第2話 小さな騎士様と薬草の香り
深夜の王宮は、遠くで銀嶺梟の鳴き声がかすかに聞こえるだけで、深い眠りに沈んでいた。
人の気配はすっかり消え、石畳を叩く自分の足音だけがやけに大きく感じられる。
私は必死に周囲へ視線を走らせながら、迷路のような回廊を急いだ。
薔薇庭園を飛び出して以来、あの黒マントの男たちが追ってくる気配はない。どうやら、私たちの存在には気づかれずに済んだようだ。
それでも、私の心は少しも軽くならなかった。
逃げるように去っていった、あの小さな影が頭から離れない。
(こっちの方へ行ったと思ったんだけど……あ、いた!)
王宮図書館の裏手にある、魔法省の建物脇――光の届かない石壁の隅。
そこに、あの子はいた。
小さな体をこれ以上ないほど丸めて、ぺたんと座り込んでいる。
さっきまでの勇ましさはどこへやら、肩を上下させて息を切らしていた。
「大丈夫……? 怖かったわよね。もう心配ないわ」
そっと抱き上げると、ふわりと身を預けてくる。腕の中に伝わるかすかな震えに、胸が締めつけられた。
このまま冷たい地面に置いていくなんて――できるわけなかった。
私は周囲を警戒しながら子犬を外套の中に隠すと、人目を避けるように、足早に寮へと向かった。
***
王宮敷地の外れにある、文官用の女子寮。
装飾こそ控えめだけど、静かで落ち着いた空気が流れていて、私は気に入っている。
夜気を含んだ建物はひんやりとしていて、遅い時間のせいか、すれ違う人影もない。
部屋に入り、素早く扉に鍵をかける。私はようやく大きく息をついた。
「ふぅ……。ごめんね、怖かったわよね」
外套の中をのぞき込むように声をかけて、部屋の明かりを灯す。
包みを解くと、子犬は私の腕の中でおとなしく身を委ね、尻尾を弱々しく揺らした。
ベッドに子犬をそっと置き、改めて前足の傷を確かめる。
「……血は止まってるみたい。よかったわ」
深い傷ではなさそうだと判断して、私は部屋の隅に置いてある薬箱を引き寄せた。
中に並んでいるのは、実家から送られてきた《ヴァレッティ家の秘伝薬》。
領内で採れたハーブを使った、昔ながらの伝統薬だ。
見た目は地味で生薬特有の匂いがあるけれど、効き目は王宮の高級薬にも負けない自慢の品だ。
傷薬の蓋を開けると、少し苦味を含んだ爽やかな香りがふわりと広がる。
「ちょっと匂うけど……よく効くのよ。我慢してね」
赤く濡れた前足にそっと薬を塗る。
子犬は「くぅん」と短く鳴いて身体を震わせた。涙ぐんだような金の瞳で、恨めしそうに私を見上げてくる。
「沁みたかしら……ごめんなさい。でも、そんな顔をされたら、私が意地悪してるみたいじゃない」
思わず苦笑してしまう。匂いが気になるのか、子犬は私の指をくんくんと嗅いでいた。
子犬は、包帯を巻いている間も嫌がる素振り一つ見せなかった。
それどころか、傷口に触れる私の指先を、愛おしそうにぺろりと舐めてくる。
(飼い犬なのかしら……なんてお利口さんなの……)
その健気な愛くるしさに、張り詰めていた緊張が甘く溶かされていく。
「大丈夫よ。すぐ良くなるからね」
傷の治療を終えて水の入った小皿を差し出す。
子犬は喉を鳴らして飲み干し、今度は私の腕の中へ潜り込み、甘えるように頬をすり寄せてくる。
(……完全に、懐かれちゃったみたい。……ふふ、困ったわね)
小さな背中をぽんぽんとあやすと、安心したように私の膝の上で丸くなった。
「今夜はここでゆっくりしていってね」
疲れているのだろう。
金色の瞳がとろんとしたかと思えば、気持ちよさそうに目を閉じ、すぐに小さな寝息を立て始める。
無邪気な寝顔。
ただの可愛い子犬なのに、どうして王族直属の魔法師に追われていたのだろう。
この国の魔法師の多くは魔法省に所属し、コバルトブルーのマントを纏っている。
黒マントを身に着けるのは、王族に直接仕える特別な魔法師だけだ。
(王族のどなたかの……飼い犬、とか?……でも、飼い犬を探すのに『殺すな!』なんて叫ばないわ。)
もし何らかの事件に巻き込まれているのだとしたら、私の独断で保護したのはまずかったかもしれない。
「……明日、レオンハルト様に相談しましょう」
宰相補佐官であるレオンハルト様なら、きっと正しい判断をしてくださるはずだ。
子犬を毛布で包み、自分も身支度を整えてベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい。小さな騎士様」
腕の中で感じる、小さな鼓動。
その温もりに包まれながら、私は吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。
――けれど。
翌朝、目が覚めた私の隣に、あの“温もり”はもうなかった。
跡形もなく、消え去っていたのである。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
小さな騎士様、思った以上にお利口で可愛いですね。
でも朝になったら……?
次のお話もお付き合いいただけたら嬉しいです。




