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第1話 王宮の夜、求婚と想定外

「……この決裁を通したのは、誰だ」


 低く抑揚のない声が響き、執務室の空気が張り詰めた。

 部屋の奥、積み上げられた書類の前。そこに悠然と立っているのは、宰相補佐官――レオンハルト・ランベール様だ。


「……わ、私です、閣下……っ!」


 名乗り出た文官が差し出した書類を、レオンハルト様は何も言わずに受け取った。冷ややかな金の瞳が、紙面の上をなぞる。


(……ああ、やっぱり。

 あの案件、差し戻しになるのね)


 私はペンを走らせながら、心の中でそっと見当をつける。

 案の定、レオンハルト様は書類に目を落としたまま、低い声で結論だけを告げた。それだけで、文官の顔色が変わる。


(愛想がないのよね、レオンハルト様って)


 その眉目秀麗な容姿から「歩く至宝」などと言われ、貴族令嬢のみならず、王族の女性たちからも絶大な人気を誇るレオンハルト様。

 二十三歳という若さで公爵家当主を務め、次期宰相候補の筆頭でもある優秀さから、「氷の鬼才」などとも呼ばれている。

 けれど、とにかく表情がほとんど動かないのだ。


(ああ、また文官さんが泣きそうになってる……。もう少し優しく言えばいいのに)


――そんな「氷の鬼才」の第一秘書官を務めるのが、私、マリエラ・ヴァレッティである。


***


 王宮の執務棟は、今日も嵐のような忙しさだ。

 行き交う文官たちの足音、羽ペンの走る音。積み上がる書類の山は、油断すると朝より背が高くなっている。


 そんな喧騒のただ中で、私はコーヒーの香りに小さく息をついた。


 文官として王宮に上がって二年。

「氷の鬼才」ことレオンハルト様の秘書官に抜擢されてからは、この心地よい忙しさが、すっかり私の日常だ。


「ヴァレッティ秘書官、魔法省行政局との会議、時間が変更になりました!」

「ヴァレッティさん、明日、陛下への謁見後に急遽会議が追加だそうです。調整できますか?」


「承知しました。では午後の内査を前倒しにして……魔導具の徴用に関する調整会議は週明けに回しましょう。あ、こちらの伝達票も、閣下へ繋いでおきますね」


 淀みない判断で指示を捌き、複雑なスケジュールを鮮やかに組み替えていく。

 パズルが完璧にはまった時のような達成感は、何度味わってもたまらない。

 私は、この仕事に心からのやりがいを感じていた。


「ヴァレッティ秘書官、今日も残業か?」


 不意に背後から声をかけられ、私は椅子から飛び上がりそうになる。

 いつの間にか、書類を手にしたレオンハルト様が私のデスク横に立っていた。

 相変わらず、直視をためらうほど浮世離れした美貌だ。ただならぬ色香を漂わせる上官に、思わず見惚れそうになるが、そこは秘書官としての矜持が勝った。


「ええ。こちらの指示書を明朝までに整えておきたいので」


「ほどほどにしろ。君に倒れられては、業務が滞る」


 ぶっきらぼうな言葉。

 けれど、これは彼なりの不器用な気遣いなのだ。


「ありがとうございます。閣下もあまりご無理なさいませんように」


 小さく笑って返すと、レオンハルト様は一瞬、黄金色の瞳を細めた。


「まだ片付けるべき案件が残っている。……今夜は冷える。防寒は怠るな」


 それだけ言うと、レオンハルト様は踵を返し、ご自分の執務室へと戻っていく。

 その背中が書架の向こうに消え、重厚な扉が閉まる音が夜の王宮に溶けていった。


 私は小さく息を吐き、再びペンを取る。

 今日もまた、王宮の夜は少し長くなりそうだ。


***


(すっかり遅くなってしまったわ……)


 執務棟を出ると、冷え込み始めた夜気がふわりと頬を撫でた。

 空には、鋭い爪のような三日月。薔薇庭園はしんと静まり返り、ランタンの灯りだけが、ひっそりと石畳をオレンジ色に縁取っている。


 寮への近道だから、遅くなった日はいつもこの薔薇庭園を通り抜ける。

 けれど、今夜に限っては、その判断が裏目に出たらしい。


 回廊の太い柱の向こうから、見覚えのある長身の影が、ゆっくりと姿を現した。


(……しまった。一番会いたくない相手だわ)


 反射的に引き返そうとしたけれど、それより早く、傲慢な声が私の逃げ道を塞ぐ。


「こんばんは、マリエラ・ヴァレッティ伯爵令嬢」


 月光を受けて淡く光る銀髪。

 完璧に整えられた微笑み。

 けれど、その瞳の奥に潜む冷たい計算を、私は知っている。


――クロード・オルグラン伯爵令息。

 私の、自称・婚約者候補。


「こんばんは、クロード様。こんな時間にこんなところで……奇遇ですわね」


(……待ち伏せしてたくせに)


 内心の毒づきを完璧な淑女の仮面で覆い隠し、にこやかに挨拶を返す。

 彼は私の事務的な態度に苛立ちをにじませた。


「……俺の求婚を、また断ったそうじゃないか」


「申し訳ありません。弟が家督を継ぐまでは、どなたとも結婚するつもりはございませんの」


 この不毛なやり取り、もう何度目だろう。

 断っても断っても、クロード様は懲りずに求婚してくる。


「没落寸前のくせに……! ありがたく我が家の“資金援助”を受ければいいものを!」


 苛立たしげに声を荒らげる。

 その圧に、私はそっと息を吐いた。


 たしかに、我がヴァレッティ伯爵家は没落寸前の貧乏貴族だ。

 けれど、だからといってクロード様と結婚する気はない。

 そもそも、彼は、私への想いから求婚してくるわけではないのだ。


(クロード様の目的は、“円卓会議の議決権”)


 王宮政治の中枢にあたる円卓会議。

 代々の貴族が議席を持ち、国の重要事はすべて、そこで決められる。


 我がヴァレッティ家は、建国以来続く旧家。

 没落寸前とはいえ、その“席”だけは、今も残っている。


 一方で、オルグラン家は新興貴族。

 海運業で莫大な富を築いたらしいけれど、陰では「成金貴族」などと囁かれることも多い。


(……つまり、私と結婚すれば、旧家の伝統と権威が手に入る。そういう計算、よね)


「忘れ物をしましたので、これで失礼しますわ」


 これ以上話しても無駄だと、踵を返そうとした、その時。


「待て、マリエラ!」


 乱暴に腕を掴まれ、冷たい石壁に押しつけられる。

 背中に走る衝撃に、息が詰まった。


「……本当に、可愛げのない女だ」


 怒りと嘲りを孕んだ目が、ぞっとするほど近い。

 王宮内で女性に手を上げるなど、絶対に許されない暴挙。

 けれど、彼は完全に頭に血が上っていた。


「……離してください。大声を出しますわよ」


「やってみろ。今日こそ、その生意気な口を――」


「ぐるるるる……ッ!」


 彼の手が私の頬に触れようとした、その瞬間。

 足元から、低く、喉を鳴らすような唸り声が響いた。


「い、いてててててっ!」


 突然、クロード様が悲鳴を上げて飛び退く。

 視線を落とすと、そこにいたのは一匹の小さな黒い子犬だった。


 月明かりを溶かしたような、神秘的な金の瞳。

 ふわふわの黒い毛を逆立て、小さな牙を剥き出しにして、私の前に立ちはだかっている。


「……助けて、くれたの?」


 思わず見惚れてしまうほど、その立ち姿は凛としていた。

 クロード様が子犬を蹴り上げようとしたけれど、子犬はひらりと風のように身をかわし、再び鋭く唸る。


「ちっ……! なんだこいつ……!?

……覚えてろ、マリエラ。次は逃がさないからな!」


 騒ぎを聞きつけた衛兵が来るのを、恐れたのだろう。

 クロード様は忌々しげに子犬を睨み、逃げるように去っていった。


 再び静まり返った薔薇庭園で、私はへなへなと座り込む。

 心臓が、うるさいくらいに脈打っている。


「……くぅん」


 さっきまでの必死な威嚇が嘘のように、子犬が気遣わしげに鼻先を寄せてきた。

 抱き上げると、小さな体から伝わる温もりが、私の震えを少しずつ止めてくれる。


「ありがとう……。あなたがいなかったら、どうなっていたか……」


 両親を流行り病で亡くして三年。

 愛する弟のルカが成人するまで、“当主代理”としてヴァレッティ家を守る――それが、私のたった一つの使命だ。


 この国では、女性がひとりで爵位を継ぐことは許されていない。

 だからこそ選択を誤れば、すべてが簡単に奪われる。


 もし、ルカが家督を継ぐ前に、私が誰かの妻になれば。

 爵位も、議決権も。

 円卓に連なるすべての権利が、他家のものになってしまう。


(しっかりしなきゃ……ルカが成人するまで、あと二年)


 胸の奥で、何度も言い聞かせる。

 けれど本当は、怖くて仕方なかった。

 私ひとりで、この荒波を乗り越えられるのか――。


「……っ、あなた、怪我をしてるの!?」


 ふと気づけば、私の手の甲に赤い跡がついていた。

 子犬の右前足が、痛々しく赤く濡れている。


「少しだけ、じっとしていて」


 すぐにハンカチを取り出し、手早く応急処置を施す。


「よし、これで大丈夫。

 でも少し痛むかもしれないわね」


 子犬は暴れることもなく、じっと私を見つめている。

 その金の瞳は、まるで言葉を理解しているかのように、深く澄んでいた。


「ちゃんと治療をした方が――」


 そう言いかけた時、子犬がぴくりと耳を立てる。

 回廊の影をじっと見つめていたかと思うと、私の腕をすり抜けて出口のほうへ駆けていってしまった。


「あ、待って! まだ手当てが――!」


 追いかけようと足を踏み出した私の耳に、遠くから人の声が届く。


「血の跡を追え! 必ず捕らえろ!」

「絶対に殺すな!

 抵抗するなら、魔法を使っても構わん!」


 回廊の奥からだった。

 複数の足音と物々しい叫び声。

 空気が、一気に張り詰める。


(血の跡?……あの子犬を探しているの?)


 けれど、その殺気立った様子は、迷子の子犬を探しているというより、“獲物”を追っているかのような、異様な気配だった。


 慌てて周囲を見回す。

 けれど、子犬の姿は、もう見当たらない。


(なぜ、あんな小さな子犬を?)


 考えるより先に、身体が動いていた。

 男たちの怒号に背中を押されるように、私も走り出す。


 出口の石段を踏み出す直前、思わず振り返った。

 月明かりに照らされ、黒いマントを翻した男たちが、薔薇庭園へとなだれ込んでくる。


(黒マント……?

 王族付きの魔法師……でも、どうして――?)


 私は、闇の中へ消えていく小さな影を追って、夜の王宮を駆け出した。

第1話をお読みいただき、ありがとうございます。

王宮の夜に起きた、ちょっとした想定外から物語が始まりました。

ぜひ続きも読んでいただけると嬉しいです。

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