が顔を上げる。大きな端のつり上がった瞳、整った鼻筋。夏樹を見た彼が、にやりと唇の端を上げた。その口元がさっき会った真也にそっくり。
「ああ、夏樹さん。こんにちは」
彼は堂々としたもので、さすがに足は戻したものの、抱きしめている里奈を離そうとはしない。
「お前ら、一緒に住んでんだろ! こんなとこで何やってんだよ!」
自分たちのことは棚に上げて、と思ったが、由良は黙っていた。
「な、夏樹なのっ? 何で!」
男のされるままになっていた里奈は、ぱっと一瞬振り向いたが、恥ずかしくなったのか再び彼の胸の中に収まり俯いてしまう。里奈を庇いながら何故か得意げにこちらを見る男に、夏樹は舌打ちした。
「ご挨拶だな、里奈。由良を連れてきたんだけど?」
「えっ!」
里奈は、ぱっと振り向き、由良を見ると顔を輝かせた。
「わあっ、初めまして、里奈です! あの珊瑚の薔薇、ありがとうございました! 由良さんのことはいつも兄から聞いてるんですよ!」
あの写真通り、艶やかな長い髪。細く長い首、小作りな顔。子鹿みたいなつぶらな瞳が夏樹そっくり。
「里奈ちゃん、可愛い!」
由良が叫ぶと、シスコン夏樹と真也の弟はうんうんと頷いている。ご機嫌な真也の弟はすっと一歩進み出て、まるで騎士のような手振りで由良に会釈した。
「初めまして、里奈の婚約者の神崎誠也です。ここの5階で美容師をしてます。以後お見知りおきを」
美容師。なるほどこの人も女心を掴むのがうまそう。心なしか“婚約者”という響きが誇らしげで。夏樹と張り合っている様に見えるのは気のせい?
「……高梨、由良です」
彼の色っぽい眼力に圧倒されそう。また夏樹に妬かれてはたまらないので、名前を言ってすばやく頭を下げた。しかし脇から夏樹が肘で小突く。えっ、そんなに見つめてないし! しかし夏樹の意図は違っていた。
「由良も、言って?」
にっこりと促す。『由良も』って……もしかして。え、やだ、ここで? 恥ずかしくて言い渋っていると、ほら、と又突かれる。許してくれないんだ。由良は、はあっと息をついた。
「えっと……夏樹さんの婚約者……です」
「きゃー!」
由良の語尾に里奈の歓声が被る。驚いて里奈の方を見ると、夏樹の元に近付いて彼の腕を掴みゆさゆさと揺さ振っている。
「ほんと、ほんと? ねえ、夏樹、ついに渡したの、指輪!」
「まあな」
「やったー!!」
「なんでお前が『やった』なんだよ」
「だって、うれしくて。もう2年越しじゃない!」
ぴょんぴょんはねる里奈に由良が尋ねた。
「……2年越し、って?」
里奈は動きを止めてえへへ、と夏樹と由良を交互に見た。
「兄は最初っから由良さんに指輪を贈りたがってたんですよ。『サイズを知りたいんだけどどうしたらいい?』って言うから、私の誕生日にかこつけて由良さんを店に連れて行って、指輪嵌めちゃえ! って入れ知恵したのは私」
里奈はぺろりと舌を出す。
「え、だってあの頃つきあってもいなくて」
「でしょう? だから『いきなり指輪は重い!』って、止めたんですよ。その後はタイミングを図ってたみたいですけど、震災もあったし仕事も忙しくて延び延びになっちゃったらしくて。今年も『一年経ってサイズ違ってたら困る。もう一回あの店に連れて行って計ってもらうから』なんて、もうすごい気合いの入れようで」
知らない、そんな事。呆然とする由良に里奈が一言。
「夏樹、結構ええ格好しいだもんねえ」
夏樹は、何言ってんだよ、と里奈を蹴る真似をした。
「どんだけ由良さんのことを聞かされたか。男並に仕事が出来て会社ではバリキャリ風なのに、ふたりきりの時はすっごく甘えてくるのがたまらないとか! 土曜のカフェに毎週顔出したら、しつこいって嫌われないかな、なんて、相談も随分うけましたよ? だから私、由良さんが初めて会ったような気がしなくって!」
「やめろよ、もう!」
夏樹は珍しく照れまくって真っ赤になった。
入社した頃は頼りなかった夏樹。でも今は仕事でもプライベートでもスマートでそつがなくて。自分ばかりが彼に翻弄させられているような気がしてた。だけど本当は随分前から私の為にこんなに奮闘してくれていた?
今日は彼にやられっ放しの一日。悔しいから、弱っている所でせめてもの仕返しを。
「そう言うのなんて言うんだっけ……白鳥の水かき?」
由良が言うと、里奈がなんですか、それ? と問いかける。
「澄まして水面を進んでても、実は水面下では、じたばた必死で水かきを動かしてるってこと」
「あはは、ぴったり」
しかし夏樹は意に介さず、由良の顔を愛しげに見つめた。
「じたばたしてるのは、いっつも由良に水底から引っ張られてるからだよ?」
立ち直りが早いのは彼の長所。にんまり笑って返され、由良は憤慨した。
「そんなことない!」
そこで誠也が口を挟んだ。
「夏樹さん、由良さん。よかったら今夜うち来ません? 一緒にお祝いしましょうよ。里奈の独創的な料理で、いてっ」
最後は里奈に叩かれて悲鳴になった。
「いや、今夜は反省会なんで」
夏樹は由良の肩をしっかり抱いた。
「反省って私〜?!」
「当然。俺がどれだけ準備に注ぎ込んだか。由良は男の純情をわかってない!」
「ええっ! 悪いのは青木くんでしょう!」
「ほう? 海がどうしました?」
青木海の名を聞いて、誠也が俄然やる気を見せた。夏樹が事の次第を説明すると、
「なるほど。あいつ最近ちょっと調子に乗ってるからな、少しシメてやるか」
と夏樹と微笑み合う。
「では意趣返しと洒落込みますか」
「ええっ?」
「まずは、Juneで新妻の順にヤツの弱点を訊こう!」
誠也は笑いながら里奈の手を引いて駆け出した。
「俺たちも行こ。あ、その前に」
夏樹は誠也達が背を向けているのをいいことに、由良の唇に啄むようなキスをひとつ落とし、いたずらっ子のように微笑んだ。
「さっきの仕上げ」
そう言って夏樹も由良の手を引いて、誠也達の後を追った。
さて、次の月曜日。火曜が休みの神崎ビルの週末。
「夕べは随分パン仕込んでたけど、今日大口か何かあった?」
Juneにランチを食べに来た海がカウンターの順に話しかける。
海はまだ修行中の身で、将来Juneで腕をふるうべく、調理師免許を取るためバーナードカフェに勤務している。それでも昼休憩がランチタイムに合えば合間を縫ってバイクでJuneにやってくるのだ。もう家に帰ればいつでも会えるというのに、彼は順と彼女のサンドイッチを愛して止まない。
「ごめん、言うの忘れてたわ。ほら、里奈ちゃんのお兄さん……夏樹さん、だっけ? 今度結婚することになったんですって。そのふたりを招いて今夜誠ちゃんちでパーティをすることになったの」
「ふうん」
夏樹の結婚の話は当然知っていたが、順に先日の失態を話したくない海は、黙って聞き役に徹した。
「誠ちゃんの新居、すごいキッチンなのよ。里奈ちゃんが私に料理を習いたいらしくて、今夜はお祝いついでにまずはサンドイッチの作り方を教えることになってるの。誠ちゃんたちの提案でサンドイッチパーティになったのよ」
「サンドイッチ・パーティ!」
その響きに思わずうっとりする海。パン好きの彼にとっては、順のサンドイッチがどっさりある光景は宝の山だ。
「夕べからひっきりなしでパン焼いて大変だったわ。そういうわけで今夜はお留守番お願いね」
「えっ! 俺は?」
話の流れから当然自分も参加だと思っていた海は面食らう。
「だって、誘われてないもの」
「俺のこと訊いてくれなかったの? 『主人も参加していいでしょうか』とかさ!」
「やだ、主人なんて言えないわよ!」
否定するの、そこじゃないだろ!
海の頭の中で、叶えられなかった欲望が渦巻く。
新婚の順との甘い週末、大好きなサンドイッチのパーティー。
——これで済むと思うなよ?いつか仕返ししてやるからな。覚えとけ。
海の脳裏に、可愛い顔をした男の低い声が響く。
「……そうか、やられた。きっと夏樹さんだ」
「え?」
「なんでもない!」
やっぱり、俺、浮かれてたのかも。
出来心が高く付いた。
今夜の夕飯どうしよう。
海は深々とため息をつくのだった。
Fin
夏樹と由良のお話はこれでおしまいです。
今後も不定期連載でいろいろなカップルが登場する予定です。
申し訳ありませんが、気長にお待ち下さいませ。
読んでくれたあなたにも幸せのお裾分けを。xxx!
ありがとうございました。