02 事情聴取
雨が、夜の街を細かく削るように降っていた。
いつの間にか気を失っていたらしい。
歩道の端で倒れていたおれは、頬に落ちた冷たい滴に反応して薄く目を開けた。
「大丈夫ですか、聞こえますか」
ぼやけた光の輪が視界にじわりと滲む。それが懐中電灯の光だと、理解するまで数秒かかった。
その光の向こうに、二人の警察官が立っていた。どちらも体格がよく、濡れた制服が肩の広さをいっそう強調している。
近くで見ると、壁のようだった。
なぜだろう、反射的に息が詰まる。喉が細くひゅっと鳴ったのが自分で分かった。
……なんで、怯えてる?
相手は警察官だ。市民の味方だ。今のおれにとって、唯一の救いかもしれない存在だろうに。
「意識はありますね。立てますかー?」
「きみ、その格好危ないよ。この寒さで」
おれはなにか答えようとした。
しかし、寒さのせいだけでは説明できない震えに喉が支配され、声が出ない。
今おれが身につけているのは、下着の他には大きな白いシャツ一枚だけだ。裸足で、脚には泥と雨水が冷たくこびりついている。
よくよく考えればなるほど、痴女として通報されてもおかしくない。
どこか他人事のように、そんな考えが浮かんで消える。
何も答えないおれに、警察官の一人が業を煮やしたように腕を取り、引き起こす。
その力は思った以上に強く、身体がびくりと跳ねた。息が止まる。
どうしたことだ。
おれは緊張してるのか?
なんで?
こんなこと、おれが「おれの身体」だった頃には絶対に味わったことのない感覚だ。
おれの身体の強張りに気づいたのか、警察官の動きが止まる。そして、視線がおれの腕へ落ちた。
袖から覗いた手首の縫合痕が、懐中電灯の光を鈍く吸っていた。
「……これ、本物か?」
「状況が分からんが、まずは雨が凌げるところへ移動しようか」
2人の声のトーンが変わった。
警戒、緊張、そして職務的な判断が混ざり合った声。
おれはその腕に支えられ、立ち上がる。身体の節々が痛み、足に力がうまく入らない。
迷う隙もないまま、パトカーへ導かれた。
人生初のパトカーだったが、その事実を実感する余裕などなかった。
⸻
暖房の効いた警察署の玄関をくぐる頃には、雨は雪に変わりかけていた。
毛布を肩にかけてもらい、事情聴取室の一角の椅子に座らされる。
ようやく震えが収まってくると、心臓の音が逆に鮮明に聞こえはじめた。
デジタル式のライブスキャナで言われるがままに指紋採取を終えた後、すぐさま事情聴取が始まった。
若い男性警官が向かいに腰掛け、おれに目線を合わせて話し始める。
「まず、名前を教えてください」
柔和な表情と、落ち着いた声が狭い部屋の中に響く。
なんだか、ひどく安心感を覚える人だった。
この人なら、おれの事情を分かってくれるかもしれない。そんな気がした。
口を開いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが溢れだした。
「畠山灯里です。その、信じてもらえないと思うんですけど、おれ、男で! 大学生で、水角大学の三年で……六月の講義のあとから記憶がなくて、気づいたらこんな身体で、なんで」
「落ち着いて。大丈夫ですから」
警察官は手を上げて、穏やかに制した。
「はたけやま あかりさん、ですね。確認しますから」
おれはこくこくと頷く。
ようやく、まともに呼吸ができた気がした。
警察官はひととおり話を聞いた後、「医療機関での検査が必要だ」と判断したようだ。
おれは署の近くの協力病院へ案内されることとなった。
⸻
病院の明かりは白く、無機質だった。
診察のためにシャツを脱ぐと、医療スタッフが息を呑む音が聞こえた。
縫合痕は首、肩、肘、腰、脚の付け根に、足首にまで。赤黒い線が、キリトリ線のように皮膚に溶け込んでいる。
レントゲン室で撮影した画像を見た担当医も、眉間に深い皺を寄せた。
「……これは医療行為として説明がつきませんね」
「関節周辺の骨の縁に、影が出ています。糸だと思われます。内部まで深く入り込んでいるように見える」
たどたどしく説明しながら、医師は時々視線を逸らした。恐怖と、理解を超えたものに触れたときの戸惑いが混ざる目だった。
血液検査の一次結果では異常は見られなかったらしい。けれど、医師は言葉を選びながら告げた。
「DNA検査の依頼を出します。ただし……これは数日はかかるでしょう。今日ここで言えることは、縫合痕が正常な医療手術の結果とはまったく思えない、ということです」
病院を出る頃には、雨は完全に雪へ変わっていた。
こんな時、どんな顔をするのが正解なんだろう。
おれは、曖昧に笑うことしかできなかった。
⸻
再び警察署へ戻ると、事情聴取室の照明がどこか冷たく感じられた。
おれが座ると、先ほどの警察官がファイルを片手に入ってくる。
「身元照会、並びに指紋の照合が終わりました」
「まず、警察で畠山灯里という大学生の捜索願いが受理されていたことを確認いたしました」
「また、あなたからお聞きした電話番号は、確かに『畠山』という姓のご家族と繋がりました。電話で確認したところ、畠山灯里という息子さんが五ヶ月前に失踪し、今も探し続けているという情報も、あなたの証言を裏付けています」
瞬間、身体がカッと熱くなった。
それは胸に灯った希望の灯にも感じられた。芯まで凍りついた身体が、焦げるようだった。
だが、警察官はおれにちらりと視線を寄越した。
その目は、少なくとも、これから喜ばしい報告をしようとする人間のする目ではなかった。哀れみとも、恐縮とも取れる視線がおれを射抜く。
思わずごくり、と生唾を飲み込んだ。
肺に流れ込む空気が、鉛のように重い。
「しかしながら、あなたをーーつまり、『失踪した畠山灯里を自称する女性』を保護した旨をご家族に伝えたところ、途中で電話が切られてしまいまして。何度かかけ直したのですが、電話が二度と繋がることはありませんでした。申し訳ない」
若い警察官は、深く深く、机に頭をぶつけそうなほどに頭を下げた。
当たり前だ。
簡単に、受け入れられるわけがない。
5ヶ月間失踪した息子が、女性になって帰ってきた、なんて。
タチの悪い悪夢にも程がある。
おれは家族に、どれだけの心配をかけただろう。
心配を、かけ続けているのだろう。
黙りこくるおれに、警察官はゆっくりと報告を続ける。
「採取させていただいた指紋ですが、今しがた警察のデータベースとも照合が終わりました。しかし、一致するものは出てきませんでした」
ひとつひとつ、ご丁寧にも希望と呼べるものが打ち砕かれていく。
思わず椅子の端を握りしめる。
金属の冷たさが掌に染みて、痛い。
警察官は表情を曇らせて続ける。
「確かに、あなたの証言と一致する部分は多い。しかし、……あなたが『畠山灯里』本人だと証明できるものが、現時点ではひとつもありません」
「外見も性別も、何一つとして一致しない」
落ち着いた声だった。
だがその言葉の一つ一つが、おれの輪郭を削り取っていくような気がした。
「現状、あなたは身元不明女性として扱わざるを得ません。DNA検査の結果が出れば、また進展はあるかもしれませんが」
「警察としては、あなたの身体に残る暴力の痕跡から、事件性を強く疑っています。引き続き捜査を続けます」
おれという存在が、この世界からこすり落とされていくような感覚。
窓に雪が張りつき、街の光が滲んでいた。
見慣れていたはずの世界は、どこもかしこも自分のものではなくなったみたいに思えた。
その夜、おれは本署の一室で保護されることになった。
これ以上ない安全な寝床で、おれは一睡もできずに一晩を明かした。




