09 小悪魔
カフェの席に腰を下ろしても、心臓はまだ早鐘を打っていた。
店員さんが運んできたほうじ茶ラテの幸せな香りで、多少気分は落ち着いて来る。
さっきおれを助けてくれた長身の男は、レモンティーのストローを噛みながらおれをじっと眺めている。
──大宮俊平。
この男は、少なくとも半年前までは、おれと同じ本屋で働いていたフリーターだった。気さくな性格で誰とでも仲良くなるが、深いところで他人と一線引いているような、どこか不思議な男。
「んで、キミのお名前は?」
痺れを切らしたようにそう聞いてくる。
大宮さんの視線が、おれの首元や手首にちらちらと注がれているのが分かった。
さすがに、縫合痕に気づかれたか。
「畠山灯里」と名乗りかけて、口を閉じる。
──塁が今のおれを畠山灯里だと信じてくれたのは、かなり特殊な例だ。おれが「畠山灯里」しか知らない秘密を知っていたから、ようやく話を聞く気になってくれただけ。
親友の塁でさえそうだったのだ。それ以上の根拠がなければ、他人がおれを信じるはずがない。
「……あなたが“リョーコ”と呼んだんじゃないですか」
ナメるなよ、おれは生粋の内弁慶だぞ。
やわらかく笑うと、大宮さんは「この女」とでも言いたげに椅子へ深くもたれた。
だが、目だけは楽しそうにこちらを捕らえている。獲物を見つけた猫のような、好奇心の影がちらついていた。
「へぇ。ほんま、変わった子やなァ」
「あなたの方が変わってますよ。彼氏のフリなんかして」
「カッコ良かったやろ?」
そう言って、他人事みたいに笑う。
油断ならないが、敵意はない。ただ、突如現れた「未知の面白コンテンツ」としておれを楽しんでいるようだ。
どうするべきか。
偶然とはいえ、知り合いに出会えた。何か有益な情報を引き出したい。だが、自分が畠山灯里であるとは明かすつもりはない。
──まずは、話題で注意を引く。
少し間を置き、自然を装って尋ねた。
「そういえば……あなた趣味で配信やってましたよね。今も続けてるんですか、“ミヤペー”さん」
大宮さんの手が止まり、ゆっくりこちらを見る。
次の瞬間、彼は耐えきれないと言った様子で吹き出した。
「キミ、ホンマ何者やねん。顔出しもしてへんし、言いふらしとる訳でも無いんやけどなァ最近は」
スマホを取り出し、画面を向けてくる。
覗きこめば、動画配信サイト《YWITCH》のチャンネルページが見えた。
チャンネル登録者数は、半年前に見た数字から大きく桁が跳ね上がっている。
「……すごいですね」
「毎日配信してな。切り抜きの編集も自分でやっとるから、寝不足で死ぬか思てるわ」
わざとらしく肩を落としてみせる。
確かにそう言われると、半年前よりも服装の質は上がっているのに、身体は痩せたように見える。
「キミ、ウチ来て動画の編集手伝ってくれへん? 古いPC余らせとるからそれ使ってええし。リョーコちゃんみたいなカワイイ子にならお駄賃も弾むで?」
ナンパの延長線の冗談として、軽い調子でそんなことを言って来る。
普通なら笑って流すところだ。
──しかし、今のおれにはこれが現実的な選択肢に思えた。
今のおれは「身元不明女性」だ。このままでは、普通のアルバイトは通らない。
塁にこれ以上負担をかけないためにも、自分で稼ぐ必要がある。
自分のPCがない今の環境で、機材を貸してくれる相手は貴重だ。
大宮さんは明らかに忙しそうで、人手が欲しいのは本当だろう。
ここを逃せば、大きなチャンスを失う気がする。
「……やります」
思ったよりも自然に言葉が出た。
予想もしていない返答だったのだろう。大宮さんは面くらったような表情を浮かべる。
「はぁ? いやいや冗談やって。ほんまに来られても困るわオレ」
「仕事が欲しいんです」
即答すると、大宮さんは眉を寄せたままこちらを見る。
「……編集って楽なもんちゃうぞ。それに、万が一変なことされたらオレが終わる」
「存じています。簡単なものなら経験がありますし、変なことはしません」
拒絶の色が強い。
やはり、見ず知らずの人間を家に入れるリスクは無視できないか。
なら、更に大きなリスクをこちらから提示するしかない。
こうなったらもうヤケだ。おれは少しだけ首を傾げ、あくまで無邪気を装って言葉を継いだ。
「でも、断られたら……“わたし”、あなたのチャンネルのコメント欄に書いちゃうかもしれません。『ミヤペーさんは、家出少女を連れ込んで虐待してる』って」
大宮さんの顔が凍りついた。
「もちろん嘘ですけど。でも、わたしの見た目は、被害者を演じるのにうってつけだと思いませんか?」
静かに畳み掛けると、大宮さんは口を半開きにして絶句する。
おれもおれで、平静を装ってはいるが心臓がばくばくと跳ねている。
スマホも持っていないおれに、そんな拡散力があるわけない。正直、脅迫にすらなっていないハッタリだ。
──でも、この人の性格ならば。
大宮さんの目に宿る色が、警戒から変化した。
彼は口元を手で覆い、肩を震わせ始める。
「……ハッ、あっははは!」
突然の哄笑。
大宮さんは涙が滲むほど笑ったあと、面白そうにおれを見上げた。
「……とんだ小悪魔引っ掛けたなァ」
ぼそりと呟く大宮さんの口元は、完全に笑っていた。
──こんな脅迫を「小悪魔」で済ませて面白がるあたり、この人も大概だ。
「わかった。その度胸と、この状況でハッタリかます頭の回転に免じて──とりあえず一週間、キミに簡単な編集を任せる。アカンと思ったら即切る。それでええか?」
「はい」
「オレの家、来るんよな?」
「行きます」
「うわ、マジで来るんや……おもろ……」
大宮さんは、収まらない笑いを隠すようにスマホを放り出す。
「ほな、連絡先交換しよ。仕事の話もあるしな」
スマホの画面が差し出される。
なんとか、ここまで漕ぎ着けた。
だが、塁に無断でこれ以上話を進めるわけにはいかない。
「……実はスマホも持ってなくて。こちらで確認したいこともあるので、今晩わたしの方から連絡させていただきますね」
「スマホを持ってない!? ……ほんまええ度胸しとるわキミ。ほんでオレの方がフラれる可能性もあるってこと? なんやねんそれ」
笑いながら、大宮さんは豪快にレモンティーを飲み切った。
「……ま、これもなんかの縁やろ。ええで。今晩電話待っとるわ。えぇ内容期待しとるで」
交渉成立。
その場は大宮さんが奢ってくれた。
カフェを出て、彼と解散する。瞬間、胸の奥に小さな光がともった気がした。この身体で初めての、働き口候補ができた。
カフェで休憩した時間で、体調もかなり回復した。
ほっと息をつくと、おれは帰路へとつく。
足取りは軽い。
だが、家に近づくにつれて、ポケットの中の硬貨を握りしめる手に力が入る。
これから、塁にこのことを話さなければならない。
塁は、果たしておれの外での仕事を許してくれるだろうか。
玄関のドアノブに手をかけたとき、おれは一度だけ深く深呼吸をした。




