14 揺らぎ
水の中にいるようだった。
全ての音が遠く、くぐもったように聞こえる。
視界がぼやけ、光が滲む。
「……姉さん、そろそろ出る時間じゃなかった?」
不意に、すぐ近くで聞き覚えのある声がした。
弾かれるようにして、私はソファから飛び起きる。
「うっそ!? やばい、遅刻する!!」
壁時計の針を見て、叫び声を上げる。
まだ余裕があるだなんて、昼寝を始めた2時間前の自分を呪いたい。
鏡を覗き込み、手櫛で乱れた髪を乱暴に整えてから、玄関へ。
「ああっ、財布忘れた!」
慌ててリビングに引き返し、ソファに放り出していた財布を掴み上げる。
「もー! もっと早く起こしてよ!」
焦燥感から、不当な八つ当たりを弟へ投げつけた。
背後で何事か返事が聞こえたけれど、それを聞き届ける余裕なんてない
玄関に滑り込み、ブーツの踵を踏みつけたまま立ち上がる。
「行ってきまーす!」
「気をつけてねー」
優しい声を背中で受け止め、私は眩しい外の世界へ飛び出した。
ノイズ。
無数の亀裂が視界に走る。
耳を劈く、金属の摩擦音。
ノイズ。
気がつけば、私は闇の中を走っていた。
一拍遅れて、ここが山の中だと理解する。
先ほどまで感じていた春の陽光はどこにもなく、鉛を詰め込まれたかのように身体が重い。
内臓がひっくり返るような、激しい眩暈を感じる。
後ろから、何かが来る。
何度も、何度も背後を振り返る。
しかし、涙と汗で滲んだ視界では、ろくな情報を拾えない。
足がもつれる。
次の瞬間、身体は斜面を転げ落ちていた。
むき出しの枝が頬を、腕を、容赦なく切り裂く。
激しい衝撃の後に、鈍い音が響いたのを聞いた。
痛い。
助けて。
あいつから、逃げないと。
誰でもいい、誰か助けて。
腰から下の感覚がない。
心臓が耳元で鳴っているのではないかと思うほど、激しく、不快に脈動している。
冷たい土の上に寝そべったまま、絶え絶えの息を繰り返すことしかできない。
「だから、逃げられないって言ったでしょ?」
頭上から、妙に歪んだ、無邪気な声が降ってきた。
身体が言うことを聞かない。
逆光の中、斧を持った影が覗き込んでいるのが見えた。
「それじゃあ、その脚、いただきますね」
夏央、助けて。
もはや、声も出なかった。
銀色の閃光は、迷いなく私に振り下ろされた。
ーーー
「いやあああああああああ!!」
喉が裂けるかと思うほどの絶叫で、意識が浮上した。
斧が振り下ろされたはずの右脚に、焼けるような、あるいは凍りつくような激痛が走る。
「灯里! 灯里! しっかりしろ!」
視界はまだ暗闇に支配されている。
暴れるおれの身体を、何かが上から強く抑えつけていた。
あいつだ。殺される。
おれは無我夢中で、その何かを突き飛ばそうと両手を振り回す。
「くるな! 触るな! たすけて、夏央、たすけて……!」
「おれだ! 塁だ! 落ち着け灯里!!」
肩を強く掴まれ、激しく揺さぶられる。
鼻腔をかすめたのは、微かなアルコールの匂いと、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りだった。
「……る、い……?」
焦点が、ゆっくりと結ばれる。
そこは、塁の家のソファの上だった。
おれを覗き込んでいるのは、飲み会帰りの赤い顔で、必死な形相をした塁だ。
「……はぁっ、はぁっ、はぁ……っ」
呼吸の仕方を忘れたかのように、喉がひきつる。
全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れ、力いっぱい毛布を掴んだ指先が痛い。
「うなされてたぞ……すごい声で叫んで、暴れて……大丈夫か? どこか痛むかー?」
塁の手が、おれの頬に触れる。
その大きな手のひらの熱を感じた瞬間、張り詰めていた何かがぷつりと切れた。
自分でも驚くほど、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「あ、あしが……わたしの、脚……っ」
「え? ……大丈夫、どこにもいってないよ」
塁は戸惑いながらも、わたしの震える身体をゆっくりと抱き寄せる。
塁の胸に顔を埋めて、目を閉じた。
……わたし?
遅れて、自分の口から出た言葉を認識した。
瞬間、全身の血の気が引く。
「……あ」
おれは慌てて、塁の胸から身体を引き剥がす。
震える手で自分の口元を覆う。
「灯里? どうした、急に……」
塁が困惑したように手を伸ばしてくる。
おれは思わず、ソファの端まで這うようにして逃げた。
夢の中の記憶が、頭の中で泥のように渦巻いている。
「……お……れ」
声を絞り出す。
けれど、喉の奥が引き攣って、うまく音にならない。代わりに込み上げてきたのは、激しい吐き気だった。
「……う、げほっ……!」
口の中に、酸っぱくて苦い味が広がる。
「おい、大丈夫か!? 灯里!」
塁が慌てて背中をさすってくれる。
この優しさを嬉しく思う自分は、果たして「おれ」なのか、それとも、「わたし」なのか。
「……ごめん……ごめん、塁」
ようやく出た言葉も、心なしかいつもより高く、湿り気を帯びていた気がして、それ以上言葉を続けることができなかった。
顔を上げられないまま、自分の右脚を、縋るように抱きしめる。
パジャマ越しに触れる脚の付け根には、斧が振り下ろされた感覚がまだ残っていた。
「……お前、疲れてるんだよ」
塁の、どこか言い聞かせようとする低い声が、静まり返った部屋に響いた。
彼は、一人称のことには触れなかった。気づかなかったのか、それとも、触れてはいけないものだと直感したのか。
塁が持ってきてくれた水を、震える手で飲み干す。
「シャワー浴びた方が良いな。そのまま寝たら風邪引くぞ」
汗で濡れるおれを見て、塁が言う。
確かに、全身が汗でじっとりと重い。
けれど、今の自分にシャワーを浴びるために立ち上がる気力なんてなかった。
何より、あの狭い浴室で1人になることを想像しただけで、またあの山の中に引きずり戻されるような気がして、身体が強張る。
「……やだ……1人に、しないで」
情けない声が出た。
塁は少しだけ目を細め、おれを安心させるように笑った。
「わかってる……じゃあ、おれが外にいてやるよ。ドア一枚挟んですぐそこに座っててやる。それならいいだろ?」
塁はそう言うと、浴室の脱衣所へおれを促した。
震える手でパジャマを脱ぐ。
鏡に映る自分の白い肌が、全身の縫合痕が、ひどく醜いものに見えて目を逸らした。
「……るい?」
「おう、いるぞー」
浴室のドアの向こうから、塁の声が聞こえる。
床に座り込んでいるのだろう、背中がドアに当たる鈍い音がした。
シャワーを浴びている間も、塁は絶え間なく話しかけてくれた。
今日飲んだ酒の話、明日食いたい飯の話、中身のない世間話。
そのどれもが、おれという存在をこの世界に繋ぎ止めるための命綱のように思えた。
「……塁、いる?」
「ああ、いるよ。ここにいる」
何度確認しても、彼は厭わずに答えてくれる。
シャワーを終え、脱衣所に出ると、本当に塁がドアのすぐ外に座り込んでいた。
おれが出てきたことに気づくと、彼は立ち上がり、おれの濡れた髪にタオルを被せて、乱暴に、けれど丁寧に拭き始める。
「……ごめん……本当に、ごめん」
「謝るなって。弱ってる時は俺を頼れよ。一人で抱え込もうとするから変な夢見るんだぞ」
塁の手が、タオルの上からおれの頭を優しく撫でる。
その大きな手のひらの感触が、今はただ、ひたすらに心地よく思える。
「1人で寝れるか?」
おれは答えず、床を見た。
その沈黙が何を意味するか、塁はすべて分かっているようだった。
「じゃあ、寝室行くぞ」
塁はおれの肩を抱くようにして、寝室へと導く。
もう、一人で歩くことさえ忘れてしまったかのように、おれは塁に体重を預けていた。
……男どうしで、何やってんだか。
情けなくて、今更になってなんだか笑えてきた。
変な涙がまた、ぽろりと頬を伝った。
塁の寝室のベッドに、2人で潜り込む。
塁はおれに背を向けて横になった。
暗がりの中で見るその背中は、いつもよりもずっと大きく、逞しく感じられた。
毛布の下のおれの身体は、あまりに華奢で、頼りない。
じくじくと熱を持って疼く右脚の縫合痕を、闇の中でそっとなぞった。
おれの中の「おれ」が、溶けるように消えていく。
その前に真実を暴き、自分の身体を取り戻さなければ。
窓の外を吹く風の音を聞く。
おれは結局、一睡もできないまま朝を迎えた。




