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バレンタインは特別〜聖と史緒(2)

「いつの間に海くんとかオーナーとか味方につけてんだよ。これで食わなきゃ俺悪者じゃん。ずりーぞ、お前」

 聖はひとくさり文句を言うと、それでも、ぱくり、とブラウニーを口に入れた。

 黙ってゆっくり、もぐもぐと噛む。彼は満腹感を得るために噛む回数を多くしているのだ。最後に目を瞑って、ごくりと飲み込む。まるで居合抜きの前の精神統一みたいだ。

 やがてぱちりと目が開いた。固唾を飲んで見守る史緒の視線に気付き、はあ、と息を吐く。

「……甘さ押さえてる分、柚子の皮が効いてる……悪くはねえ」

 彼は無表情で残りのブラウニーも口に入れた。

「あ……よかった」

 史緒がほっとする傍らで、彼はひと切れ全部を食べ終える。残ったもうひと切れのブラウニーは袋に戻し、鞄にしまうと立ち上がった。

「こっちは明日食う。日持ちすんだろ? お前のせいで、この2日はメシ減らすか、トレーニング増やすかだ。じゃ、俺は行くからな?」

「あ、はい、ありがとうございました、って、待って!」

 史緒は急いで自分のラテを口にした。

「あ、あちっ!」

 悲鳴に驚いて背を向けた聖が振り帰り、史緒の顔を覗き込む。

「何だよ。馬鹿、慌てんなって」

 澄んだ眼の色がすぐ目の前に。近すぎる距離にどきどきした。

「だ、だって、聖さんが行っちゃうと思って」

 小さな舌打ちが聞こえた。

「……たく。世話の焼ける」

 再びがたんと椅子に掛けると、長い足を組む。

「ゆっくり飲め」

「はいっ。すみませんっ」

 史緒がラテをそれでも出来る限り急いで飲んでいると、聖は自分の胸ポケットから黒い携帯電話を取りだした。暇つぶしにサイトでも見るのかな、と思ったら、彼はポケットから史緒の作ったフルートのマスコットを出す。難しい顔をして、そのストラップを携帯の穴に通している。

(えっ?)

 彼は何とかストラップをつけ終わると、携帯を史緒の前に突き出した。ぶら下げたフルートのマスコットが揺れる。

「どうだ」

 彼はあくまでも真顔だ。

(どうだ、と言われても!)

 史緒はどうしていいか分からない。とりあえず礼を言う。

「うれしいです! ありがとうございます! あ! そうだ!」

 慌てて自分の白い携帯を出した。

「じゃーん。実はこのストラップ、お揃いなんですよ!」

 下がっているのは、聖と同じ、青いフルートのマスコット。

 聖の眉間にしわが寄る。

「貸せ!」 

「あ!」

 携帯を取り上げられて、史緒は悲鳴を上げる。

「やっ、返して下さい! そのマスコットだけは! 一生懸命作ったんですよう!」

「いいから、お前は珈琲を飲んじまえ。飲み終わったら返してやる」

「は、はい!」

 猛ダッシュでラテをすする史緒を尻目に、聖は史緒の携帯をしげしげと眺めている。ディスプレイを見て『げっ』と声を上げた。

「これ、俺じゃん」

 そこには聖が顔出しで出演したVシネマの1シーンが映っていた。気迫に満ちた表情、空手の構えを取る上半身は指の先まで研ぎ澄まされ、右足は高々と空を切る。史緒1番のお気に入りだ。

「やっ、勝手に見ないでください!」

(まずい! 中まで見られたら!)

 実は彼が『美尻さん』と呼ばれる所以になった全裸写真も入っているのだ。慌てて飲み干してマグカップを置いた途端。


——しゃらん。


「え?」


(今の音は……まさか)


 見れば、聖がふたつの携帯を合わせ持ち、赤外線通信をしているではないか。

「聖さん、な、何をして」

「お前が悪さしたときのための保険だ。ほらよ」

 携帯を史緒に放ると、自分の携帯をしまい、ふたり分の空になったマグカップを持って立ち上がる。彼の所作には無駄がない。

「あ、ありがとうございます! ていうか、え、待って!」

 彼の不可解な言動の理由を考えている暇もない。

 きびきびと大股で去っていく後ろ姿を追いかけた。

 返却口にマグカップを返す姿でさえ惚れ惚れする。


 力強い腕、広い肩から続く姿勢のいい背中。

 そして引き締まった魅惑の美尻。  


「お前なあ、じろじろ見んなよ」

 振り返って苦い顔をされた。

(ぎゃっ、背中にも目がある!)

「すいません!」

 史緒がぺこぺこと謝るうち、

「ごちそうさん」

 聖は海とオーナーに声を掛けると、さっさと出口に向かう。

 史緒も礼をすると、エプロン姿の男たちはこっそり史緒に親指を立ててエールを送った。


 聖の足は速い。すぐさま早足で追いかけた。公園を突っ切って行くつもりなのか、ずんずんと中に入っていく。

 暮れかけた公園の中は、もう子供たちも帰り、ほとんど人影もない。

 史緒の手の中には、聖と番号を交換した携帯。

 ふと、欲が出た。

(ええい、今日はバレンタインだ。どうせ気持ちは知られたんだし、思い切ってお願いしてみよう)

 聖の背中に声をかける。

「あ、あの、その、聖さん!」

「ん?」

 突然聖が立ち止まったので、その背中に、ぼすっと顔が埋まった。

「わっ」

 皮のジャケットから、野性味走った男らしい香りが漂ってくらくらする。

「おい、大丈夫かよ」

 振り返ってふらつく史緒の手を取った。ごつくて硬い聖の手にかかると、史緒の手は子供みたいだ。

(手、繋いでる!)

 それだけで舞い上がってしまい、言葉が出てこない。

「あ、あの」

「何だ?」

 手を取ったまま、聖が屈む。また顔が近くなって、動悸が激しくなった。

「えっと! もし、もしよかったらなんですけど!」

 聖の眉が上がる。怒られてしまうだろうか。

「さっき、アドレスも交換したわけですよね? だから、あの、メール! メールしても、いいですか?」 

 握られた手が汗ばむのが気になって仕方ない。


「……いいんじゃねえの?」


 聖が一歩前に出るから、驚いて後ろに下がる。

 舌打ちする聖にびくついて、また一歩下がると、背中にジャングルジムが当たる。

 聖は握っていた史緒の手を上げると、もう一方の手も携帯ごと握り、両手を万歳をさせるようにジャングルジムに押しつけた。その姿はさしずめ貼り付けられた蝶の標本のよう。

「あの、聖さん? 何のお仕置きですか、これ」

 自分の両手を見て、聖の顔を見る。充血したように赤く潤む聖の目は史緒を捕らえて離さない。

「え、あれ、私、怒らせちゃったんでしょうか?」

「……とことん鈍い女だな、お前」

「え?」


「菓子……ありがとな、うまかったよ。お前も味見する?」


 両手を取られた状態にパニックになり、彼が何を言っているのかわからない。慌ててぺらぺらと思いついたまま早口で喋る。

「ブ、ブラウニーのことですか? お気に召したならよかったです。実のところ散々失敗して嫌って言う程食べてるんで、もう味見は……」

 急に手が離された。

「わっ」

 ぐらついて転ぶ、と思ったとたん、身体が、ふわっと宙に浮く。

「きゃあっ」

 気がつけば、ジャングルジムのてっぺんの下、段になった部分にちょこんと座らされていた。

 何という早業。

 大人になってからこんなところに上ったことがない。史緒は鉄の棒に必死でしがみついた。

「や、やだ! 怖い! 下ろしてください!」

 そうしている間に、ぎし、ぎし、とジャングルジムが軋む音。

 彼が、上ってくる。

 史緒の足がぶら下がっている前を舐めるように通過し、目線が同じくらいまで来ると、そこで止まった。

 ——近い。

 獲物を狙う鷹のように、じっと睨め付けられる。

「ご、ごめんなさい! もうしません! ほ、ほんとにもう、ブラウニーは勘弁してください! ちょっと胸焼け気味なんですって!」

 何が彼を怒らせたのかも分からないまま、闇雲に謝り倒し、身体を離そうとした。しかしさすがに鍛えている聖は、足を鉄の棒にひっかけうまくバランスを取りながら史緒の頭と手を掴んだ。史緒が抵抗したところでびくともしない。

「遠慮すんな。味見しろって」

 いつもより、彼の声は幾分低い。

「そんな、遠慮なんて……ん!」


 唇に、柔らかな感触。

 ふわりとチョコレートの香り。


 ——えっ?


 戸惑っている間に唇は食まれて。

 甘い刺激が唇から全身に伝わっていく。

 頭が、とろけそう。


 聖は史緒の頬をしっかりと引きつけ、さらに口づけを深くする。

 飽くことなくキスが続き、ふらふらと身体が揺れた。ずるりと滑り落ちそうな身体を、逞しい腕がしっかり支える。


 ああ、この腕、この唇。

 聖さん、なの?


 そう思ったときに、唇が離される。

 ふわり、とまた身体が浮いて、地面に足がついた。

 よろけそうな身体を、聖が抱き留めてくれる。


「……んだよ」

 まじまじと聖を見つめていると、額をぴん、と指で弾かれた。

「聖さん、あの、私」

「お前さ」

 顎の線を指で辿られ、ぞくぞくする。

「ヘルシーな料理教室って……もしかして俺のため?」

 いきなりな質問に目を見張ったが、

「あ……は、はい」

 観念して返事をする。

 つきあってもいないのに、うざい、と思われたろうか。

「そっか」

 聖は憮然とした表情で頷くが。

(あれ、顔が……赤い?)

 史緒は聖の袖口を掴んだ。

「聖さん! あの、聖さんて私の事、どう思ってるんでしょう?」

 直球の質問に、聖は頭を掻く。

「どうって、お前は?」

 そう聞かれたら、答えるしかない。

「そ、そりゃあ好きです! 好きに決まってます! アクションとか演技のことだけじゃないですよ! 聖さんの性格とか、人柄とか! そういうの、全部ひっくるめて大好きなんです!」

「……よくもまあ、臆面もなくそんなこと言えるな」

 呆れたように言う彼に反論する。

「聖さんが言えっていうから! 聖さんはどうなんですか、私のこと!」

「じゃあ、俺もそれで」

 聖はぷい、とそっぽを向いて歩き出す。

「『それ』って、意味がわかんないです! ちゃんと言ってくださいよ!」

 慌てて追いかける史緒に、前を向いたまま、

「言わねえ」

 と言い捨てる。

「えええっ! 言ってくれなきゃわかんないですよう!」

 聖の袖を握って揺さ振る史緒に、

「……たく、うるせえなあ」

 そっと耳元に顔を寄せて。


「好きだ。俺の女になれよ」


 Bomb!


 それはメガトン級の破壊力。

「ひ、聖さぁん、それ、めちゃくちゃ卑怯です」

 腰を抜かして座り込む史緒。

 聖は愉快そうに笑って手を取ると、史緒のつむじに口づけた。




Fin

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