第4話 月夜の告白は、もふもふの耳に
一日中、あの子のことが頭から離れなかった。
夕闇が王宮をやわらかな紫に染め始めるころ、仕事を終えた私は、再び薔薇庭園に立ち寄った。
(もし、またあの子が迷い込んでいたら……)
柱の影、花壇の裏、壁のきわ――。
それとなく視線を走らせるけれど、そこにあるのは冷たい石畳と、夜の香りを孕み始めた風だけ。
(……何してるのかしら、私ってば)
昨夜あれほど震えていた子犬は、朝には跡形もなく消えていた。
無事なのか。
あの追手たちに捕まってしまったのか。
それとも、飼い主のもとに戻って──私のことなんて忘れてしまっているのかも。
(……うん。それなら、それでいいんだけど)
寂しさを振り切るように、寮へ戻る。
階段を上って廊下を曲がった、その時だった。
私の部屋の扉の前に、見覚えのある黒い塊がちょこんと鎮座していた。
「……っ、わんこちゃん!?」
声を上げた瞬間、丸まっていた塊が弾かれたように顔を上げた。
金色の瞳が私を捉えたかと思うと、
ぱたたたたっ!
短い足を懸命に動かして駆け寄ってくる。
「ちょっ、そんな全力で走ったら転ぶわよ!」
笑いながらしゃがみ込むと、子犬は勢いのまま私の胸へと飛び込んできて、「くぅ〜ん!」と甘えるように鳴いた。
「もう……心配したんだからっ」
嬉しさで、思わず声が弾む。
無事だった。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
***
部屋に入り、すぐ子犬の様子を確かめる。昨日の傷は、かなり落ち着いているようだ。
ほっとした直後──子犬のお腹から、きゅるる……という可愛らしい音が室内に響いた。
私はくすくす笑いながら、急いで夕食の支度を整える。
温かいスープとパン。それから子犬用に蒸したさつまいもを小皿へ。
「はい、お待たせ……お口にあうかしら」
お皿を差し出すと、子犬の瞳がぱぁっと輝く。よほどお腹が空いていたのか、夢中でもぐもぐ食べ始めた。
「ふふ、いい食べっぷりね」
一人暮らしの静かな部屋に、誰かの食事の音が響く。
それがこんなに温かいものだなんて、忘れていた。
私は自分用のワインを少しだけ口に含み、熱を帯びた頬を手のひらで押さえた。
「ねぇ、聞いてくれる? 今朝ね、薔薇庭園でレオンハルト様にお会いしたの」
子犬相手に何を言っているんだろう。
そう思いながらも、一度溢れた言葉は止まらない。
「『座るか?』って……隣に座らせてくださったのよ。ただそれだけなのに、私、心臓が止まるかと思ったわ」
朝の光の中で見た、あの凛とした横顔。
思い出すだけで、指先まで熱がぶり返す。
「……実はね。レオンハルト様は、私の初恋の人なの」
ぽつりと零した瞬間。
さつまいもを食べていた子犬が、ビクッと身体を震わせ、食べかけの欠片をポロッと落とした。
「えっ……なに? その反応」
思わず吹き出してしまう。
理解しているはずがないのに、まるで動揺しているみたいで、可愛くて仕方ない。
「ふふ……初恋っていっても、そんな大した話じゃないの」
私は膝に乗ってきた子犬の柔らかい耳を撫でながら、遠い日の記憶を紐解いていった。
***
十年前。
父に連れられて見学した剣術大会。
私はひとりの少年に出会った。
濡れ烏のような深い黒髪。
太陽の光を纏った金の瞳。
大人に混じって剣を振るい、自分よりも大きな相手にも臆せず挑んでいく。
その凛々しい剣捌きと、ひたむきさを宿して輝く瞳は、今でも私の瞼の裏に、はっきりと焼きついている。
少年は順調に勝ち進んだものの、惜しくも敗退。
それでも表情ひとつ崩さず、静かに剣を収めて一礼すると、剣技場を後にした。
その後ろ姿に、観客は惜しみない拍手を送っていた。
でも。
……本当に心を奪われたのは、そのあと。
大会後の懇親会。私は偶然、彼を見つけた。
誰もいないバルコニーで、ひとり小さくしゃがみ込んでいた。
おでこの擦り傷に血がにじんでいたけれど、気にも留めていない。
こぼれる涙を拭おうともせず――ただ、悔しさに身を任せていた。
私に気づくと、「放っておいてくれ」と言わんばかりに顔を背けたけれど、私は彼の隣にそっと腰を下ろした。
気の利いた言葉なんて思いつかなかった――ただ、そばにいたかった。
ようやく涙が止まったころ。
彼は小さく笑ってくれた。
強がりと照れが混じった、不器用な笑顔。
私が持っていた薬草の軟膏を、おでこの傷にそっと塗ってあげたら、「変な匂いだな」なんて言いながら、耳の先まで真っ赤にしていた――
初恋だった。
ぶっきらぼうで、負けず嫌いで、まっすぐな瞳をした、私の騎士様。
「ずっと騎士見習いの男の子だと思ってたの……まさか、彼がレオンハルト様だったなんて……。補佐官室に配属されるまで気づかなかったのよ!?」
私はふっと力を抜き、グラスの残りを飲み干した。
子犬はじっとこちらを見つめてくる。
……こんな昔話を子犬相手に語っているなんて、急に自分が恥ずかしくなってきた。
「べ、別に今さら告白しようとか、そういう話じゃないの。
あちらは公爵様だし、私のことなんて忘れてるわ……。これは、ただの思い出話だから」
言い聞かせるように笑って、私はベッドに横たわった。
子犬は当然のように腕の中へ潜り込んできて、私の指先をぺろりと舐めた。
まるで――まるで、ここが自分の居場所だと言わんばかりに。
「……おやすみ、わんこちゃん」
そっと毛並みを撫でると、子犬は気持ちよさそうに小さく鳴いた。
その温もりに包まれながら、私はゆっくりと意識を手放していく。
その夜、私は夢を見た。
幸せで、不思議な夢を。
第4話をお読みいただき、ありがとうございます。
月夜にこぼれた初恋の告白は、もふもふの耳へ――。
次回、ふたりの関係は思わぬ方向へと動き出します。
続きも読んでいただけると嬉しいです。




