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婚約者が聖女を選んだので、私は王都の明かりをお返しいただきます

作者: 小野寺 翔
掲載日:2026/05/18

 王宮の大広間に、音楽が流れていた。


 白絹の幕。金細工の燭台。磨き抜かれた大理石の床。

 王国中の貴族が集う建国記念夜会の中央で、王太子ユリウス・レグナードは、一人の少女の手を取っていた。


 少女の名は、リリア・ベル。


 神殿が見出した、新たなる聖女である。


 そして私は、その二人の正面に立っていた。


「エレオノーラ・アルヴェイン」


 王太子殿下の声が、大広間に響いた。


 談笑していた貴族たちが、一斉に口を閉ざす。


 私、エレオノーラ・アルヴェインは、静かに顔を上げた。


「君との婚約を、今この場で解消する」


 広間がざわめいた。


 嘲笑。驚愕。憐れみ。好奇心。

 それらの視線が、針のように私へ突き刺さる。


 けれど、私は泣かなかった。


 この場で涙を流せば、アルヴェイン公爵家の名に泥を塗る。

 それに、涙なら、もう三日前に枯れていた。


「理由をお聞かせ願えますか、殿下」


 私がそう尋ねると、ユリウス殿下は眉をひそめた。


 まるで、私がまだ口を利くこと自体を不快に思っているようだった。


「僕は、真実の愛を見つけた」


 殿下は、隣に立つリリアの肩を抱いた。


 リリアは白い聖女服に身を包み、不安げに私を見ている。

 その姿は可憐で、儚く、そして守られることに慣れた少女そのものだった。


「リリアこそ、この国に必要な女性だ。聖女であり、誰にでも優しく、穢れを知らない。君のように冷たく、規則と契約ばかりを口にする女とは違う」


 誰かが、小さく笑った。


 私の背筋は、自然と伸びた。


「そうでございますか」


「ああ。君は王妃に相応しくない。よって僕は、君との婚約を解消し、リリアを未来の王妃とする」


「殿下」


 私は、静かに言った。


「それは、王家の正式なご決定でございますか?」


 ユリウス殿下は、鼻で笑った。


「当然だ。僕は王太子だぞ」


「国王陛下も、ご承知で?」


「父上には後ほど僕から説明する。反対などされるはずがない。聖女を迎えるのだからな」


「王妃陛下は?」


「くどいぞ、エレオノーラ」


 殿下の声に苛立ちが混じる。


「最後まで可愛げのない女だ。君はいつもそうだ。王宮の予算、神殿への供給量、騎士団の防護紋章維持費。そんなものばかり気にして、僕の心を一度も見ようとしなかった」


 私は、思わず笑いそうになった。


 見ていた。


 何度も見ていた。


 あなたが公務を抜け出すたび、私は代わりに書類を整えた。

 あなたが夜会で失言するたび、私は貴族家へ手紙を書いた。

 あなたが聖女に贈り物をするため予算を崩すたび、私は穴を埋める方法を探した。


 見ていたからこそ、分かってしまったのだ。


 この方は、王になってはいけないと。


「承知いたしました」


 私は、深く礼をした。


 大広間が、しんと静まり返る。


「殿下のお望み通り、婚約解消をお受けいたします」


 ユリウス殿下の口元に、勝ち誇った笑みが浮かんだ。


「ようやく分かったか」


「はい」


 私は顔を上げる。


「では、婚約に付随して締結されておりました、アルヴェイン公爵家と王家の魔力供給契約も、本日この時をもって解消いたします」


 広間の空気が、凍った。


 ユリウス殿下が、ぽかんと口を開ける。


「……何を言っている?」


「婚約が解消されましたので、それに伴う支援契約も終了いたします」


「そんなもの、後でどうとでもなる」


「なりません」


 私は、淡々と答えた。


「王都結界、神殿聖域、王宮魔道灯、騎士団防護紋章、貴族街の浄化水路。その基礎魔力の七割は、我がアルヴェイン公爵家が管理しております」


 リリアが、不安げにユリウス殿下を見上げた。


「ユリウス様……?」


 殿下は顔を赤くした。


「脅すつもりか!」


「いいえ。殿下が婚約を解消なさる。私どもも契約を解消する。ただそれだけでございます」


「王家に逆らう気か!」


「逆らってはおりません。契約書第三条二項に基づく、正当な終了手続きです」


 私がそう言った瞬間、広間の入口から重い足音が響いた。


「娘の言う通りだ」


 振り返らずとも分かる。


 父、アルヴェイン公爵だった。


 銀髪を後ろへ撫でつけた父は、ゆっくりと私の隣へ並ぶ。


「ユリウス殿下。アルヴェイン家は、これまで王家との縁戚関係を前提に、王都維持事業へ過剰なまでの魔力を供給してまいりました」


「公爵、これは王太子命令だ!」


「まだ王ではございませんな」


 父の声は、冷たかった。


「そして、たとえ王命であろうと、正式な契約なく我が家の魔力炉を使うことはできません」


「魔力炉など、王宮にもある!」


「ございますな。三十年前の旧式が」


 父は、わずかに口角を上げた。


「半日も持てばよろしいが」


 大広間の天井で、魔道灯が一度だけ揺らいだ。


 まるで、その言葉を証明するように。


「エレオノーラ」


 ユリウス殿下が私を睨んだ。


「本気でこの国を困らせるつもりか」


「困らせる?」


 私は首を傾げた。


「殿下は、聖女様こそこの国に必要だとおっしゃいました。でしたら、私どもは不要でございましょう」


「それとこれとは話が違う!」


「違いません」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 けれど、もう戻らない。


「私は、王太子妃となるために十年間学んでまいりました。王都の結界維持も、神殿との折衝も、魔力供給量の調整も、殿下の隣に立つために必要だと信じておりました」


 私は、リリアを見た。


 彼女は怯えていた。


 可哀想だとは思う。

 けれど、それだけだった。


「聖女様。未来の王妃となられるのであれば、明日からはあなたのお役目です」


「わ、私……?」


「はい。神殿聖域の維持、王都結界の再調整、騎士団防護紋章への定期供給、貴族街浄化水路の魔力循環。どうぞ、お務めくださいませ」


 リリアの顔が青ざめる。


「そんなの、私、聞いて……」


「エレオノーラ!」


 ユリウス殿下が叫んだ。


 私は最後に、もう一度礼をした。


「殿下。どうぞ、お幸せに」


 その夜、私は王宮を去った。


 背後で、王宮の魔道灯が一つ、また一つと消えていった。


   ◇


 翌朝。


 王都から、光が消えた。


 完全な闇ではない。

 太陽は昇っている。


 けれど、王宮の白壁はくすみ、神殿の聖水は濁り、貴族街の噴水は止まった。


 夜明けと共に稼働するはずの浄化水路は沈黙し、王都結界は薄氷のように不安定になった。


 そして何より、王都中の魔道灯が沈黙した。


 人々は、その日初めて知ったのだ。


 夜を照らす光が、当たり前ではなかったことを。


「どういうことだ!」


 王宮では、ユリウス殿下が怒鳴り散らしていたという。


 報告に来た侍女が、少しだけ困った顔で教えてくれた。


「神官長様が、真っ青なお顔で説明なさったそうです」


「何と?」


「聖女様の奇跡は、アルヴェイン公爵家の魔力供給によって増幅されていた、と」


 私は、紅茶のカップを置いた。


 自室の窓からは、王都の一部が見える。


 魔道灯の消えた街は、いつもより少しだけ寒々しかった。


「聖女様は、偽物ではないのよ」


「はい?」


「癒しの力は本物。ただし、王都全体を支えるほどの力ではない。それだけ」


 リリアに罪がないとは言わない。


 けれど、彼女はおそらく知らなかったのだろう。


 自分の奇跡が、自分一人の力ではなかったことを。

 そして、自分が奪おうとした席に、どれほどの責任が伴うのかを。


「お嬢様」


 侍女のマリアが、少し心配そうに私を見る。


「本当に、よろしかったのですか」


「何が?」


「殿下との婚約です。お嬢様は、ずっと……」


 好きだったのか。


 その問いを、彼女は最後まで言わなかった。


 私は窓の外を見た。


「そうね。好きだった時期もあったわ」


 幼い頃のユリウス殿下は、今よりずっと優しかった。


 転んだ私に手を差し伸べ、花冠を作ってくれた。

 王になったら皆を幸せにすると、真っ直ぐな目で語っていた。


 けれど、人は変わる。


 王太子という立場に酔い、周囲の称賛に慣れ、自分の望みこそが国の望みだと思い込んだ。


 私は変わらなかったのではない。


 変われなかったのだ。


 彼の隣に立つために、ただ学び続けてしまった。


「終わったのよ、マリア」


 私は小さく息を吐いた。


「終わったなら、次の契約を考えなければ」


「お嬢様らしいです」


 マリアは少し笑った。


 その時、扉が叩かれた。


「お嬢様。王宮より使者が参っております」


「早かったわね」


 私は立ち上がった。


 使者は、王宮書記官だった。


 昨日まで私に対してどこか上から物を言っていた男だが、今日は額に汗を浮かべ、深々と頭を下げていた。


「エレオノーラ様。王太子殿下より、至急王宮へお戻りいただきたいとのご命令です」


「命令?」


 父が低く笑った。


 応接室の空気が、少し冷える。


 書記官は慌てて言い直した。


「い、いえ。お願いでございます」


「内容は?」


「王都結界の再稼働と、魔力供給契約の即時復旧を」


「婚約は?」


 私が尋ねると、書記官は一瞬だけ言葉に詰まった。


「そ、それにつきましては、殿下が寛大にも再考してもよいと……」


「お帰りください」


 父が言った。


 書記官の顔が引きつる。


「し、しかし!」


「娘は昨日、正式に婚約を解消された。王太子殿下ご自身の宣言によりな」


「ですが、王都が……!」


「王都の維持は王家の責任だ」


 父は、手元の契約書を机に置いた。


「それとも王家は、婚約者でも臣下でもない娘一人に、王都の命運を押しつけるおつもりか」


 書記官は何も言えなかった。


 それでも彼は、最後に私を見た。


「エレオノーラ様。どうか、慈悲を」


 私は、少しだけ目を伏せた。


 慈悲。


 便利な言葉だと思う。


 努力している間は冷たいと言われ、

 線を引けば慈悲がないと言われる。


「王宮へお伝えください」


 私は、ゆっくりと顔を上げた。


「契約再締結をご希望の場合は、まず国王陛下の署名、王妃陛下の承認、議会の同意、そして前契約終了に伴う違約精算金をご用意ください」


「違約精算金……?」


「はい」


 私は微笑んだ。


「金貨八十万枚です」


 書記官は、椅子から落ちかけた。


「は、八十万!?」


「婚約解消に伴う魔力炉切替費、王都結界再調整費、神殿聖域安定化費、騎士団防護紋章再登録費、貴族街浄化水路の再契約費。お安い方です」


「そ、そんな金額、すぐには……!」


「では、すぐには再契約できませんね」


 私は立ち上がった。


「お話は以上です」


 書記官は、青い顔で帰っていった。


   ◇


 三日後。


 王都は大騒ぎになっていた。


 結界が完全に消えたわけではない。

 王宮の旧式魔力炉が、かろうじて王都中心部だけを守っている。


 だが、貴族街の浄化水路は止まり、神殿の聖水は薄まり、騎士団の防護紋章は半数以上が使えなくなった。


 魔物が出たわけでも、敵国が攻めてきたわけでもない。


 ただ、今まで見えなかった支えが消えただけ。


 それだけで、王都は傾いた。


 ユリウス殿下は、ついに我が公爵邸へ自ら来た。


 隣には、リリアもいた。


 けれど、昨日の夜会で見せた華やかさはどこにもない。


 ユリウス殿下は目の下に隈を作り、リリアは怯えた小鳥のように震えていた。


「エレオノーラ」


 応接室に入るなり、殿下は言った。


「戻れ」


 父の眉が動いた。


 私は、静かに問い返す。


「どちらへでしょうか」


「王宮に決まっているだろう」


「何のために?」


「王都を救うためだ!」


 殿下は、拳を握りしめた。


「君だって王国貴族なら、この状況を放っておけないはずだ。僕との婚約解消も、なかったことにしてやる。リリアのことは……側妃として置けばよい」


 リリアが息を呑んだ。


 私は、殿下を見つめた。


 この方は、本当に何も分かっていない。


「殿下」


 私は言った。


「私は昨日、泣いてすがるべきでしたか?」


「何?」


「婚約を解消しないでください、捨てないでください、どうか私を選んでくださいと。そうすれば、殿下は満足なさいましたか?」


 ユリウス殿下の表情が歪む。


「何を馬鹿な……」


「殿下は、私を冷たい女だとおっしゃいました」


 私は、淡々と続けた。


「けれど殿下が見ていなかっただけです。私がどれほど王宮のために動いていたか。どれほど殿下の失敗を埋めていたか。どれほど、この国の未来を守ろうとしていたか」


「それは、君が勝手に……!」


「はい。私が勝手にやめました」


 ユリウス殿下は、言葉を失った。


「殿下が私を不要だとおっしゃったから。聖女様がいればよいとおっしゃったから。ですから私は、不要な者として退いたのです」


 リリアが、震える声で言った。


「あ、あの……エレオノーラ様、私は……私、知りませんでした。ユリウス様が、あなたに婚約者がいることは知っていました。でも、こんな大変なお仕事をなさっているなんて……」


「リリア様」


 私は彼女へ視線を向ける。


「知らなかったことは、罪ではありません」


 リリアの瞳に、わずかな希望が宿る。


「ですが、知ろうとしなかったことは、あなたの責任です」


 その希望が、砕けた。


「あなたは、未来の王妃になると皆の前で受け入れました。ならば、その席の重さを知るべきでした」


「……はい」


 リリアは、泣きながら頷いた。


 少なくとも、彼女には恥じる心がある。


 ユリウス殿下よりは、まだ救いがあるのかもしれない。


「エレオノーラ!」


 殿下は、私に手を伸ばした。


「いい加減にしろ! これは国の危機だぞ!」


 その瞬間、応接室の扉が開いた。


「国の危機を招いた者が、ずいぶん大きな声を出すのだな」


 入ってきたのは、国王陛下だった。


 ユリウス殿下の顔色が、一瞬で変わる。


「父上……!」


 陛下の後ろには、王妃陛下と数名の重臣が控えていた。


 国王陛下は、疲れ切った顔でユリウス殿下を見た。


「ユリウス。お前の王位継承権を停止する」


「なっ……!」


「王家承認なき婚約解消。聖女の政治利用。王都維持契約への無理解。さらに、正式な謝罪ではなく命令による復旧要求」


 陛下の声は、低く、重かった。


「王太子として不適格だ」


「違います! これはエレオノーラが勝手に!」


「勝手に契約を解消できるような条項を、お前は理解していなかったのか」


 ユリウス殿下が黙り込む。


 陛下は私へ向き直った。


「エレオノーラ嬢。王家として、正式に謝罪する」


 国王陛下が、頭を下げた。


 その場にいた全員が息を呑む。


「婚約解消は、ユリウスの独断である。王家はあなたとアルヴェイン公爵家に対し、深く非礼を詫びる」


「陛下。頭をお上げください」


 私は静かに言った。


「謝罪は受け取ります」


 陛下は顔を上げた。


「そのうえで、魔力供給契約の再締結を願いたい。条件は、そちらに従う」


 父が私を見た。


 決定権を、私に委ねている。


 私は、あらかじめ用意していた書類を差し出した。


「再締結の条件は三つございます」


「聞こう」


「一つ。ユリウス殿下の王位継承権停止を、正式に公示すること」


 ユリウス殿下が叫びかけたが、王妃陛下の視線で黙った。


「二つ。リリア様を王太子妃候補から外し、神殿にて聖女としての教育を受け直させること」


 リリアは泣きながらも、深く頭を下げた。


「三つ。アルヴェイン公爵家による供給範囲を、王都全域から王宮・神殿・騎士団の中枢部のみに縮小すること」


 陛下が目を細めた。


「貴族街と商業区は?」


「今後、王家主導で独自の維持機構を整備なさるべきです。我が家に依存し続ける体制は、国のためになりません」


 陛下は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷く。


「正論だな」


「それと、違約精算金ですが」


 私が言うと、陛下の肩がわずかに跳ねた。


「分割払いも承ります」


 父が横で咳払いをした。


 王妃陛下が、少しだけ笑った。


 こうして、王都は完全な崩壊を免れた。


 ユリウス殿下は王太子の地位を失い、離宮で謹慎となった。


 リリアは神殿へ戻り、聖女として一から教育を受け直すことになった。


 そして私は、王太子の婚約者ではなくなった。


   ◇


 季節が一つ巡った頃。


 アルヴェイン公爵領の魔力炉視察に、隣国から一人の客人が訪れた。


 クラウス・ヴェルゼン。


 隣国ヴェルゼン王国の第二王子であり、魔道工学に深い知識を持つ変わり者として知られている方だった。


「素晴らしい」


 魔力炉の前で、クラウス殿下は子供のように目を輝かせた。


「これほど安定した循環式魔力炉は初めて見た。出力を支える術式も見事だが、負荷を分散する補助紋が美しい。誰が設計を?」


「基礎設計は祖父です。現在の調整式は私が改良しました」


「あなたが?」


 クラウス殿下は、驚いたように私を見る。


 そしてすぐ、楽しげに笑った。


「なるほど。王都を一度暗くした令嬢という噂は聞いていたが」


「不名誉な噂ですわね」


「いや、最高に愉快だ」


 私は瞬きをした。


 クラウス殿下は、真剣な顔で私を見た。


「あなたは、奪ったのではない。返してもらっただけだ。自分の家が差し出していたものを」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「そう言ってくださる方は、あまり多くありません」


「見る目のない者が多いのだろう」


「王子殿下らしからぬお言葉です」


「よく言われる」


 クラウス殿下は笑った。


 その笑い方は、誰かに守られることを当然と思っている人のものではなかった。


「エレオノーラ嬢」


「はい」


「私は、あなたと契約を結びたい」


 また契約。


 そう思ったのに、不思議と嫌ではなかった。


「どのような契約でしょうか」


「まずは共同研究契約から」


 クラウス殿下は、少しだけ視線を逸らした。


「その後、あなたが嫌でなければ、個人的な契約も申し込みたい」


「個人的な?」


「婚姻契約だ」


 魔力炉の音が、低く響いていた。


 私は、少しだけ笑った。


「随分と率直ですのね」


「回りくどく言って、あなたの時間を無駄にしたくない」


「私は、王妃教育を受けた女です。可愛げはありませんよ」


「可愛げより、判断力の方が好ましい」


「規則と契約ばかり口にします」


「国家運営に必要不可欠だ」


「冷たい女だと、言われたこともあります」


 クラウス殿下は、静かに首を横に振った。


「冷たい人間は、十年も国を支えたりしない」


 その瞬間、喉の奥が詰まった。


 ああ。


 私は、この言葉が欲しかったのかもしれない。


 愛しているでも、美しいでも、君が必要だでもなく。


 ただ、私がしてきたことを、見てほしかった。


「クラウス殿下」


「はい」


「契約書を拝見してから考えますわ」


 そう答えると、彼は満面の笑みを浮かべた。


「もちろん。あなたに不利な条項は一つも入れないと誓う」


「それを判断するのは私です」


「では、厳しく見てほしい」


 私は、今度こそ声を出して笑った。


 窓の外では、夕暮れが近づいていた。


 アルヴェイン領の魔道灯が、一つ、また一つと灯っていく。


 王都を照らすためではない。


 王家のためでもない。


 私たち自身の暮らしを守るための光。


 私はその光を見つめながら、静かに息を吸った。


 婚約者が聖女を選んだ日、私はすべてを失ったのだと思っていた。


 けれど、違った。


 私はようやく、返してもらったのだ。


 自分の時間を。

 自分の誇りを。

 そして、自分の未来を。


 だから私は、もう一度だけ微笑んだ。


 今度は、誰かの隣に立つためではなく。


 私自身の足で、前へ進むために。

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