01 ヴィーナスの目覚め
冷たいものが、頬を伝って落ちていった。
それが雨だと気づいたのは、意識がゆっくりと浮上してからだった。
おれ、畠山 灯里は、湿ったコンクリートの冷たさに体を預けたまま、しばらく動けずにいた。
頭が重い。全身が泥に沈んでいるようだ。呼吸の仕方を思い出すまで、肺が軋むように痛んだ。
鼻につく刺激臭が、少しずつ現実を輪郭づけていく。
生ゴミの腐臭と、雨に溶けたアスファルトの匂い。ここが路地裏の奥まった場所だと、遅れて理解が追いついた。高く積まれたゴミ袋が、壁のように脇へ並んでいる。
どうして、こんなところで。
慌てて昨日の記憶を探る。
六月の強い日差し、蒸し暑い講義室。講義が終わり、学食で昼を済ませ、友人と別れて家に帰った。そこで記憶が断ち切れる。
記憶に、異様に大きな穴が空いているような、そんな感覚。
―――スマホ。
ポケットを探ろうとしたとき、視界の端が妙な違和感を捉えた。
手だ。自分の手。
指先が細く、骨ばっていない。
肌は透き通るように白く、触れた雨粒が滑り落ちる。
おれの手じゃない。
息が止まったのは、手首を見た瞬間だった。
縫われている。
関節を一周するように、赤黒く固まった縫合痕が刻まれている。あまりに乱雑で、目を背けたくなるような、だが目を離せない生々しさがそこにはあった。
声を出すつもりはなかった。だが、喉が震え、自然に息が漏れる。細く、高い。耳に馴染まない声だった。
その声が「自分のものだ」と認識した瞬間、心臓が跳ねた。反射的に後ずさりをしようとして、ぬかるんだ地面に手をついた。
水たまりの表面に目が吸い寄せられる。
見なければよかった。
映っていたのは、濡れた暗黒色の長い髪を、肩に貼りつかせた女性だった。水面が震えるたびに髪が揺れ、雨の粒が光を散らす。
ゆっくりと自分の頬に触れてみる。
水面の女も同じ動きをした。
水面の女と視線が重なって、やっとおれは理解する。
いや、理解してしまった。
これは自分だ、と。
そこからは半ば半狂乱だった。
転げるように立ち上がり、前のめりで路地裏から飛び出す。
大通りに出れば、多くの人がそこにいた。
通行人、車、誰もが皆、おれを奇異の目で見つめているような気がする。おれは、その視線から逃れるように、人混みの中をひたすらに走り始める。
ただ逃げた。
視線を感じない場所へ行きたかった。
走って、走って、走って。
やがて、電池が切れたかのように脚が動かなくなって、歩道の脇に崩れ落ちた。
雨で髪が頬に貼りつく。
荒い呼吸音が、嫌に耳に響いている。
ふと横目に、路傍の店のガラスが目に入った。
自然と顔がそちらを向く。
濡れ髪の女が、ガラスの中からこちらを見ていた。
今度は逃げなかった。
逃げられるほどの力が残っていなかったとも言う。
ガラスに恐る恐る近寄って、そこに映る自分の身体を、ひとつずつ確認する。
第一印象は、悍ましいことに、「美しい」というものであった。
オーバーサイズのワイシャツの上からでも分かる、均整の取れた体つき。女性として理想化されたような輪郭。過度に整いすぎているほどの顔立ち。
濡れた髪が頬に張りつき、雨粒が唇を滑る。
だが、その美しさの全てを嘲笑うように。
手首には、醜い縫合痕があった。
首にも。
膝を曲げると、布の下から覗く足首にも。
身体に指を沿わせれば、肩や脚の付け根、腹にまで、縫合によって盛り上がった箇所が確認できる。
まるで、一度関節ごとに切り離されて、縫い直されたみたいだ。
縫い方も乱暴だ。
太めで、ところどころ不揃いに皮膚を引きつらせるそれには、まるで小学生の裁縫のような乱雑さが見受けられる。
ネットで見たことのある整形手術の跡とは、まるで違う。それに、こんな雑な処理を医者がするはずがない。
本物の肉体でコラージュ作品を作ったかのような歪さと、不気味さがそこにはあった。
胸のあたりがざわつき、寒気が背筋を走る。
ガラスに反射する女――自分の姿を見ているのに、見ているものが人間の身体なのかどうかすら、自信が持てなかった。
呆然としていれば、街頭のモニターがニュース番組に切り替わった。
アナウンサーが、淡々とニュース原稿を読み上げ始める。
北海道で初雪が観測されたという報せに、思考が凍りついた。
初雪。
冬。
最後の記憶は六月だ。
半年という数字が、雷のように脳を貫いた。
その間、自分はどこにいたのか。何をされていたのか。自分という存在は、社会の中でどう扱われているのか。
雨が一段と強くなった。
体温が奪われる感覚があるのに、それすら現実かどうか判別できなかった。
数日後には、この街でも雪が降るのだろう。
おれはこれから、どうすればいい。
警察は信じてくれるだろうか。
両親は。
友達は。
思考が堂々巡りして、どこにも着地していかない。
ただ、雪雲よりも重く暗い暗雲が、おれの視界を塞いでいるように思えた。
―――
――これが、彼女の悪夢のような現実の始まり。
おはよう、私のヴィーナス。
誰よりも醜く、美しい、私の天使。
人混みの中、その男は、凶悪な笑みを浮かべていた。




