第10話 一生モノの“わんこ癖”
柔らかな朝の光がカーテンを透かして部屋を満たすころ、私はゆっくりと瞼を開いた。
胸のあたりに、心地よい温かな重みを感じる。
そっと視線を落とすと――そこにいたのは、子犬……ではなく。
「……またですの? レオンハルト様」
朝陽に黒髪を輝かせた、この世で最も美しい私の婚約者。
幸せそうに目を閉じ、私の胸元へ頬を寄せて眠っている。
その無防備な寝顔に、思わず微笑みがこぼれてしまう。
「まさか、子犬だった頃の“癖”が残ってしまうなんて」
私が独り言をこぼすと、彼の長い金色の睫毛がわずかに震える。そして満足げに喉を鳴らすと、私の首筋にすり寄って、蕩けるような甘い吐息を漏らした。
「だって……こうしていないと眠れないんだ」
「レ、レオンハルト様……っ。朝から心臓に悪すぎますわ」
私は顔を赤くしながらも、彼の柔らかな髪をそっと撫でる。
「おはようございます。もう朝ですよ。お仕事に遅れます」
「……まだ早いだろう? もう少し、こうしていたい」
まったく動くつもりがない。
公爵閣下ともあろうお方が、完全なる“朝寝坊わんこ”と化している。
「ちょっと……近すぎませんか」
「いや……もっと近くてもいいくらいだ」
そう言うなり、彼は私の腰に腕を回して、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
そして――。
ぺろっ。
「ひゃっ!? も、もうっ、レオンハルト様!!」
首筋に触れた柔らかな熱感に、私は飛び上がった。
「ごめん……無意識なんだ。ほんとに無意識。犬だった頃の後遺症が、まだ抜けなくて」
ちっとも反省していない顔でクスクス笑う彼は、大型犬そのものだ。
「でも……やっぱり、君はいい匂いがする」
その囁きに、耳元からじわりと甘い痺れが広がり、私は抗う間もなく、そのまま蕩けてしまいそうになった。
――呪いが解けてから三ヶ月。
あの事件の後、私たちは名実ともに婚約者となった。
もちろん、結婚するのはルカが成人してからだ。円卓権は我がヴァレッティ家に残ることになる。
リリアンヌ様は、恋煩いが原因と判断され、情状酌量の結果、離宮に幽閉となった。
――もう二度と、表舞台で姿を見ることはないだろう。
オルグラン家は爵位を剥奪され、すべてを失った。
クロード様の数々の悪行が露呈したことに加え、レオンハルト様の調査によって、隣国との不正取引や脱税行為も明らかになったためだ。
一方で、ヴァレッティ家伝統の「薬草の軟膏」は、ランベール公爵家の後押しを受け、国内での流通が始まった。売れ行きは順調で、我が家の財政も少しずつ改善しそうだ。
こうして、幸せで平穏な日々を過ごしている。
ただひとつ――レオンハルト様の“わんこ癖”を除いて。
***
その日の昼下がり。
王宮の執務棟では、今日も文官たちの足音が絶えず、書類が山のように積まれていた。
レオンハルト様の執務室で資料をまとめていた私は、背後から忍び寄る甘い気配に気づいた。
「マリエラ……少しだけ、補給させてくれ」
振り返るより早く、逞しい腕が私の腰を包み込んだ。
「閣下、お疲れですか?」
「ん、ちょっと煮詰まってね。……君が足りなくなった」
耳元で囁かれる熱い吐息に、指先まで熱くなる。
冷徹な宰相補佐官の面影はどこへやら。今の彼は、主の関心を引こうと必死な大型犬そのものだ。
「あ、あの、お仕事中ですわ……」
「わかってる。……でも、これは“後遺症”だから……」
顔が近づき、唇が触れそうになったその時――。
『……んんっ!』
控えめなのに、妙に存在感のある咳払いが執務室に響いた。
私たちはぴたりと固まる。
「俺がいること、完全に忘れてるみたいね」
書類の山の向こうから、オディロ様が苦笑していた。
「オ、オディロ様……っ!?」
私は慌ててレオンハルト様から離れる。
(オディロ様のこと、すっかり忘れてたわ……!!)
しかし、レオンハルト様はまったく動じない。
「なんだ、いたのか、オディ」
「ひどいなぁ。僕は相談役として呼ばれたのにさ。すぐふたりだけの世界に行っちゃうんだから」
揶揄うような声色に、私は焦りまくる。お呼びしたのは私なのに、存在を忘れてしまうなんて……!!
「で、相談ってなぁに?」
オディロ様は頬杖をつき、興味深げな視線を私に向けた。
「実は、レオンハルト様の呪いの残滓……えっと、つまり“子犬の癖”が、なかなか消えなくて……。
ご本人は問題ないと仰いますけど、心配なんです」
「具体的には、どんな“残滓”なのかな?」
「え……」
(具体的に言葉にするのは、淑女としていかがなものかしら……でも、お話しないと相談にならないわね)
私は視線を泳がせながらも、勇気を振り絞った。
「えっと……すごく甘えんぼというか。今みたいにぴったりくっついたり、手の甲を、ぺろっと……」
「ちょっと待って」
レオンハルト様が少し戸惑ったように口を挟む。
「……マリエラ。もしかして、嫌だったの?」
「いえ! 嫌じゃなくて……むしろ、嬉しいというか、恥ずかしいというか……っ!」
オディロ様は、耐えきれないように大笑いする。
「ははは! なるほどね。犬の癖か……。
まあ、治らないかもしれないけど心配ないよ。
――困ってないんでしょ?」
「そ、それは……」
(確かに困ってはいないけど……“嬉しいです”とも言いづらいわ)
私が言葉に詰まっていると、扉がノックされる。
「ヴァレッティ秘書官宛てに《魔封書》が届いております」
「わ、わかりました、すぐ伺います。……少々席を外しますわ」
返答を待つ二人の視線から逃れるように、私はそそくさと立ち上がった。
火照った頬を両手で押さえながら、嵐のような鼓動を連れて、私は部屋を後にした。
***
二人きりになった執務室。
「……で、本当はどうなの? レオン」
オディロは面白がるように目を輝かせて尋ねた。
「呪いの残滓なんて言ってるけどさ」
「なんの話だ」
「おかしいんだよね。俺の解呪は完璧だったはずだよ?
つまり――君がマリエラ嬢に甘えたいだけ、ってことじゃない?」
図星を突かれて、レオンハルトは耳を赤く染める。
「……うるさい。お前こそ、解呪には想いを言葉にするだけで十分だっただろ。“キス”なんて余計な行程を入れやがって」
「あはは、バレた?」
オディロは楽しげに笑い、肩をすくめる。
「君ってマリエラ嬢の前だと、昔からヘタレで素直になれなかったでしょ? だからさ、ちょっとだけ背中を押してあげたんだよ。」
レオンハルトは苦笑して、椅子にもたれる。
寄宿学校の頃からの親友。
互いの嘘も照れ隠しも、すべて見透かしている。
オディロが軽やかに立ち上がり、ウィンクする。
「“呪いの残滓”なんか残ってないのは保証するよ。でも――君のソレは“恋の副作用”だからね。一生モノかも」
そう言うと、ひらひらと手を振って部屋を出ていった。
静まり返った執務室に昼下がりの陽光が差し込み、レオンハルトの横顔を柔らかく照らす。
「一生モノか……それも、悪くないな」
小さく呟き、微笑んだ。
扉の向こうから軽やかな足音が近づいてくる。
扉が開き、愛しい人の笑顔が飛び込んできた瞬間、レオンハルトの胸の奥に宿った“副作用”が、また甘く疼いた。
彼女への想いは、一生モノの“わんこ癖”として残るだろう。
そしてそれこそが、彼にとって何よりも幸福な呪いだった。
「マリエラ。……おかえり」
彼は愛おしげに目を細め、再び“自分だけの主”を抱きしめるために、その腕を広げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
呪いは解けても、想いだけは残る。
そんな“一生モノのわんこ癖”を、少しでも可愛く感じていただけていたら嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




