10 アイデンティティー
ピー、ピーと、炊飯器から軽快な電子音が鳴った。
晩御飯を作り始めるのが遅くなったが、なんとか塁の帰りには間に合ったようだ。
今日の晩御飯は、青椒肉絲とお味噌汁に、炊き立てのご飯。相変わらず品数は少ないが、塁が満足できる程度の量はあるはずだ。
並べた料理を前に、胸がざわつく。
……これらに使った食材も、今はすべて塁の財布頼みだ。
時計を見れば、21時を回っていた。
塁は昼からバイトが入っているらしく、帰宅は20時半以降だと言っていた。そろそろ帰ってきてもおかしくない。
そんなことを思っていると、ガチャリ、と玄関の方で重たい金属音がした。
「……あ、帰ってきた」
「おかえり」を言おうと、玄関に向かう。
だが、廊下の角で足が止まった。
塁が、玄関のたたきに立ち尽くしていた。
靴も脱がず、手元の青い銀行通帳をじっと見つめている。
眉間に深い皺が刻まれ、口元は硬く結ばれていた。疲れや諦めとも違う。もっと深いところで、押し潰されそうな顔。
身体の奥が、凍るような感覚がした。
ひゅ、と喉の奥が鳴る。
その時、塁が顔を上げた。
こちらに気づいた瞬間、彼は通帳をぱたんと閉じ、コートのポケットに押し込んだ。
「お、灯里! わりー、気づかなくて。ただいまー」
塁は、もういつもの調子に戻っていた。
さっきまでの険しい表情が嘘のようだ。
「う、あ、塁、その、今の──」
「ん?……てかめっちゃ良い匂いする〜腹減った!」
塁は明るく言いながら靴を脱ぎ、両手に抱えていた大きな紙袋を持ち上げた。
「じゃーん。お前今、着る服とか全然なかったろ? つーわけで俺からのサプライズプレゼントー」
リビングに入ると、塁は紙袋の中身をテーブルに広げ始めた。
出てきたのは、化粧水のボトルやヘアオイルに、簡単な化粧品類。
「……こんなに」
「あー、チョイスは店員さんに全部任せた。『女性の同居人が急に来て、何も持ってないんです』って言ったら、向こうが張り切ってなー?」
塁は屈託ない笑顔を浮かべる。
「た、高かったんじゃ」
「大したことねーよ。早めの誕生日プレゼントと思って受け取れ」
そんなことを言いながら、塁は紙袋の中から服をごそごそと取り出していく。パーカーやデニムなどラフなものから、ニットに、スカートなど如何にもな女性服まで、幅広いジャンルの服がテーブルを覆っていく。
最後に紙袋を覗き込んだ塁が、気まずそうな顔でこちらを見た。
「あー、えーと。一応、下着も店員さんチョイスのもんが何点かある。サイズ分かんねーから、標準的なものを入れてもらった。『彼女さんのために張り切りますね!』とか言われちゃっててさ、断れなくて」
塁はポリポリと頬をかきながら、俺に紙袋を差し出した。
受け取りながらも、おれの頭には玄関の光景が焼き付いたままだ。
玄関先で、通帳を見つめていたあの苦しそうな顔。
この服も、化粧品も、下着も。
すべて、塁の通帳の残高を削り取って買われたものだ。
おれのせいで、塁は無理をしている。それなのに、彼は笑って「大したことない」と言う。
その優しさが、鋭利な刃物となって胸を抉った。
「……塁。話があるんだ」
「どうしたー? 改まって」
「おれ、仕事をしようと思う」
塁はゆっくりとこちらを向き、困ったように眉を下げた。怒るでもなく、ただ心配そうに。
「仕事? でも、灯里は身元とかの関係で、いろいろムズいだろー?」
「うん。だから、普通のバイトじゃない。知り合いの伝手で、個人的に手伝いをさせてもらうことになったんだ。早ければ明日からでも働かせてもらえるかも」
おれがそう言うと、塁は少し驚いたような表情を浮かべる。
「知り合い?」
「今日、外に出た時に偶然会ったんだ。昔バイト先が一緒だった人。今は動画の配信で食ってるらしくて、編集の手伝いを探してた」
「……男かー?」
「そうだけど……? 昔からの知り合いだし、怪しい人じゃないよ」
塁はため息をつき、おれの肩に優しく手を置いた。
「あのな灯里。お前今、自分がどういう見た目か分かってるか?」
「分かってるつもりだけど……あの人は大丈夫だよ。それに」
おれは、テーブルの上と、塁の顔を交互に見た。
「おれ、これ以上塁に負担をかけたくないんだ。玄関で通帳見てたろ。おれのせいで、おまえの生活を壊してるのは……耐えられない」
塁はハッとして、困ったように少し笑った。
「……やっぱ見られてたかー。隠してたのに、情けねぇな」
塁は頭をかくと、俺に背を向けて立ち上がった。
「別に俺は、お前のこと負担だなんて思ってねーよ。今はお前がいてくれるだけで嬉しい。……でもまぁ、お前がそこまで気にしてるなら、俺が止める権利もねー」
塁が俺に振り返る。
諦めたように、けれど優しい目で微笑んだ。
「分かった。灯里が頑張りたいなら、俺は応援するわー」
「……ありがとう」
おれは、塁に頭を下げる。
感謝しか、できなかった。
「礼なんていらねーよ。ただ、約束して欲しい」
頭を上げれば、塁は真剣な顔で、視線を合わせて来る。
「何かあったらすぐ俺に言うこと。人間関係でも何でも、気になることがあったらすぐにだ。良いな?」
「……分かった。約束する」
「よし。じゃあ、ご飯にしようぜー。せっかく灯里が作ってくれたのに冷めちまうよ」
そう言って、塁はおれの背軽く叩いて笑った。
その優しさに、視界が滲むのを感じて、咄嗟に塁に背を向ける。
「え、灯里お前、泣いてね?」
「……泣いてねぇ。とっとと飯食うぞアホ」
「声震えてますよー?」
「だまれ」
ーーー
夕食後。
塁が風呂に入っている間、昼間教えてもらった番号に電話をかけた。
『はいはい、大宮ですー。そちらさんは?」
数コールで、気の抜けた関西弁が返ってくる。
「……リョーコです」
『おー! かかってこんか思てたわ。どやった? 働けそ?」
「はい。明日からでもいけます」
おれがそう返せば、大宮は茶化すようにひゅう、と口笛を吹く。
『やる気あるやーん? ほな明日からよろしくなー。昼過ぎくらいに来てくれたらええわ」
その後、大宮さんの住所を教えてもらって、電話を切った。
働ける。
塁の負担を少し減らせる。
リビングのテーブルには、まだ服が広がったままだ。
見つめながら、おれは小さく息をついた。
がんばらなきゃ。
ーーー
塁の後に、おれは風呂に入った。
新しいコンディショナーの香りが、浴室に充満する。甘く、女性らしい香りが、この身体の形を嫌でも意識させた。
風呂上がり、塁の買ってきてくれた紙袋から、下着を取り出してぎょっとした。
……塁が気まずそうにするわけだ。
それらは完全に若い女性用、もっと言うなら“勝負用”と言えるような下着たちだった。
毎日洗濯機を回せるわけじゃない。警察署から貰ったものだけでは下着が足りないことは分かっていた。いつかは着ることになる。
なんだか気分が悪くなり、慌ててそれらを洗濯機へ放り込む。
洗面台の近くには、ヘアオイルや化粧水がもう並べられている。
使うのと、使わないのと、どっちが塁の為になるだろうと逡巡して。俺は、結局手に取った。
前の身体では、肌の手入れも髪の手入れも適当だった。
化粧水を肌に染み込ませ、髪の毛にオイルを馴染ませる。
鏡に映る自分の姿は、化粧水とヘアオイルのおかげか、以前より艶を増しているように見えた。
──自分が女性の身体をしているということに、まだ慣れない。
鏡を見ても、そこに本当の自分はいない気がする。
けれど、いい加減に受け入れなければならないだろう。
鏡に向かって微笑んでみる。
鏡の中の美しい女は、蠱惑的な笑みを浮かべていた。




