04 梔子
人生初、警察署で一晩を明かしたおれは、人生初、警察署内でご飯をご馳走になった。
場所が警察署内だと、ありふれた人間生活が全て「人生初」になるというライフハック。
朝ごはんはコンビニのおにぎりとお湯に溶かすお味噌汁、昼ごはんはインスタントのうどん。どちらも食べ慣れた味だったけど、格別な味がした。
ありがたくて、自分が情けなくて、なんだか涙が出そうになった。この身体になってから、心が休まることがなかった。情緒が不安定気味になっているのが自分でもわかる。
昼食後、ガラス窓付きの小さな個室に通された。昨夜泊めてもらった保護室と同じくらいの広さだ。窓際の机の上に、黒い電話機がひとつ置かれている。
部屋の隅には、あの顔の怖いおじさんが立っている。
「急拵えだが、電話の準備ができた」
おじさんも夜勤明けのはずだ。早く帰って休みたいだろうに、昼までいろいろと確認を取ってくれたのだろう。
「ありがとうございます、ええと……」
おれはちらりとおじさんの胸元を確認する。……ダメだ。バッジに名前が書いてあるかと思ったけれど、よく分からない英数字が印字されているだけだ。そういえば刑事ドラマで、識別証だとか呼ばれた気がする。
そんなことを考えてまごまごしていると、おじさんが「ああ」と声をあげた。
「そういや、名乗ってなかったな。伏木だ。階級は巡査部長」
「あ、すみません、ありがとうございます。……伏木さん」
おれが頭を下げると、伏木さんはやりづらそうに頭を掻いた。
「さて、電話できるぞ。ただ、事前に言った通り全て録音されている。先に、相手の名前と関係を聞かせてほしい」
「電話する相手は、梔子 塁です。おれの、大学の友人です」
おれは深く息を吸い、記憶を頼りにダイヤルを押した。
コール音が2回なった直後、ホワイトノイズと共に軽い声が返ってきた。
『はーい、もしもし? 梔子ですー』
ああ、変わってねえ。
間延びした声を聞いただけで、胸の奥に詰まっていた空気が一気に抜けていく気がした。
「……るい」
『……ん? すみません、どちら様でしょうかー?』
「おれ。灯里……畠山 灯里」
その一言を口にした瞬間、塁がわずかに息を呑んだのが聞こえた。
しばらく、沈黙が広がる。
どきん、どきんと鳴る心臓が、痛い程に感じられる。
しばらく経って帰ってきたのは、ひどく冷たい声。
『……すみません。灯里は男ですよ。あと今諸事情あって連絡ついてないです。詐欺なら他所当たってくださーい失礼します』
「ちがう!詐欺なんかじゃなくて、本当におれで……確かに、声も全く違うんだけど……でも、おれは畠山灯里で……!」
『良い加減にしろよ。俺、あいつとは仲良かったんで。切りますー失礼します』
「待ってくれ! ……どうしたら信じてくれる……?おまえの秘密とか言えばいいか……?」
『いや、ひみ……はぁ!?』
本当に電話は切られかけていたらしい。電話の向こうで、少しだけ遠ざかった声が聞こえた。だがまだ、繋がっている。
おれは無我夢中で喋り続ける。
「中学校の時、かっこいいと思って十徳ナイフを持ち歩いてたんだよな?いざというときに取り出してかっこつけてたけど、今冷静に思い返すと周りは引いてたって話してくれたよな」
『あ゛っ、ちょ、おま』
「あと最近、合コン行ったときにかっこいいと思って髪を耳にかける仕草を繰り返してたら、裏で女子たちに「色目オネエ」とかいうあだ名をつけられてたとか!あと」
『いやそれ半年くらい前……いや、わかった!!わかったから!!落ち着け!!!』
電話口の向こうで、ドタバタと何かがぶつかる音がした。落ち着いた方がいいのは向こうも同じようだ。
『……いや、おま……おまえ本当に灯里なの? 本物? あの灯里?』
「……うん」
『いや待て無理だろ。声ぜんっぜん違えじゃん。どういうことなのマジで』
「おれも良く分かってなくて……というか、信じてくれんの?」
『いやもう半分信じてるよ。おまえにしか話してねぇよそんな黒歴史』
おれは、思わずぎゅっと目を瞑り、大きな息を吐いた。ずっと、怖かった。変わってしまった自分を、誰ももう認識してくれないんじゃないかって。
『灯里。おまえ今どこにいんの?幽霊とかじゃないよなー?』
「……生きてるよ。無事ではないけど、生きてる……。今、警察署にいる」
『警察!?』
「保護されただけだよ。変なことはしてない。たぶん」
『たぶんって何だよ。いやもう何でもいいわ。よかった……マジでよかった……』
電話越しに、息を吐く音がした。その一息に、半年分の感情が全て乗っているかのような。そんな、長いため息だった。
『ーーで、何があったんだよ。なんで声、女なの? え、ていうか今の灯里って……』
おれは言葉を探す。上手くまとまる気がしない。身体のことも、記憶のことも、全部。だって、おれ自身がまだ理解しきれていない。
「……会って話したい。直接」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
『分かった。行く。今すぐ迎えに行く。警察署だな?』
「あ、いや、ごめん待って欲しい。おれ今『身元不明女性』扱いでさ。外に出るのにも手続きが必要らしくて」
『は? いやでも灯里なんでしょー?』
「自認はそうだし、記憶もそうなんだけど……今のおれはどう見ても女性でさ。だから、いろいろムズいみたいで」
『……なんだそれ。なんのマンガ?』
「おれもそう思ってる」
『……じゃあ俺このまましばらく待機!? 警察のひとー? 聞いてますかー!? 俺今から行ったら迷惑ですかねー!?』
おれは伏木さんの方を見る。伏木さんは逡巡した後、眉間に深い皺を寄せたまま口を開いた。
「悪いが今すぐに面会は許可できない。外部接触は制限させてもらう。ただ明日、15分程度であれば面会室で会えるよう調整しよう」
おれは伏木さんにぺこりと頭を下げると、受話器に再び口を寄せる。
「明日、15分くらいなら面会室で会えるってさ」
電話越しに、塁の「おお」という声が聞こえる。
『明日、15分だけかァ……マージでお役所の対応じゃーん』
「いや、だからそうなんだって」
『分かった。絶対行く。灯里、そこにいてくれよ』
「……おぉ」
『絶対行くからなー』
そう言って、一方的に電話は切れた。
顔を、机に伏せる。
ーーー名前を、呼んでくれた。
こんな声でも、おれを「灯里」と認識してくれた。ただそれだけで、ひどく安心した。おれは、世界から完全に消えたわけじゃなかったのだと、そう思えた。
伏木さんが、電話機のコードを回収しながら言う。
「良い友達だ。タオル持ってくるか?」
「……泣いてないです」
「そうか。それじゃあ電話機は仮してくる。しばらくここに居ても良い」
扉が閉まる。
おれは毛布の端を握った。
泣いてない。
ただ少しだけ、顔を上げたくなかっただけだ。




