第6話 公爵閣下の婚約者(偽)
執務棟の廊下は、今日も多くの文官たちが忙しなく行き交っている。
その喧騒の中を、私は早足で歩いていた。
いつもと変わらない、見慣れた光景。
なのに今は、まるで知らない場所を歩いているみたいだ。
レオンハルト様の執務室を退出し、私はいつもの職務へ戻っていた。
宮廷監察局へ書類を届ける途中――なのに頭の中では、さっきまでのやり取りを何度も思い返してしまう。
(あんなに準備万端だったのも驚いたわ)
私が婚約を承諾した後、レオンハルト様は間髪入れずに一枚の紙を差し出した。
――「婚約誓約書」。
文言はすでに整えられており、あとは当人同士と両家当主、そして立会人が署名するだけ。
当主といっても、レオンハルト様はすでに公爵家当主だし、私は当主代理の立場だ。
つまり、私たち二人と立会人のオディロ様がサインすれば、その場で“正式な婚約”が成立する状態だった。
(まさか、あの場ですぐにサインを求められるなんて……)
誓約書にサインする前、私は一応、確認した。
『閣下は、私と婚約してもよろしいのですか?』
すると彼は顔色一つ変えずに告げた。
『かまわない。国のためだ』
(……その横でオディロ様が爆笑していたのは、いまだに解せないけれど)
そんな釈然としない思いに囚われていた、その時――。
「――ずいぶんご機嫌じゃないか、マリエラ・ヴァレッティ嬢」
突然、腕を強く掴まれた。
反射的に振り返ると、そこにいたのは忌々しいほど整った顔を歪めたクロード様だった。
(私、そんなににやけて歩いてたかしら……?)
慌てて気を取り直し、私は冷静に告げる。
「執務中ですので、失礼いたします」
立ち去ろうと身を引いたのに、クロード様は逆に指先へ力を込めた。
「この前は、犬に邪魔されたからな」
「勇敢な子犬でしたわね。私たち、すっかり仲良しになりましたの」
「は? まさか、あの犬を飼うことにしたのか!」
クロード様の顔がこわばる。
犬が苦手という噂は、どうやら本当らしい。
私は、その反応を確かめるように、あえて何でもないふうを装って微笑んだ。
「今では、私の番犬ですわ」
不快感を隠そうともせず眉をひそめたクロード様は、それでも求婚の件を引っ込める気はないらしい。
「俺は、ヴァレッティ家の財政状況くらい把握しているんだ。いい加減、強がるのはやめろ」
(勝手に他家の懐事情を探るだなんて、本当に失礼な人ね)
怒りが込み上げ、私は彼の手を振り払った。
ここで、はっきり伝えるべきだ。
「クロード様――私、すでに婚約しておりますの」
彼は一瞬きょとんとしたあと、鼻で笑う。
「くだらん。お前のようなジリ貧令嬢を娶りたがる貴族がいるわけ――」
その言葉を遮るように、私はしっかりと彼を見据えた。
「お相手は――レオンハルト・ランベール公爵閣下ですわ」
(これで、この不毛なやり取りにも終止符が打てるわ)
呆然と立ち尽くすクロード様を置き去りにし、私は颯爽とその場を後にする。
背筋を伸ばして歩く足取りは、驚くほど軽やかだった。
***
執務室の静寂の中、レオンハルトは重厚な執務机の前に腰を下ろし、婚約誓約書を見つめていた。
“マリエラ・ヴァレッティ”
わずかに癖のある、女性らしい繊細な筆跡。
レオンハルトは指先でその文字を優しくなぞる。
(政略であっても……これが、今の俺にできる精一杯だ)
婚約を告げたときの、彼女の驚いた表情。
それがふと脳裏をよぎり、彼の頬がわずかに緩んだ、そのとき――
「君も、そんな顔するんだねぇ」
呑気な声が、静寂を破った。
「……仕事に戻れ、オディ」
横目で睨むと、オディロは楽しげに眉を上げる。
レオンハルトの耳が赤いことに気づいているのだ。
「朝から呼び出すから何かと思ったら、婚約の立ち会いをしろって……びっくりしちゃったよ」
オディロはデスク近くの椅子にひょいと腰を下ろし、長い足を優雅に組む。
「しかも、『国のためだ』なんて言ってさ。『君が好きだ、他の男に渡したくない』って言えば良かっただろ?」
「……そんな無責任なこと、言えるか」
レオンハルトは視線を落とし、小さく息をついた。
「俺は呪われている。これを抱えたまま……そんな言葉を口にする資格はない」
「まぁ、リリアンヌ様の魔法師は強者だからねぇ。俺の解呪も“昼間”しか保たないし。ほんと、力不足で申し訳ない」
レオンハルトはゆっくりまばたきし、オディロへと視線を向けた。
「いや、オディ。昼間だけでも人間に戻れて、とても助かっている。そうでなければ執務に支障が出ていた」
「ちょっと! レオンってば仕事人間すぎない?」
軽口を交わしつつも、ふとオディロの表情が真剣味を帯びる。
「でもさ、昨夜は“人間に戻れた”んでしょ?」
「ああ。夜中に一時的に戻れた。……ヴァレッティ秘書官は夢だと思っていたようだ。俺も寝たふりでやり過ごしたが」
言いながら、レオンハルトはそっと自分の頭に触れた。
昨夜、彼女の指先が髪を梳き、背中を慈しむように撫でた感触が蘇る。
胸の奥で、鼓動が小さく跳ねた。
「その“ヴァレッティ秘書官”呼び、固すぎると思うけどね?」
オディロは呆れたように椅子の背を軽く揺らす。
「それでさ。そもそも――なんで毎晩マリエラ嬢のところへ行くわけ?」
揶揄うような、何気ない問いだった。
けれど、レオンハルトは露骨に動揺した。
視線が揺れ、頬から耳へ、ゆっくりと赤みが広がる。
「その……彼女と一緒にいると……よく眠れるんだ」
「ふーん? へぇ? なるほどねぇ?」
止まらないニヤニヤを隠す気のないオディロ。
レオンハルトは咳払いで誤魔化し、睨みを利かせるが、それすら楽しんでいる様子だ。
そしてオディロは腕を組み、少しのあいだ黙り込むと、思考を整理するように目を細めた。
「君を“犬に変える呪い”。これ自体は確かに強力だよ。でも、それだけじゃない。もともとリリアンヌ様の呪いは“不完全”なんだ。だから、解呪が余計に難しい。
……それなのに。昨夜、一時的とはいえ人間に戻れた。ここにヒントがあるはずだよ」
風が窓辺を揺らし、二人の視線が交差する。
「つまり……ヴァレッティ秘書官が鍵、ということか」
「うーん。それもあるけどね」
オディロは意味深に片目をつむる。
「鍵は――たぶんレオン、君自身だよ」
レオンハルトは、再び婚約誓約書へと視線を戻す。
そこに記されたマリエラの名が、彼の心に消えない波紋を広げていた。
第6話をお読みいただき、ありがとうございます。
ついに“婚約者(偽)”を名乗ることになりました。
次回は、この婚約が周囲にどう波紋を広げていくのか……。
次のお話もお付き合いいただけたら嬉しいです。




