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湿度120%の世界

作者: あぜる
掲載日:2026/10/01

海でもプールでもない。

東京の街、渋谷の交差点で次々と人が「溺れ」る

「今日も全国的に湿度は100%です」


 テレビの中で、キャスターが諦めたような顔で頭を下げた。

1か月以上降り続く雨。見慣れた渋谷の街は、常にグレーの霧に包まれている。


 あの日、スクランブル交差点で起きた「集団溺死事件」から、世界は一変した。

乾いたアスファルトの上で、胸をかきむしりながら溺れていった人々。

司法解剖の結果は「肺水腫による溺死」


 海でもプールでもない。

渋谷の交差点で多くの人が「溺れた」のだ。


 警察は毒ガステロを疑ったが、有害物質などどこからも検出されなかった。

原因は、テロでも病気でもない。この「空気」そのものだった。


「やっぱり、壊れてないんだ」

陽鞠(ひまり)は、自室の壁に掛けられたアナログの湿度計を見つめていた。

針は「100」の限界値を超え、数字のない空白の領域へと深く振り切れている。


 SNSでは同じような写真が溢れ、誰かがそれを『湿度120%の世界』と呼んでいた。

科学者がいくら「飽和水蒸気量を超えて水分が空気中に存在するはずがない」と叫んでも、現実は無慈悲だった。

大気が文字通り「水」へと変質し始めているのだ。


 ゴホッ、と陽鞠は小さく咳き込んだ。

最近、呼吸をするたびに肺の奥が重い。

まるで、ぬるま湯を少しずつ肺に流し込まれているような感覚。


 街では誰もがガスマスクや、即席の「除湿フィルター付きマスク」を買い求め、必死に大気を拒絶していた。

それでも、毎日のように路上で溺死者が発見された。

人間が生きるには、この世界は水分に満ちすぎている。


 これ以上ここにいたら、私もあの日の人たちみたいになる。

恐怖に駆られた陽鞠は、防護マスクを強く顔に押し当て、家を飛び出した。

街のいたる所に設置された、強力な除湿機を備えた「乾燥シェルター」へ避難するためだ。


 外に出ると、世界はもう「霧」というレベルではなかった。

空気はとろりと重く、まるで薄いゼリーの中を歩いているようだ。

視界の先、渋谷のビル群が水底の遺跡のように揺らめいて見える。


「はぁ、はぁ……っ」

走ると、すぐにマスクの中が結露でベタベタになった。

息が吸えない。

肺が冷たい。


 ついに足がもつれ、陽鞠はアスファルトに膝をついた。

渋谷の交差点のすぐ近く。

あの日、最初の犠牲者が出た場所だ。


(だめ、息が……できない……)

窒息の恐怖の中、陽鞠は引きちぎるようにマスクを外した。

どのみち、もう手遅れだ。冷たい空気がダイレクトに気管に入り込む。


 彼女はぎゅっと目を閉じ、訪れるであろう「激痛」に身を構えた。

意外にも激痛はなかった。

薄れゆく意識の中で同じような境遇の人たちと共にグレーの空を見上げた。


 陽鞠の心肺は休息を開始した。

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