第5話 一夜の夢と二年の婚約
どれくらい時間が経ったのだろう。
眠りの底で心地よい“重み”を感じて、私はゆっくりと目を開けた。
視界に入るのは、見慣れた薄茶色の天井。
部屋の中は薄暗く、夜の静寂に満ちている。
(……まだ夜中、よね)
ぼんやりとした頭で、胸の上にある温もりを撫でようとした――その時。
(……あれ? なんだか、大きい?)
子犬にしては少し……どころではない。
腕の中に収まりきらないほどの存在感に、恐る恐る視線を落とす。
……そして、心臓が跳ね上がった。
そこにいたのは子犬ではなく、この世で私が最も「尊い」と崇めている男性。
――レオンハルト・ランベール様だった。
(……え? 待って。なんで? なんで子犬がレオンハルト様になっちゃってるの!?)
窓から差し込む月光が、彼のさらりとした黒髪を銀色に縁取っている。
穏やかな寝息を立てる端正な横顔は、息をするのも忘れるほどの美しさだ。
あり得ない状況に、一瞬パニックになりかける……けれど、私はすぐに冷静さを取り戻した。
そう、これは夢だ。
(初恋のことなんて思い出したから、こんな夢を見てるのね。うん、これは夢だわ)
ワインは少ししか飲んでいないけど、酔ってしまったのだろうか。
いや、きっと疲れているのだ。
でも、こんな夢なら悪くない。
むしろ、毎日頑張っている私へのご褒美と言っていい。
(夢の中だもの……少しくらい大胆なことをしても許されるわよね)
私は勇気を出して、そっと手を伸ばす。
指先がレオンハルト様の髪に触れた瞬間、うっとりするほどの柔らかな感触が伝わってきた。
何度も髪を梳き撫でながら、私は幸せな溜息をつき――ついには彼をぎゅっと抱きしめた。
しっかりとした肩幅。
背中越しに伝わる静かな鼓動。
(あぁ……こんな幸せな夢なら、毎晩でも見たいわ)
私は至福の温もりに包まれ、そのまま夢の底へ沈んでいった。
***
翌朝。
目を覚ますと――またしても、子犬の姿はどこにもなかった。
昨夜、確かに腕の中で眠っていたはずなのに、気配ひとつ残さず消えている。
そして、当たり前だけど……“公爵様”なんて、いるわけがない。
(……やっぱり、夢よね。現実なわけないわ!)
思い出しただけで、顔から火が出そうだ。
子犬が、憧れのレオンハルト様に変わった挙句、頭を撫で続ける夢を見るなんて――
(私、どれだけレオンハルト様のことを意識してるのよ……! これじゃ、煩悩の塊みたいじゃない)
気持ちを切り替えるように、私は手早く身支度を整えた。
(とにかく仕事に集中よ。余計なことは考えない!)
鏡の前で、自分に言い聞かせる。
(レオンハルト様は、上官。それ以上でも、それ以下でもない。仕事以外で関わることなんて――ないわ)
――そう思っていたのに。
出勤して数分もしないうちに、私はレオンハルト様から“呼び出し”を受けることになる。
***
「――私と婚約してほしい」
邪念を捨てて仕事に邁進……と思っていたのに、朝一番で私が聞かされたのは、レオンハルト様からの突然の婚約申し出だった。
事の始まりは、執務室に到着してすぐのこと。
「マリエラさん、閣下がお呼びです」
同僚にそう告げられた瞬間、私は昨夜の夢を思い出して、また赤面してしまった。
……が、勤務中である。ここは平静を保たなければ。
(当然、仕事の話よね。来週の儀典局との会議の件かしら。それとも……)
気持ちを切り替えて執務室へ向かうと、室内にはレオンハルト様のほかに、もう一人。
見覚えのある男性が、壁際に立っていた。
――魔法省の若き俊英。
オディロ・セラフィーニ様。
いつもの人懐こい笑みを浮かべ、こちらを見ている。
(お二人は寄宿学校時代からのご親友……だけど、なぜオディロ様がここに?)
戸惑う私に、レオンハルト様は表情ひとつ変えないまま――ずばり言い放ったのだ。
「私と、婚約してほしい」
あまりに唐突、かつ無機質な求婚。
ロマンチックの「ロ」の字もないその一言に、私の思考は完全に止まった。
(え……なにこれ、夢の続き? 私、まだ寝てるの?)
呆然とする私を見て、オディロ様が我慢しきれない様子で吹き出した。
「ぷっ……あははは! いやレオン、それは説明不足すぎだって! ほら、マリエラ嬢が石像みたいに固まってるよ!?」
オディロ様が助け舟を出してくれたおかげで、ようやく状況が見えてきた。
婚約は“形式上”のもの。
期間は、ルカが成人するまでの二年間。
その後、結婚する必要はない。
――私にとって、あまりにも都合が良すぎる話だ。
「差し支えなければ……この婚約の意図を、お聞かせいただけますか?」
問いかけると、レオンハルト様は冷徹な金の瞳をわずかに細める。
「円卓権を守るためだ。
オルグラン家が、君に執拗な求婚を繰り返しているのは知っている」
胸が、わずかに強く脈打った。
クロード様からの求婚の件は、我が家の内情に深く関わるため、できる限り周囲に悟られないようにしてきた。
けれど、宰相補佐官ともなれば、情報が届くのは早いらしい。
「オルグラン家は、最近海運業が不調で焦ってるらしいんだ」
オディロ様が軽く肩をすくめる。
「で、君の家の円卓権が欲しくなったってわけ」
なるほど。
どうりで、クロード様があんなに必死に求婚してくるわけだ。
「加えて……まだ水面下で調査中だが、他国との違法取引の疑惑もある。円卓権をオルグラン家に渡すわけにはいかない」
レオンハルト様の声は静かだけど、底に鋼のような冷たさを帯びていた。
(これって……偽装婚約、ということよね)
胸の奥にちくりと走る痛みを、私はそっと飲み込んだ。
ヴァレッティ家にとっては、願ってもない申し出だ。
……たとえそれが、初恋の人との“愛のない婚約”だとしても。
「つまり――
私がランベール公爵閣下の“婚約者”という立場になれば、
クロード様も強引な手段には出られない……という理解でよろしいですか?」
「そういうことだ。婚約者ならば、公爵家の公式な守護が可能になるからな」
淡々とした声音は変わらない。
けれど、そこには確かに私を気遣う、わずかな温度があった。
その優しさに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「……喜んで、お引き受けいたします」
私は背筋を伸ばし、静かに一礼した。
第5話をお読みいただき、ありがとうございます。
まさかの添い寝から、まさかの婚約へ……。
次回からは"偽装婚約"という名の修羅場(?)が始まります。
ぜひ続きも読んでいただけると嬉しいです。




