霧の向こうの九龍
歴史とは、勝者によって書かれるものだと言われます。しかし、その「勝利」の定義が、時間の経過とともに変質してしまったとしたらどうでしょうか?
1997年7月1日、香港。
降りしきる雨の中、ユニオンジャックが降ろされ、五星紅旗が掲揚されたあの日、世界はそれを「帝国の終わり」と呼び、中国は「百年の屈辱の清算」と快哉を叫びました。
地図上の色は変わり、主権は回復されました。ナショナリズムの観点からすれば、それは疑いようのない完全な勝利でした。
しかし、四半世紀が過ぎた2025年の今、私たちは立ち止まらざるを得ません。
かつて「東洋の真珠」と呼ばれた街は、その輝きを変質させ、世界との繋がりを失いつつあります。そして、主権を取り戻したはずの母国・中国もまた、国際社会からの孤立と経済封鎖という冷たい風の中に立っています。
ふと、禁断の問いが頭をもたげます。
「我々は、鳥籠を取り戻すことに熱中するあまり、中の青い鳥を窒息させてしまったのではないか?」
この小説は、一つの思考実験です。
もしも、あの歴史の転換点で、指導者たちが「面子」よりも「実利」を選んでいたら?
もしも、中国の最高実力者であったトウ(董)氏と、英国のフレッチャー首相との間で、世界を欺く「第三の密約」が交わされていたら?
ここに描かれるのは、地図の色を塗り替えることよりも、その土地が産み出す富と機能を支配することを選んだ、「もう一つの中国」の姿です。
そこにある香港は、依然として他国の旗の下にあります。しかし、その屈辱に耐えることによって、中国が手に入れたものは、現実世界の私たちが喉から手が出るほど欲している「世界への通行手形」でした。
この物語は、植民地支配へのノスタルジーではありません。
「真の強国とは何か」という問いに対する、痛みを伴う自問自答です。
プライドのために扉を閉ざすことと、恥を忍んで他人の鍵を使い続けること。どちらが真に国家と国民を利する道だったのか。
霧の向こう側に広がるパラレルワールドへ、読者の皆様をご案内します。
そこにある繁栄の光景が、単なる絵空事に見えるか、それとも現実世界への鋭い風刺に見えるか。それは、ページをめくる皆様の心の中に答えがあるはずです。
第1章:北京の憂鬱、霧の裂け目
(現実世界:2025年 北京)
外交部北楼の窓から見える北京の空は、鉛色に沈んでいた。
エリート外交官の趙立軍は、米中対立の最前線で疲弊していた。
趙は、溜息をつきながらネクタイを緩めた。45歳。外交部の次世代エースと呼ばれる彼だが、その仕事は「火消し」ばかりだ。
アメリカによる先端半導体の輸出規制は強化され、欧州との関係も人権問題で冷え込んでいる。頼みの綱だった香港も、2020年の国家安全維持法導入以降、「普通の中国の都市」となり、かつての国際金融センターとしての輝きは失せた。外資はシンガポールへ逃げ、残ったのは空虚な愛国スローガンだけだ。
「我々は、歴史の正しい側に立っているはずだ……」
趙は自分に言い聞かせるように呟いた。アヘン戦争の屈辱を晴らし、香港を取り戻したことは、中華民族の偉大な復興の象徴だったはずだ。だが、なぜ今、我々はこんなにも世界で孤立しているのか?
その夜、北京は記録的な濃霧に包まれた。
帰宅途中、趙は天安門広場の近くで方向感覚を失った。乳白色の霧が視界を奪う。ふと、霧の向こうに奇妙な光が見えた。古い時代のガス灯のような、温かく、だがどこか異質な光。
何かに導かれるように、趙はその光へ向かって足を踏み出した。
第2章:反転した鏡像
(パラレルワールド:2025年 香港)
喧騒と熱気。そして、湿った海風の匂い。
趙が目を開けると、そこは北京ではなかった。見覚えのある、だが決定的に違う街並み。ヴィクトリア・ハーバーだ。
彼は愕然とした。
スターフェリーのターミナルビル。その頂上に翻っていたのは、五星紅旗ではない。鮮やかな青と赤と白の、ユニオンジャック(英国国旗)だった。
「馬鹿な……今は2025年だぞ。映画の撮影か?」
混乱する趙の目の前を、二階建てトラムが通り過ぎる。車体には『祝・エリザベス三世女王陛下 即位記念』の広告。そして街を行き交う人々――西洋人、中国人、インド人、中東系――その表情には、北京の街角で見かけるような監視への緊張感や、張り詰めたナショナリズムの影が一切ない。
ふと、ショーウィンドウのテレビニュースが目に入った。BBCのアナウンサーが報じている。
『ロンドン株式市場は、香港経由での中国ハイテク企業への巨額投資を受け、史上最高値を更新しました。アメリカ大統領は、イギリスが対中制裁の抜け穴になっていると強く非難していますが、英国首相は「香港は自由貿易港である」と一蹴しました』
趙は耳を疑った。イギリスが、アメリカの圧力に逆らって中国を守っている?
「おい、君。迷子かね?」
声をかけてきたのは、仕立ての良いスーツを着た初老の男だった。流暢な英語、そして洗練された広東語。男は名刺を差し出した。
『英国領香港政庁・対中経済連絡局長 陳偉文』
趙は震える手で自分の外交官身分証を見せた。
「私は、中華人民共和国外交部の趙立軍だ。ここは……どうなっている?」
第3章:賢者の選択、愚者の誇り
陳は、趙をマンダリン・オリエンタルホテルのラウンジに連れて行った。
陳の説明は、趙の常識を根底から覆すものだった。
「君の世界では、1997年に香港が返還されたそうだな。……気の毒に」
陳は同情するように言った。
「この世界では違う。1982年、鄧小平氏は土壇場で決断したのだ。『面子よりも実利を取る』と。中国は主権を主張しつつも、統治権をさらに100年間、イギリスに貸与する契約を結んだ」
「そんな売国行為が許されるはずがない!」趙は激昂した。「アヘン戦争の屈辱を忘れたのか!」
陳は冷ややかに笑った。
「屈辱? 窓の外を見てみろ。誰が屈辱を味わっているように見える?」
趙は窓外を見た。眼下の港には、世界中のコンテナ船がひしめいている。
「見ての通り、ここは英国領だ。だから、アメリカの対中ハイテク制裁は適用されない。中国企業はここにペーパーカンパニーを作り、最新の半導体や技術を自由に買い付け、深センへ送る。ここは中国の『魔法の財布』であり、西側の技術を吸い上げる『最強の掃除機』なのだよ」
陳は続けた。
「君の世界の中国は、香港を『解放』したつもりだろうが、実際には自分の首を絞める縄を自分で編んだのだ。我々の世界の中国政府は賢かった。統治の面倒なコストと政治的リスクをすべてイギリスに押し付け、その果実だけを吸い上げている。真の勝者はどちらかな?」
第4章:平和な海峡
衝撃はそれだけではなかった。
ホテルのロビーで、趙は台湾からのビジネスマンたちが談笑しているのを見た。彼らは大陸の人間と何のわだかまりもなく握手を交わしている。
「まさか、台湾海峡の緊張も……」
「緊張? なぜそんなものが必要なんだ?」
陳は肩をすくめた。
「北京が香港に対して『イギリス統治を認める』という究極の寛容さを見せたことで、台湾人は安心したのだ。『共産党は話し合いが通じる現実的な相手だ』とな。この世界では、中台の経済一体化は君の世界より20年は進んでいる。武力統一など誰も口にしない。あと数十年で自然に連邦制へ移行するだろう」
趙は眩暈がした。
自分の世界では、香港への強硬姿勢が台湾を恐怖させ、それが米国の介入を招き、戦争前夜の緊張を生んでいる。
しかしこの世界では、香港を「手放した」ふりをすることで、中国は台湾の心を掴み、アジアの真の覇者となっていたのだ。
「我々は……勝ったつもりで、全てを失っていたのか」
趙は、己の信じてきた「愛国」の定義が音を立てて崩れ去るのを感じた。領土の色の塗り替えにこだわった結果、中国は自らを檻に閉じ込めてしまったのだ。
第5章:霧の彼方への帰還
数日間の滞在で、趙はこのパラレルワールドの繁栄と、その裏にある冷徹な計算を理解した。
この世界の中国は、プライドを捨てて「イギリスの旗」という最強の盾を利用し、世界を実質的に支配していた。それは屈辱ではなく、究極の戦略的勝利だった。
そして、別れの時が来た。
ヴィクトリア・ピークの頂上で、再びあの濃霧が発生した。
「元の世界に戻れば、君は絶望するかもしれない」
陳偉文は、霧の境目で静かに言った。
「だが、覚えておいてくれ。歴史には別の道があり得たことを。そして、真の強さとは、旗の色ではなく、国民がいかに豊かで自由に生きられるかで決まるということを」
趙は頷き、霧の中へと足を踏み出した。ユニオンジャックの鮮やかな色が、白い霧に溶けて消えていく。
エピローグ:赤い檻の中で
(現実世界:再び、北京)
趙立軍は、天安門広場の冷たい石畳の上で目を覚ました。
霧は晴れていた。見上げれば、巨大な五星紅旗が翻っている。いつもの見慣れた、威圧的な光景。
彼はふらつく足取りで外交部へと戻った。
ロビーの巨大スクリーンには、プロパガンダ映像が流れている。『香港返還28周年、愛国者による統治がもたらした繁栄』。画面の中の香港は、赤い旗で埋め尽くされ、人々は作り笑顔を浮かべている。
以前なら誇らしく感じたその映像が、今は酷く空虚で、哀れなものに見えた。
彼は知ってしまったのだ。その「勝利」の代償として、中国が何を失ったのかを。
趙は自分のデスク座り、作成途中だった「米国の不当な制裁に対する抗議声明」の草案を見つめた。
彼はペンを執り、震える手で、決して提出されることのない一文を書き加えた。
『我々は、籠の中の鳥を捕まえるために、籠そのものを焼き払ってしまったのではないか』
窓の外、北京の空は今日も重く淀んでいる。
霧の向こうで見た、あの眩しいほどに輝いていた「もう一つの中国」の幻影が、彼の瞼の裏から消えることは永遠になかった。
(完)
著者の独白:失われた真珠への挽歌
歴史のIFを語ることは、時に残酷な作業となります。
もし、香港がイギリスの植民地であり続けることが許されていたなら――。
それは中国にとって、アヘン戦争以来の「歴史的屈辱」の継続を意味したでしょう。しかし、その一時的な感情的満足と引き換えに、中国は計り知れない実利を手に入れることができたはずです。
米中対立の嵐を避けるための堅牢なシェルター、世界中の富を吸い寄せる魔法の窓口、そして台湾海峡の平和を保証する最強の外交カード。
現実の歴史において、中国は「主権の完全回復」という美名のもとに、その全てを自らの手で解体しました。
彼らは「借り物の真珠」を強引に自分の首にかけようとして、その真珠が持つ本来の輝き――世界を照らし、自らを利する光――を永遠に失ってしまったのです。
現在、中国化された香港の街角で、かつての自由な空気が薄れていく様を見るにつけ、私は考えずにはいられません。
真に賢明な国家とは、自らの面子のために扉を閉ざす国ではなく、たとえ他人の鍵を使ってでも、世界への扉を開け続ける国ではなかったのか、と。
「もし」という言葉は、歴史において最も無意味であり、同時に最も魅惑的な言葉です。
本書の執筆中、私は何度も自分自身に問いかけました。
「植民地支配の継続を描くことは、過去の帝国主義を肯定することにならないか?」と。
しかし、ページが進むにつれて明らかになったのは、この物語の本質がイギリスへの賛美ではなく、むしろ現代の中国指導部に対する痛烈なアイロニー(皮肉)であるという事実でした。
作中に登場するパラレルワールドの中国は、現実よりも遥かにしたたかです。
かつての最高実力者は、英国のフレッチャー首相に対し、領土という「名」を捨てて、経済発展という「実」を取りました。
彼らは「恥」を忍んで敵の旗を利用し、結果として世界を支配する力を手に入れました。それは、感情よりも計算を、プライドよりも生存を優先する、冷徹なリアリズムの勝利でした。
対して、現実世界の私たちはどうでしょうか。
2025年の今、私たちは主席の下で「完全なる主権」を回復し、香港を真紅に染め上げました。しかし、その代償として失ったのは、世界と呼吸をするための唯一無二の「肺」でした。
主人公が霧の向こうで見たものは、決してユートピアではありません。それは、「我々が持てるはずだった、もう一つの可能性」の残酷な提示です。
香港という街は、東洋と西洋の間に架かった、奇跡のような吊り橋でした。
橋は、どちらか一方の岸に吸収されてしまえば、もはや橋としての機能を失います。ただの行き止まりの道路になってしまうのです。
私たちは、橋を自分のものにすることに固執するあまり、その橋を燃え落としてしまったのかもしれません。
本書を書き終えた今、私の心に残っているのは、深い喪失感です。
歴史にリセットボタンはありません。時計の針を1982年に戻すことも、1997年の雨の日に戻すこともできません。私たちは、この「赤い檻」としての香港と向き合い、生きていくしかありません。
しかし、読者の皆様が本を閉じ、現実の香港あるいはニュース映像を見た時、ふと想像してくだされば幸いです。
あの霧の向こう側で、今もユニオンジャックの下、皮肉にも「中国のために」逞しく生き続けている、もう一つの香港の姿を。
最後に、この思考実験に付き合ってくださった全ての皆様に感謝を申し上げます。
霧は晴れましたが、その先に広がる荒野をどう歩くかは、私たち次第なのです。




