第8話 真夜中の修羅場と前蹴り
「ちょっと! わんこちゃん! くすぐったいってば!」
深夜の女子寮。私の部屋では、もふもふの塊と私がベッドの上で格闘を繰り広げていた。
首筋に顔をうずめてくる子犬を引き離し、耳の裏をコチョコチョくすぐる。
子犬は嬉しそうに身じろぎしてから、今度は鼻先を私の頬へとすり寄せる。
「もう! 本当に甘えんぼなんだから」
笑いながら、その小さな体をぎゅっと抱きしめる。「きゅう」と甘えた声が耳元で弾み、小さな尻尾が“ちぎれんばかり”にぶんぶん揺れた。
(……ほんと、可愛すぎるでしょ)
ここ数日、子犬は毎晩のように私の部屋にやってきては、眠るまでこうして甘え続けている。
常にぴったりと体を寄せ、決して離れようとしない……まるで、恋人同士みたいに。
……しかし、朝になると必ず姿を消しているのだ。
「あなた、昼間はどこにいるの? 夜だけやって来るなんて……私のこと、都合のいい女だと思ってるでしょ?」
もちろん冗談のつもりだったけれど。
ぱた、と子犬の尻尾が下がり、しょんぼりと俯いてしまう。
「あ、ごめんね。冗談よ、冗談……」
子犬は私の胸元に顔を埋め、拗ねたように小さく鼻を鳴らした。
その仕草に、思わず笑みがこぼれる。
「さ、明日も仕事よ。もう寝ましょ……灯り、消すわね」
ベッドサイドの灯りを落とし、私はそっと横になる。
子犬は、私の腕の中で丸くなり、安心したように目をつむった。
気づけば、いつもここが定位置だ。
幸せを感じながら、温かい眠気に沈もうとした、その時――
微睡んでいた子犬の耳が、びくりと跳ねた。
同時に、私の背筋にもひやりとした感覚が走る。
(今、何か聞こえた……? 部屋の中に、誰かいる?)
全身が泡立つような恐怖。
暗闇の中、確かに何かの気配があった。
息を潜めるような、生々しい気配。
子犬はすでに臨戦態勢で、低く鋭い唸り声をあげている。
次の瞬間――
闇が、わずかに動いた。
暗闇の中から白い手がぬっと伸びて……それは私ではなく、子犬へと掴みかかる。
「――っ!」
ドカッ。
反射だった。
これはもう、本当に反射としか言いようがない。
子犬を抱き寄せるのと同時に、私は相手に向かって渾身の前蹴りを放っていた。
令嬢にあるまじき行為だと思う。
でも、これは正当防衛だ。誰にも文句は言わせない。
「ぐあぁっ……!」
誰かが床に転がる音。
私は慌てて灯りをつけ、室内を照らした。
そこに照らし出されたのは――
「クロード様?!」
黒ずくめのクロード様が、みぞおちを押さえて悶絶していた。
(……なんだか、いい気味ね)などと不謹慎なことを考えている場合ではない。
「どういうことですの?!」
私は鋭く問いただした。
胸は高鳴り、腕の中の子犬は怒りに震えている。
(私ではなく、この子を狙った……?
どうしてクロード様が子犬を?)
クロード様は苦しげに息を整えながら、よろめくように立ち上がった。
「……その犬をよこせ」
「いやですわ! レディの部屋に忍び込んだ挙句、強引に連れ去ろうなんて――
あなた、自分のやっていることが分かってます?」
窓が視界の端に映った。
閉めていたはずの窓は開け放たれ、外気が流れ込んでいる。
ここは二階なのに、なんて無茶な。
(なぜ、ここまでするの……?
この子、いったい……?)
「いいから渡せ! お前には関係ない!」
じりじりと迫ってくるクロード様。
子犬は私の前に立ちはだかり、小さな体で必死に牙を剥く。
「お前は何も分かってないんだ。そいつは、リリアンヌ王女殿下の“飼い犬”だ」
にやりと笑うその顔に、背筋が冷えた。
それでも、怯んではいられなかった。
「たとえ王女殿下の飼い犬だとしても、あなたがこんな乱暴をする理由が、私には理解できませんわ」
「おまえ、本当にそいつと婚約するつもりか?」
「……婚約? 子犬と?」
意味がわからず、間の抜けた声で聞き返す。
クロード様は私を見下ろし、嘲るように口の端を吊り上げた。
「やっぱり何も知らないんだな。そいつはランベール公爵だよ。王女殿下の“犬”のな」
――息が止まりそうになる。
私は子犬を見た。
子犬は、ただクロード様だけを睨みつけ、低く唸っている。
冷たい闘志を宿した金色の瞳。
夜に溶けるような黒い毛並み。
(……そんな、馬鹿な)
この子犬が、レオンハルト様だなんて――ありえない。
――ありえない、はずなのに。
夜にしか姿を見せないこと。
王族専属の魔法師たち。
右手首、同じ場所の包帯。
それらすべてが、否定しようのない答えを示していた。
「キャインッ!」
悲痛な鳴き声に我に返ると、子犬がクロード様に首元を掴まれていた。
必死に抵抗しているが、クロード様と子犬では体格差がありすぎる。
「やめて! 連れて行かないで!」
私はその腕にしがみつく。
「うるさい! こんな犬に構うな! お前だって、こんな呪われた男なんか――嫌だろうが!」
「嫌じゃないわ!!」
考えるより先に、叫んでいた。
「どんな姿になったって、私の気持ちは変わらないわ!
――私の騎士様はレオンハルト様だけよ!」
その瞬間。
部屋の空気が一変した。
窓から差し込む月光が爆ぜるような輝きを放ち、私は思わず目をつむる。
次に視界が開けたとき、クロード様に首を掴まれていたのは、小さな子犬ではなかった。
そこに立っていたのは、月光を背負い、金の瞳を怒りに燃え上がらせた――本物のレオンハルト・ランベール閣下だった。
***
「……私の婚約者に、無礼が過ぎるな」
低く、冷たい声が室内に落ちた瞬間、
まるで空気そのものが一段階、冷えた気がした。
クロード様に首元を掴まれたまま――
レオンハルト様は、ゆっくりとその視線だけを動かし、彼を睨みつける。
金の瞳が、燃えるように揺らめいていた。
感情を削ぎ落としたその眼差しに、私まで背筋が凍りそうになる。
「い、いえっ……! ラ、ランベール……こ、公爵……?」
さきほどまでの勢いはどこへやら。
クロード様は顔面蒼白になり、口をぱくぱくとさせていた。
「よ、夜は……夜は人間にはならないと、聞いて……!」
弾けたように手を離し、クロード様はよろめくように一歩下がる。
解放されたレオンハルト様は、動じることなくクロード様を一瞥した。
「言いたいことは、それだけか」
まるで地の底から響いてくるような声音に、クロード様は完全に縮み上がった。
(……ここまで怒っていらっしゃるレオンハルト様、初めて見るわ)
「も、申し訳ありませんっ!!」
叫ぶように言い残すと、クロード様は扉にぶつかるような勢いで部屋を飛び出していった。
……ぱたり、と静寂が戻る。
残されたのは、私と――レオンハルト様だけ。
(ほ、本当に……レオンハルト様だったんだわ)
あまりの衝撃に立ち尽くす私に、彼はゆっくりと向き直った。
その金の瞳が、先ほどの怒りとは違う、熱を帯びた色で私を見つめる。
「ヴァレッティ秘書官……。黙っていて、すまなかった」
「い、いえ……! あの、私こそ……
閣下だとも知らずに、数々のご無礼を……」
そう口にした途端、この数日の光景が、堰を切ったように脳裏をよぎって、顔から火が出そうになる。
夜ごとにベッドでじゃれ合ったこと。
抱きしめて、撫で回して、甘やかして――
(……子犬の時の記憶って、残っているのかしら……)
どうか忘れていてほしい、という祈りにも似た願いが胸に込み上げる。
そしてふと、自分が寝間着姿のままだという事実に気づいた。
「ちょ、ちょっとお待ちくださいませっ」
慌てて部屋を見回す。
羽織るものを探すけれど、こんな時に限って何も見当たらない。
仕方なく、ベッドの上のブランケットを引き寄せ、胸元を隠した。
レオンハルト様は弾かれたように横を向き、片手で目元を覆っていてくれたけれど。
「……っ、見ていない」
「絶対に嘘ですわ!」
信じられない。だって、彼はさっきまで子犬の姿で私の胸に顔を埋めていたのだから!
レオンハルト様の耳は、夜の闇の中でもはっきり分かるほど真っ赤に染まっている。
「ヴァレッティ秘書官。私は、君に……」
彼が、何かを告げようと口を開いた、その時だった。
――ふわり。
淡い光が、彼の輪郭を包んだ。
「あ……」
言葉を発する間もなく、
目の前でその姿が、みるみる小さくなっていく。
気づけば――
私の足元に、ちょこんと座っているのは、見慣れた黒い子犬だった。
(また子犬に……? どういうことなの……)
子犬は、きゅう、と小さく鳴いて、困ったように、私を見上げていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
真夜中の女子寮での修羅場、そして、ついに子犬の正体が明らかになった――第8話でした。
次回は、この夜の“その後”……いよいよクライマックスへ突入します!
よろしければ、引き続きお付き合いください。




