ラツェット領
ルカが目を覚ますとすっかり朝だったので、夕べあの後どんな会話があったのかは分からない。
ただ二人の騎士の態度が、慇懃無礼から多少柔らかくなり、ロッチは、ミックとユーリと名前で呼ぶようになっていた。ミックさんが赤毛で十六歳、ユーリさんが栗色髪の十八歳。
「使者殿、体調は如何かな」
朝風呂に入って来たらしい熊おじいちゃん、ホコホコと湯気を上げながら元気一杯に聞いて来た。
宿前に、夕べ乗って来たという騎馬が繋がれているが……おっき! それこそ熊だ、毛むくじゃらな顔と樽みたいな胴体、スープ皿をひっくり返したような蹄、街から来た騎士たちの馬が隣でバンビのようだ。
「は、はい、お陰さまですっかり回復いたしました。夕べはご迷惑をお掛けし……」
「ではそなたはこちらだ」
ルカはいきなりひょいと抱え上げられ、おじいちゃんの騎馬の前に乗せられた。
ゔえ"??
「ああ――、いいなぁ」
と地上で言うロッチがとても遠い。
「お前は馬車でしっかりお嬢さんと騎士たちを案内して来なさい」
「はぁい」
「ではわしらは一足先に行くぞ」
「え"、ぢょっど待っ……」
言うが早いか、真っ黒い毛むくじゃらの騎馬は、街道ではなく山の方へ駆け出した。
なんでっ!?
「昨日通って来た近道じゃ。道は街道だけではない、馬で通れる獣道は幾つか確保しておる。当たり前じゃがの」
「うわわわわわ」
お尻いたいいたいいたい
「物資の輸送と領民の移動はやはり街道じゃから大事なのはその通りじゃ」
「うわわわわわ」
枝ピシビシ顔に当たるいたいいたいいたいってば
「この馬は北方の森林馬の血を引いておる。力強いじゃろう。祖先より受け継ぎ大切に血脈を守っておるラツェットの誇りじゃ」
「うわわわわわ」
脳みそシェイクシェイクシェイク
「少しは落ち着け」
ルカにとって永遠とも思える時間が過ぎて、やっと馬が止まってくれたと思ったら、開けた山頂だった。
向こうに横たわる山稜の手前に、細長い盆地が広がる。太い川がくねりながら中央を流れ、太古からの水の力で出来上がった土地だと分かる。
「ラツェット領だ。我らが血の息衝く誇り高き砦の地」
平地には畑が青く広がり、水は空を映してきらめいている。ロッチが故郷を語る時ニコニコしていた理由を垣間見た気がする。
「綺麗です」
「そうだろう」
「あっちの山向こうは共和国ですか」
「ああ。あの山稜の尾根筋で国境が別れておる。大昔はこちらの山が国境だった」
「本当に天然の砦の土地なんですね」
「そうだ」
こうして見ると、こちらの山よりあちらの山の方が標高が低く滑らかだ。
ひとつ広い谷に古い街道があり、巨大な石の壁が塞いでいる。
元々あちらの国の領土だったというのは、地勢から言ってそれが自然なのだろう。
「この地形では国境線が変わった時、さぞかし大変だったでしょうね」
「そうだな。今年で百二十七年になる」
随分正確だなと、ルカはラツェット翁を見る。
「毎年記念祭をやる。冬の時期だから大掛かりな物ではないが、次が第百二十七回だ」
ロッチに『冬の贈り物のお伽噺』を聞いた後、興味を持って調べてみた。
記載がない事はないが、どの歴史書でも驚くほどさらりと流されていた。
この土地の人にとっては天地が引っくり返る程の事態だったが、大勢にとっては小さな変化の一つに過ぎなかったのだろう。
それでもここでは、毎年忘れず語り繋いで言祝ぐ。
「帝国が共和国に変わった時は、影響はありましたか?」
あちらの国では革命があった。
狼煙が上がったのは百年ほど前で、勢いよく帝城を焼き討った後は尻すぼみ、長い時間をかけて虫食いみたいに領土がああなったりこうなったり、途中小さい政権が立ち上がっては消えて無かった事になり、ようやく今の共和国政府に落ち着くまで二十年かかった。
帝国の革命についての記録は沢山あり、大陸史の授業でもみっちりやる。
視点が変わると善悪も入れ替わるのが興味深いが、どの本を読んでも思うのは、『革命って一気にやっちゃわないと駄目なんじゃないの?』だ。
その二十年の間に生まれた子供、まともな教育を受けられないんだよ、教育を受けられなかった世代がそのままごっそり大人になって、社会や教育の構成員になるんだよ。怖い。
「わしの親世代の話だが、まあ、色々だな……」
翁は谷の白い砦を眺めて言葉を切った。
あんな大きな壁を作らなきゃならないほどの『色々』だったんだ。
「国境線ばかり眺めてそんなに面白いのか。我が領を見ろ、我が領を。お主は使者だろう、報告もせねばならぬのだろう」
「は、ははい」
翁のでかい掌で両肩を包まれて、ぐい、と盆地に向かされる。
あ、そうか、その為に連れて来たのか。すみません鈍くて。
土地は牧畜と農業が半々なようで、馬産が優れていると聞く。山沿いは牧草地、くねった川周りに見事に区画された麦畑が広がる。
「灌漑はどのようにしているんですか」
「む?」
「これだけ川がくねっているんなら、水の大暴れと闘いの歴史だったのだろうと」
「…………」
「あ、すみません、頭でっかちの学生の感想です」
「いや…… 畑に水が必要なので川の側に集中するのは仕方がないが、水勢が激しくなると水路も意味を成さず被害が出る。溢れるのはくねっている曲がりの外側で、古くから川辺を盛っている」
「川底を掘って、その石で堤防を作る感じですか?」
「…………」
「あ、すみません」
「川底を掘るのは難しかろう」
「水を抜いて」
「は?」
「あのくねっている所どうしの近い所をくっつける水門付きの水路を掘って、水量を減らした隙に内側の川底を掘って……」
「…………」
「あ、すみません」
「……興味があるなら担当者に会ってみるか?」
「僕は本の知識だけの学生なので、もし担当者が会うんなら、王都のちゃんとした専門家の方が益になるのではないでしょうか」
「専門家か。誰がいる?」
「えっと誰だろ……」
地政学……じゃないな、地勢学になるのか。学院の研究室にあったっけ? ダミアン様に連れて行って貰った時に、何処かで灌漑研究って看板を見た気がする、ダミアン様なら分かるかな…… 防災工事のノウハウなら役場の方? いっそサロンで聞いたら誰か伝があるかも。
「帰ったら聞いてみます」
「すぐに手紙で問い合わせてくれるか。もしも有益な工法があるのなら、雪が来る前に手を付けたい」
判断が早いのは家系かもしれない、と思いながら、ルカは頷いた。
街道の方に、ロッチたちの馬車が見える。いいなあ、柔らかい座席。
「ああ、追い抜かれてしまったな」
翁は大きな馬の手綱を翻した。
「お尻いたいです……」
「放り上げられるに任せているからだ。もっと騎座を意識しなさい」
「キザって何ですか。僕、馬乗ったこと無いんですよ」
「なんと、貴族の嗜みだと言われて習う物ではないのか」
「そういう名目で、一回だけ父に馬場に連れて行かれた事はあります」
「ふむ」
「同い年ぐらいの子がいっぱい練習しているのを眺めて、眺めただけで帰っちゃった記憶です」
「ふむ?」
「それきりです」
「何故だ? 父に理由を聞いたりはしなかったのか?」
「その頃は、父と会話するって概念がなくて、事象を受け入れるだけでした。そういえば音楽も芸術も剣術も、貴族の嗜みだからって連れて行かれるんだけれど、他の子がやっているのを眺めるだけで帰っちゃいましたね。本当に何だったんでしょう」
「…………」
「馬は嫌いか?」
「嫌いではないです。ロッチのしてくれる馬関連の話はすべからく面白いです」
「では厩に専用の馬を用意しておこう。ロッチに習って好きなだけ乗るがいい」
「え、いや、そこまでじゃないですよ」
「安心せい。北方馬ではなく、小さめで気性の良い馬を選ばせよう」
「でも……」
「乗ってみてやはり合わないと分かればやめてもよい。試してみなければ何も分からないではないか」




