やりたかった(らく描きあり)
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・・・・
「聖書を持っていて分かった。リリィいつも結構たいへんなんだなって」
「そう?」
「五歳からこんな物を肌身離さず持っているなんて凄いよ。嘘も吐けないんだよ、これ身に付けていると」
「そうね」
「どうしても怖くて近寄れない人や場所があったり」
「ああ、あるわね」
「誰かに手を引いて貰ってやっと大丈夫になるんだ。そういえばリリィって誰かと手を繋いでいる事が多かったね」
「誰でもそうよ、普通の事よ」
「時々、自分の言葉じゃない言葉が口から出る事もあったよ。いきなり祈り始めたり。焦ったよ、あれ」
「それも誰にでもある普通の事じゃないの?」
「そうかなあ、とにかくその聖書を持つのは、僕にはたいへんな事だったよ。一日でヘトヘト。もう懲り懲りだ」
「ふふ、ルカは だものね」
***
ルカが目を覚ますと、苦い匂いのシーツがピンと張ったベッドの上だった。
え――と、ここは……
カーテンが開いて、水桶を持った娘が入って来た。
「ランスロットさま、目を覚ましたんですね!」
「え――と、あなたは、天の御使いさま?」
「…………」
「あ、僕には天国はちょっと無理目なのかな、でも地獄へ行くほどでもないですよね、中間の程々の所はないですか、上の方を呼んで下さい、交渉したいです」
「~~!」
娘は水桶を置いて、室外へ駆け出て行った。
ほどなく、目の下の隈がちょっとマシになったダミアンを伴って戻って来た。
「ああもう、こっちは忙しいんだからもうちょっと昏睡していろ」
「ダミアン様までこっち側へ来ちゃったんですか、駄目ですよ、すぐ戻って下さい。婚約者と植物園デートもこなしていないんでしょう?」
「絞めるぞ」
ルカはどうやら、リリィの持たせてくれた聖書のお陰で助かったらしい。
ど真ん中で矢を受けてくれた……そんなお伽噺みたいな事あるんですね。
「リリシア嬢もそう言っていた」
「せっかく貸してくれたのに、穴空けるなんてトンでもない奴ですよね、僕」
「彼女はあまり気にしていないみたいだったぞ。何事もなかったかのように、自分の内ポケットに戻していた。
それより、記憶はしっかりしているか? 息苦しさはないか?」
「え――と、大丈夫だと思います」
「彼女のことは?」
「どちらさま?」
女の子は喉をヒックとしゃくり上げた。
「そ、そうよね、あんな夢みたいな事、ある訳なかったんだわ……」
「え、え――と、え――と、えっと…………メム?」
「そう、メムですよ、メム」
「だってメム、そんなだった?」
ルカの記憶のメムは、黒か焦げ茶か分からないような固まった髪に、男物の古着をまとって、雨に濡れた子犬のような娘だった。
目の前の、フワフワした薄い小豆色の髪と明るい同色の瞳は、初めましてだ。
「エイミさんたちが髪を洗ってくれました。着る物も貸してくれています」
「まずい、メムが可愛くなってしまった、まずい、まずい」
「何がまずいんだ」
「こんな筋肉の詰まったラツェットの館に放置して置けない」
「お前、これだけ世話になっておいて凄い言い草だな」
「だって放って置かれると思いますか、こんなフワフワ娘」
「だったらとっとと身体を治してお前が守れ」
今は、矢を喰らってぶっ倒れた翌日の夕方。丸々一日昏倒していたらしい。当初の予定では、馬車に乗って帰路の半分まで来ている頃だ。
新学期には到底間に合わないが、そこはしようがない、皆無事だったのが一番。
思えば一昨日の山登りから二日しか経っていないのに、目の回るような密度だった。
乗せて貰う予定だった灌漑チームの馬車も出ていない。彼らは急遽こちらで用事が出来たのだという。
「四か国の学者たち、大はしゃぎだったぞ」
今、国境の門のある白い壁の屋上で、王国の灌漑チームも加えて、五か国灌漑シンポジウムの真っ最中。
ラツェット領のこれまでの独自のやり方プラスこれから試みる新たな技術に、研究者たちは興味津々、大いに議論が交わされている。
展望台から降りて来た四か国の学者たちにイヴァン隊長が声を掛けて、そういう話になったという。彼らは国境門の建物内にある客間に宿泊して貰っている。
ちなみに、共和国長官や教祖は、こちらからは何も出来る権限は無いので、スルー。気まずい空気の中、怯える御者たちを叱り飛ばしながら去って行った。
(せっかく学者を招いておいて、普通に学ぶ姿勢を取っていれば、この土地だって水害を防いで収穫を増やせるのに)
普段農政に関心薄い隊長ですら、思った。
領主の別邸に捕らえた賊は、即座に来た郡主の使者が、責任持って確保しておくようにとの命令書を、領主に渡した。
ラツェット兵は口頭だけの引き継ぎをして、とっとと撤収して来た。
「早いですね、郡主。ダミアン様のお陰ですか」
「僕ではなく予想外の力だ。そちらは後で話す」
ユタは丁寧に運ばれ、国境門の客間に止め置かれている。トトド爺さんも一緒、ベッドはちゃんと二つ。
「婚姻以外で王国民の籍を取得するには、保証人などの手間が掛かる」
「ダミアンさまぁ」
「君は僕を便利屋だとでも思っているのか」
「いいえ、世界一頼りになる先輩です」
「卑怯者め」
と、扉がノックされ、ベッドカーテンの向こうにロッチとリリィの声がした。
「ルカ、目が覚めたって聞いたんだけど」
入って来た二人を見て、ルカは目を見開いた。
リリィが男爵令嬢らしくドレスアップしているのはたまにあるので見慣れているが、ロッチが何と騎士家の正装をしている。
「他国の人が来てるから軽く親睦会やるんだって、国境門の屋上で。笑うなよ、兄貴の借り物なんだ」
「笑わないよ、死ぬほどカッコイイ」
「簡単に死なないでよ」
ロッチはじっと相棒を見た。
朦朧と口走った言葉は覚えていないのか? 忘れているならそれに越したことはない。
「ルカも参加するようにって大伯爵様が仰っていたのだけれど、具合、どう?」
「大丈夫だと思う。あ、リリィ」
ルカは身を起こして、リリィに改まった。
「聖書、穴空けてごめん」
「ふふ、ルカを守れて、聖書も誇らしげよ」
リリィが内ポケットから出した聖書には、空いた穴に布のワッペン、ラツェットの紋章、盾の型のエンブレムが貼られている。
「素敵でしょ」
「うん……あのね」
「ん?」
「僕が寝てる間、リリィと会話した?」
「寝てるのにどうやって会話するのよ。何だかムニュムニュ言っているから枕元から適当に返事したりはしたけれど」
「そうか……」
あれは夢だったのか、聖書が聞かせてくれた幻だったのか。
使用人が湯桶とルカのトランクを運んで来たので、一同は退出した。
頬はまだ腫れていて、額の傷ともども包帯を巻いてごまかす事にした。
何せ忘れがちだが、ガヴェイン家の使者という立場でここに居る。親睦会などを欠席する訳には行かない。
身を整えて玄関ホールへ降りると、初日と同じように、ラツェット一族が勢揃いしていた。
親睦会に全員参加は無理なので、ここで見送るという。
また沢山の手が伸びて来て、頭をわしゃわしゃされた。僕は犬ですか。
外へ出ると、やはり正装した大伯爵が、熊みたいな磨墨号と共に待っていた。
「わしが乗せて行こう」
「いや馬車の方がハブァ」
何を言う暇もなく翁の前に引き上げられる。胸の傷、開くってば。
さすがにゆっくり歩いてくれるラツェット翁。
ポクポクポク
「・・で、」
「はい……」
「あの弓兵に何をした?」
「僕に何が出来たっていうんです」
「普通に考えて、弓兵が狙うのはわしだ」
「そうですね、ペデリオさん、言うほど名手でもなかったですね」
「わしより小さいお前の胸のど真ん中を射抜いてか」
「…………」
「侮られるのは面白くない」
「侮っていません、り、利用させて頂いただけです。大伯爵に背中をくっ付けて見渡せば、殺意の視線を感じられるんじゃないかと。案の定、塔のあの人と目を合わせる事が出来ました」
「ほお」
「僕はただあの人たちがひたすら憎たらしかっただけです。神様を騙って他人を貶めて、仲間を使い捨てにして。はらわたが煮えくり返るほど憎かったです」
「それはそうだな、で?」
「アッカンベしてやりました」
「……そうか……」
「それで矢先を思わず僕に向けちゃうんだから、笑っちゃいますよね、小者過ぎて」
ルカの頭に後ろから、手袋を外した大きな手が乗った。頭全体を包んでしまう、暖かい、大きな掌だ。
「憎しみに駆られて突っ走るな」
「……はい」
「憎しみだけで突き進むとロクな事にならない。そうなりそうになったら一呼吸置いて、お前の大切な者の顔を思い出しなさい。これは、わしの息子にも部下の騎士たちにも、全員に言っておる事だ」
「はい」
殊勝に返事をする子供の頭から手を離して翁は、手袋を付け手綱に戻った。
本当に、赤ん坊のこの子を抱き上げ、一から育ててやりたかった。
背中に折檻の火傷跡など無い健やかな子供に育ててやりたかった。
そんな物は夢物語で、今 目の前にいるのは、もう親から離れようという年齢の少年だ。
「わしの顔も思い出していいぞ」
「はい」
***
ラツェット翁の馬




