湿度120%の世界
海でもプールでもない。
東京の街、渋谷の交差点で次々と人が「溺れ」る
「今日も全国的に湿度は100%です」
テレビの中で、キャスターが諦めたような顔で頭を下げた。
1か月以上降り続く雨。見慣れた渋谷の街は、常にグレーの霧に包まれている。
あの日、スクランブル交差点で起きた「集団溺死事件」から、世界は一変した。
乾いたアスファルトの上で、胸をかきむしりながら溺れていった人々。
司法解剖の結果は「肺水腫による溺死」
海でもプールでもない。
渋谷の交差点で多くの人が「溺れた」のだ。
警察は毒ガステロを疑ったが、有害物質などどこからも検出されなかった。
原因は、テロでも病気でもない。この「空気」そのものだった。
「やっぱり、壊れてないんだ」
陽鞠は、自室の壁に掛けられたアナログの湿度計を見つめていた。
針は「100」の限界値を超え、数字のない空白の領域へと深く振り切れている。
SNSでは同じような写真が溢れ、誰かがそれを『湿度120%の世界』と呼んでいた。
科学者がいくら「飽和水蒸気量を超えて水分が空気中に存在するはずがない」と叫んでも、現実は無慈悲だった。
大気が文字通り「水」へと変質し始めているのだ。
ゴホッ、と陽鞠は小さく咳き込んだ。
最近、呼吸をするたびに肺の奥が重い。
まるで、ぬるま湯を少しずつ肺に流し込まれているような感覚。
街では誰もがガスマスクや、即席の「除湿フィルター付きマスク」を買い求め、必死に大気を拒絶していた。
それでも、毎日のように路上で溺死者が発見された。
人間が生きるには、この世界は水分に満ちすぎている。
これ以上ここにいたら、私もあの日の人たちみたいになる。
恐怖に駆られた陽鞠は、防護マスクを強く顔に押し当て、家を飛び出した。
街のいたる所に設置された、強力な除湿機を備えた「乾燥シェルター」へ避難するためだ。
外に出ると、世界はもう「霧」というレベルではなかった。
空気はとろりと重く、まるで薄いゼリーの中を歩いているようだ。
視界の先、渋谷のビル群が水底の遺跡のように揺らめいて見える。
「はぁ、はぁ……っ」
走ると、すぐにマスクの中が結露でベタベタになった。
息が吸えない。
肺が冷たい。
ついに足がもつれ、陽鞠はアスファルトに膝をついた。
渋谷の交差点のすぐ近く。
あの日、最初の犠牲者が出た場所だ。
(だめ、息が……できない……)
窒息の恐怖の中、陽鞠は引きちぎるようにマスクを外した。
どのみち、もう手遅れだ。冷たい空気がダイレクトに気管に入り込む。
彼女はぎゅっと目を閉じ、訪れるであろう「激痛」に身を構えた。
意外にも激痛はなかった。
薄れゆく意識の中で同じような境遇の人たちと共にグレーの空を見上げた。
陽鞠の心肺は休息を開始した。




