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03 コーヒーフレッシュ

ねぼすけの太陽は、まだ顔を出さない。

薄青い闇が、街を塗り潰している。

深夜に降り続いた雪が、街灯の光を受けて青白く光っているのが見えた。


おれは毛布を身体に巻いたまま、狭い部屋をぐるぐると歩き回っていた。


横になれば、全身の縫合痕がじくじくと疼くような気がする。

目を閉じれば、半年間の記憶の空白が、真っ黒に口を開けておれを呑み込もうとしているように感じた。


壁時計の針が、ゆっくりと5時を回った。

街には、ヘッドライトをつけた車がぽつぽつと現れ始めている。


そのとき、コン、コン、と控えめなノック音がした。

おれは反射的にびくりと肩を震わせて、ドアから二歩離れる。


「……はい」


掠れた、小さな声が出た。

ドアがゆっくり開いて、大柄な警察官が姿を現した。

よく覚えている。昨日、道端で気絶していたおれを保護してくれた警察官のうちの1人だ。

眉間に深い皺の刻まれた、厳しそうなおじさん。

おじさんは、片手に湯気の立つマグカップを握っている。

夜勤明けなのか、目が少し赤いのが分かった。


「……物音が聞こえたんでな。やっぱり寝てなかったか」


おれは首を縦に振る。

膝が小刻みに震えている。

おじさんが一歩踏み込むたびに、心臓が縮こまるのを感じた。


――なんで、こんなに怖いんだ?


昨日も思った。

道端で囲まれたとき、腕を掴まれたとき、パトカーにのせられるとき。

ずっと、身体の奥がざわついていた。


だが、一晩も経てば嫌でも冷静になってくる。

今、おれが彼らを恐れた理由が、ようやく分かった。


でかい。

男の人が、でかい。

肩幅も、腕の太さも、全部。


男だった頃のおれは、180cmほどの身長があった。

平均より背が高くて、肩もそれなりに張っていた。


でも、今のおれは――

大きく見積もっても、おじさんの肩のあたりまでしか背が届かない。

視線の高さが、違う。

身体の規格が違う。


まるで、初めて捕食者の姿を見た小動物みたいに、身体が勝手に怯えている。

おじさんは、おれの後ずさりに気づいたらしい。

動きを止めて、苦笑いを浮かべた。


「悪い。怖がらせてるな。顔が怖いとよく言われるんだ。娘にも逃げられる」


そう言って、少し距離を取る。

マグカップを机に置いて、ゆっくりとおれの方に滑らせた。

それはまるで、「噛みつかないよ」と示すような動きだった。


「ホットコーヒーだ。砂糖とミルク、入れるか? 一応どっちも持ってきたが」


おれは、震える手でマグカップを受け取った。


「あ、ありがとう、ございます。そのままで大丈夫です。いただきます」


「本当は、寝れない時にカフェインは良くないんだろうが……暖かい飲み物は心を落ち着かせるのに良い」


おじさんは、ドアの枠に寄りかかったまま、距離を保ってくれている。

顔は怖いけど、優しい人だ。

そう理解した途端、全身からふっと余計な力が抜けていくのが分かった。

……我ながら、なんと素直な身体だろうか。


カップを両手で包み、中の黒い液体を見つめる。

湯気で歪む波紋の中で、おれの輪郭が揺れていた。


おれは、何なんだろう。

おれは間違いなく、普通の男子大学生、畠山 灯里の記憶を持っている。

でも同時に、今は公的に『身元不明女性』として扱われている身だ。

週末はジムに行って、汗を流すのが趣味だった。

今は毛布にくるまって、目の前のおじさんに怯えている。

お金も、帰る場所も何も無い。


俯いたまま、ぽつりと言葉が漏れた。


「おれ、これからどうしたらいいんでしょう」


おじさんは少し間を置いて、静かに答えた。


「まず、我々としては、君が畠山灯里さん本人である可能性を第一に捜査している。だが、昨夜の結果通り、身元の証明には時間がかかる。その間、君は公的には『身元不明女性』のままだ」


おじさんは、手に持っていたコーヒーフレッシュを机に置いた。声が、少し低くなる。


「この状況で警察官は、君の心に寄り添う、親身な家族や友人の代わりにはなってやれない」

「だから君は、誰か寄り添ってくれる人を探すことだ。何でも相談できるような友達はいないか? 知っている声を聞くだけでも、気分は幾分かマシになるだろ」


その言葉で、おれの脳裏にある友人の姿が過った。

なぜ、今の今まで思い出さなかったのか。


「……います。思い浮かぶやつが1人。……あいつと、話したいです、おれ……」


おれが訥々と話せば、おじさんは軽く口元を緩めて頷いた。


「よし分かった。だが、お相手もまだ起きているか分からない。昼に、警察署の電話を貸すよう言っておく。だが一応、電話内容は録音させてもらう。良いね?」


おれは何度も頷く。

おじさんはコーヒーフレッシュを再び摘み上げると、退室していった。


おれには、この街で親友と呼べるような友人が1人いる。

梔子 塁(くちなし るい)

大学で同じ映像学部を専攻している変なやつだ。


この身体でも、この声でも、あいつは、おれを畠山灯里だと認識してくれるだろうか。


凄く、怖い。

でも、知っている声を聞きたい。


昼になるのが、こんなに待ち遠しい日はなかった。

ブックマークなど励みになっております。

梔子塁の登場により、次回から少しずつ物語のトーンが明るくなると思われます。

投稿は不定期になりますが、気が向いた時にでも読んで楽しんでいただければ幸いです。

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