第3話 失われた夜の記憶、朝霧の庭園
朝の気配が、ようやく王宮に満ち始めたころ。
宰相補佐官室では、二人の男が向き合っていた。
レオンハルト・ランベールは、窓から差し込む光を背負い、まるで彫刻のような佇まいで静かに座っている。
「無事だろうとは思ってたけどさ……まあ、一応ね。心配はしてたんだよ?」
空色の髪を揺らし、魔法省のコバルトブルーのマントを翻しながら微笑むのは、宮廷魔法師のオディロ・セラフィーニ。
レオンハルトにとって、数少ない友人の一人だ。
その軽やかな口調とは裏腹に、彼の瞳には親友を案じる色が宿っていた。
「治癒魔法もいくつか試したけど……やっぱり“呪い”の影響かな。あまり効いてる感じがしない」
オディロは眉をひそめながら、レオンハルトの右手首に巻かれた包帯を丁寧に交換していく。
魔法省随一の実力を誇る彼の魔法が弾かれる――それだけで、この呪いが相当厄介だと分かる。
レオンハルトは、包帯越しに伝わる鈍い熱を確かめるように、軽く拳を握った。
「ありがとう。だが、不思議と疼きはほとんどない。……よく効く傷薬が塗られていたようだ」
包帯の隙間から、ふわりと微かな香りが漂ってくる。
今のレオンハルトには、“夜の自分”の記憶がほとんどない。
右手首に怪我をした経緯すら、思い出せなかった。
覚えているのは、霧の向こうから差し出されたような断片だけ。
(……優しい声。
あたたかい腕の中。
不思議な香り……)
夢のようにぼやけているのに、なぜか懐かしい感覚だけは鮮明だった。
(誰かが治療してくれたらしいが……懐かしいと感じたのは気のせいだろうか)
オディロは包帯を留めながら、少し安心したように笑う。
「でも、顔色が戻ってよかったよ。昨日の君、本当にひどかったんだから」
「ああ。あんなに深く、穏やかに眠れたのは……いつ以来だろうな」
正確には“眠った”というより、誰かの体温にすべてを預けてしまったような、言葉にしがたい安らぎだった。
呪いの痛みに苛まれる夜に、穏やかに眠れることなどないのに。
そして、遠い昔の……初恋の夢を見た気がしていた。
(……初恋、か)
思わず苦笑する。
今はそんな感傷に浸っている暇などない。
呪いの解呪が最優先だ。
(……薔薇庭園で、俺を拾ったのは誰なんだ?)
最後の記憶が途切れた場所を確かめるべく、レオンハルトは外套を手に立ち上がった。
***
早朝の執務棟は、息を潜めたような静けさに包まれている。
私はまだ人影もまばらな回廊を抜け、薔薇庭園へと向かっていた。
(……気になりすぎて、こんなに早く来ちゃったわ)
今朝、目を覚ましたとき。
ベッドの隣にいたはずのあの子は、忽然と姿を消していた。
ドアも窓も閉まったまま。まるで最初から何もいなかったかのように、部屋はしんと静まり返っていて。
けれど、指先に残る薬草の香りだけが、昨夜の出来事が夢ではなかったと告げていた。
子犬のことが心配だった――それだけのはずなのに。
(もう一度あの子に会いたい、なんて。どうしてこんなに気になるのかしら)
自分でも呆れながら、私は薔薇庭園へ足を踏み入れた。
朝の庭園は、ひんやりと冷たい空気に満ちていて、しんと静まり返っている。
(……いるわけ、ないよね)
そう思った矢先――
朝露に濡れた花々がきらきらと輝く中、薔薇のアーチの下に、一人の先客を見つけた。
夜明けの空を映したような黒髪。
朝日の粒を閉じ込めたような金の瞳。
――私の直属の上官、レオンハルト・ランベール公爵だった。
(レオンハルト様が、こんな時間に薔薇庭園にいらっしゃるなんて意外だわ……)
レオンハルト様はすぐに私に気づき、金の眼差しをゆるやかに向けてくる。
「おはよう、ヴァレッティ秘書官」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「早いんだな」
「おはようございます、閣下。……ええ、少し朝の散歩を」
曖昧に答えたが、レオンハルト様が気にする様子はない。
「そうか」
素っ気ないようにも聞こえる声。
でも、不思議と冷たさは感じない。
(きっとレオンハルト様のくつろぎの時間なのよね。これ以上はお邪魔になるわ)
そう思って軽く会釈し、その場を去ろうとした――そのとき。
「……座るか?」
少しだけ声を和らげて、彼は自分の隣をぽんと叩く。
思いがけない言葉に、私は断る術を知らなかった。
「……し、失礼いたします」
(どうしよう……。レオンハルト様の隣なんて、緊張して息ができないわ)
レオンハルト様は静かに座り、何も言わない。
その沈黙が余計に胸をくすぐる。
(き、気まずい……)
昨夜のことを早く報告しなきゃ……。
そう焦るのに、いざ隣に座ってしまうと、喉の奥に言葉が引っかかって出てこない。「子犬を拾いました」なんて、このタイミングで言いづらくて。
視線を泳がせたとき、彼の袖口から白い包帯がのぞいているのに気づいた。
「閣下……お怪我をなさったのですか?」
「ああ。剣術の稽古でな。大したことはない」
さらりと言って、手首を軽く回してみせる。ひどい怪我ではなさそうだ。けれど、剣の腕も優れるレオンハルト様が怪我をするなど、滅多にないことだった。
「どうか……お大事になさってくださいませ」
そう口にした瞬間、昨夜の子犬の姿がふっと脳裏をよぎった。
右手首――いや、右前足に、同じような怪我をしていたことを。
(黒い毛並みに、金の瞳。……それに怪我の場所まで、あの子と同じなんて)
これほど偶然が重なるとは、奇妙なこともあるものだ。
私は不思議な巡り合わせを感じながら、昨夜の出来事を打ち明けた。
薔薇庭園で子犬を保護したこと。
王族付きの魔法師たちに追われていたこと。
そして、朝になったら子犬が消えていたこと。
レオンハルト様は、黙って話を聞いてくださった。
表情は静かなまま――けれど、金の瞳が一瞬、わずかに揺れた気がした。
「王族のどなたかの飼い犬が逃げ出しただけかもしれませんが……一応、ご報告しておきます」
そう告げると、レオンハルト様は遠くを見つめるように、ぽつりと呟く。
「……飼い犬、か」
その声には、いつもの冷静さとは違う、かすかな苦さが混じっているように思えた。
ひどく静かな朝。
レオンハルト様から微かに漂う、どこか覚えのある薬草の香りが、私の胸の奥をざわつかせていた。
第3話をお読みいただき、ありがとうございます。
静かな朝の庭園で、少しずつ“昨夜”の気配が重なり始めました。
次話もお付き合いいただけたら嬉しいです。




