第9話 月下のキス
私たちはオディロ様に導かれ、深夜の薔薇庭園へとやってきた。
腕の中には、所在なさげに丸まっている一匹の子犬――いえ、レオンハルト様。
あのあと、女子寮から逃げ出そうとしたクロード様は、巡回していた衛兵に見つかり、取り押さえられた。
夜の王宮を黒づくめの男がうろついていれば、騒ぎになるのも当然だろう。
その騒動の末、魔法騎士団に所属するオディロ様まで動くことになったのだった。
「お騒がせして、本当に申し訳ありません……」
私は消え入りそうな声で頭を下げた。
オディロ様は、なんでもないように微笑み、私を気遣ってくれる。
「マリエラ嬢が謝ることじゃないよ。
オルグラン卿の件は、レオンも気にしていたし……そもそもは、リリアンヌ様の拗らせが原因なんだから。ねぇ、レオン?」
オディロ様が茶化すように、ひょいと子犬の頭へ手を伸ばす。けれど子犬はそれを嫌がって、私の腕の中へと顔を埋めてしまった。
「甘えんぼだなぁ、レオンは」
「ぎゃん!!」
レオンハルト様が全力で抗議の声を上げる。
オディロ様は「はは、相当お怒りだね」と愉快そうに笑って――その笑みをふっと消し、澄んだ光を宿した瞳を、まっすぐ私へ向けた。
「……さて。冗談はこのくらいにして、始めようか。解呪の儀式を」
「解呪!?」
その瞬間、オディロ様の纏う空気が一変する。
軽やかだった気配は静まり返り、庭園そのものが息をひそめたように、張りつめた荘厳さが満ちていった。
オディロ様は庭園の中央へと歩み出ると、無言で足元を指し示す。
石畳に淡い光が走り、幾何学模様を描きながら魔法陣が浮かび上がった。
「子犬を抱いたまま、中へどうぞ」
促されるまま、私は魔法陣の中央に立つ。
月明かりが差し込み、魔法陣が静かに輝きを放つと、オディロ様の詠唱が夜空に吸い込まれるように低く響く。
歌うような声が次第に強まると――突然、オディロ様が叫んだ。
「さあ――子犬にキスして!」
「は、はああっ!?」「きゃんっ!?」
私とレオンハルト様が同時に声を上げる。
「必要なんだよ! “君”じゃないとダメなんだ。魔法陣が霧散する前に早く!」
「で、でも、この子はランベール閣下ですわ……!」
「大丈夫! 今はただの子犬だよ!」
一瞬、ためらう。
けれど、迷っている時間はなかった。
私は意を決して、両手で子犬を抱き上げ、ぎゅっと目を閉じる。
そして、子犬の口元に――そっと、唇を寄せた。
――その瞬間。
視界が真っ白な光に塗りつぶされた。
身体が宙に浮くような感覚。気づけば、腕の中にいたはずの重みも消えている。
(……なにが起こったの……?)
目を開ける。
そこにいたのは、もう子犬ではなかった。
月光に照らされた、この世のものとは思えないほど美しい青年。
見覚えのある金色の瞳が、まっすぐ私を映している。
「レ、レオンハルト様……っ!?」
慌てて身体を引こうとしたけれど、逃げられない。
レオンハルト様が私の体を強く引き寄せ、再び唇を重ねた。
「――っ!?」
驚く暇もない。
二度、三度と――触れられるたびに、思考が甘く溶かされていく。
重なるたびに深くなる愛しさに――私はただ、彼の腕の中で翻弄されるしかなかった。
「こ、こっ……こんなに何回も必要なんですの……!?」
息を切らして抗議する私に、彼は蕩けるような甘い微笑みを向けた。
「……すまない。君が可愛すぎて、夢中になりすぎてしまった……」
困ったような、けれど幸せそうなその表情は、十年前のあのバルコニーで見た、不器用な少年の面影そのものだった。
「君が好きだ。
……それだけは、ずっと変わらなかった」
胸の奥が、熱く波打つ。
遠い昔の初恋。
ずっと忘れられなかった、遠い遠い憧れの人。
「……あ、の……」
言葉を探しても、うまく見つからない。驚きと喜びが絡まり合い、喉の奥で震えるだけだ。
レオンハルト様は、静かに跪く。
そして、丁寧に私の手を取り、その甲へ唇を落とした。
「君と生きたい。
君と一緒に笑っていたい。
……どうか、私と結婚してほしい」
胸の奥が、熱く甘く締めつけられる。
息が止まるほどの幸福に、飲み込まれそうになりながら――私はまっすぐに彼を見つめ、その答えを口にした。
「……はい。
もちろん、喜んで」
その瞬間。
月のかけらのような光が、夜空を満たすように降り注ぎ始めた。
舞い散る金色の光の粒が、まるで祝福するかのように、私たちを包み込む。
「……解呪、したみたいだね」
ほっと息をついたような、オディロ様の声が聞こえた。
私たちは手を取り合い、ただ静かに、その光の中に立っていた。
***
光が消え、薔薇庭園にはいつもの静けさが戻っていた。
レオンハルト様がオディロ様に視線を向けると、彼は肩をすくめる。
「解呪の条件はね――
レオンが“愛する人と想いを通じ合わせる”ことだったんだ。
何度か呪いが弱まって人間に戻れたのは……想いは通じていたけど、言葉が足りなかったからさ」
レオンハルト様は、わずかに目を細める。
「そんな呪いがあるのか?
……まるで、俺の幸せを願っているみたいじゃないか」
「うん。だから“呪い”としては不完全だったんだよ。
レオンを傷つけるためじゃなくて、『側に置いて、いつか自分が愛されたら解けるように』という、リリアンヌ様の強い願いが込められていたんだ」
「……皮肉なものだな」
レオンハルト様は、私の指を包むように、そっと力を込めた。
その温もりは、もう二度と離れないと告げるように、静かで確かだ。
「想いは、呪いや強制で手に入るものではないのに」
月光の下、私たちはようやく“偽装”ではない、本物の恋人として同じ未来を見つめていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第9話は、月下の解呪と、長く胸に秘められていた想いが、ようやく言葉になる回でした。
次回はいよいよ最終回。
解呪後の二人と、この物語の結末をお届けします。
最後まで、どうぞお付き合いください。
明日も18:30に更新予定です。




