いなくなった彼・Ⅱ
「何だね?」
いきなり斜め前に飛び出した子供に、侯爵は眉間にいかめしいシワを入れた。
「ハ、ハサウェイ侯爵閣下に質問する事をお許しくださいっ」
「……言ってみなさい」
「ありがとうごさいます。ラツェット伯爵が子息、ロッチといいます。級友のランスロット・ハサウェイ様が教室にお見えにならないので心配しています。体調を崩されたのでしょうか。寮にもいないし、邸にいらっしゃるのですか?」
「ラツェットの者か……」
侯爵は質問とは違う所にまず注意が行って、それから「アレは学園に戻っていないのか?」と小さい声で唸った。
後からおずおずとリリィが歩いて来る。
「あの、あのあの、らんすろっと・はさうぇい様に、いつも勉強を見て貰って……」
「リリィ、許可、許可!」
後ろからケイトが腕を引っ張る。
「あわわ、発言の許可をいたたきたく……」
「構わぬ、その辺りまとめて許可する」
侯爵は足を止めたまま、斜めから二人の女生徒を見下ろした。
「ブルー男爵家子女、リリシアと申します。ハサウェイ侯爵子息様に勉強を教えていただき、驚くほど席順を上げる事が出来まして、男爵家あげて感謝の気持ちをお料理に……」
「持つ者が持たざる者に施しを与えるのは当然だ。アレにはそのように教育している。有り難く受け取っておけばよろしい」
遮られてしまった、けんもほろろ。リリィ泣きそう。
「ベぺー男爵家子女、ケイトにございます。ハサウェイ侯爵閣下のお足を止めるご無礼、どうかお許し下さいませ」
「ベぺー家の…… ふむ、許す」
同じ男爵家でもケイトんちは事業をバリバリ広げていて勢力が強い。まぁそんなモンだ。
「お詫び申し上げる事がございます。ブルー家が家庭教師の礼に、ランスロット様に昼食を提供していた件、耳目のある場所でしつこく質問したのは私なのです。歪んだ噂の切っ掛けになってしまった事、深く反省しております」
侯爵はあまり表情を動かさず、「そういう話は既にストラスフォード卿より聞いている」と低く呟いた。
内容だけじゃなくて誰が言うのかも大事じゃないですかね、とロッチは心で毒付く。
「私も、ランスロット様に、普段良くして頂いておりますので、本日の欠席を心配しております。もしかしたら入院中というお母上に何かあったのではないかなどと」
突然、侯爵の顔が数倍険しくなった。
「いつまで、そんな、愚かな……」
ステッキを持つ手が震えている。動揺なのか怒りなのか。
その真ん前に、ロッチが進み出る。
「ルカ……ランスロット様の、全ての原動力はお母さんの為、ですっ。大人しく貴族やってるのも、寝ないで勉強してるのも、あんたの息子どもに蹴られて我慢してるのも、あんたの機嫌を取ってお母さんの待遇を良くして貰う為だ! 分かっている癖に!」
わああ、ロッチ・・! という顔を、ケイトだけじゃなくリリィもしている。でも止められない。彼女たちも同じ気持ちなので。
「アレが、そのような、ことを、吹聴しているのか・・」
侯爵にはどう伝わっているのか。
リリィたちにはすぐに分かる事がこの人にはどう伝わっているのか。
顔色が赤を通り越して紫になって、頬を震わせている。
そして、繁みの向こうに立っている白い少年を見付けて硬直した。
「ハサウェイ閣下、どうかそのままで。わたしは通りすがりの一生徒。貴方は名もなき生徒に声を掛けられた一人の保護者。正式に挨拶を交わしてしまうと命令になってしまいます」
「は……」
「ランスロット・ハサウェイは、大変心の美しい、穢れなき者です。側にいると心洗われます」
「…………」
「だからどうぞ、彼の切に求める者を与えられますよう、憂いが除かれますようにと、わたしはいつも祈っております」
うん、命令でも強制でもない良い塩梅! ロッチは内心拍手したが……
侯爵、帽子が落ちるほど頭を振って、両手で顔を覆ってしまった。
「王太子殿下……王家の方にまでそのような戯れ言を……」
何で通じないんだろう、何を言えばいいのだろう。
「駄目だ。もうアレを野放しにはしておけん。学園は辞めさせる」
――え゛
子供たちが呆気に取られた隙に、「御前失礼つかまつる」と殿下に礼をし、侯爵は早足で去ってしまった。
「何言った? 今なんて?」
「学園を辞めさせるって聞こえたわ。まさか、あれだけ高成績を修めているのに?」
「冗談だよね? あのおじさん勢いで言っただけだよね?」
王太子殿下は繁みに立ち尽くしている。
「やはりわたしは出張らない方が良かったのだろうか」
「そんな事ありません」
「そうそ、関係ないよ、あのおじさん、誰が何を言ったって、ちっとも聞いていないんだもん」
「侯爵、『学園へ戻っていないのか』って仰ったわ……」
リリィが不安そうに胸の前で指を組んだ。
ケイトが後ろから肩を抱いて寄り添う。
「ルカ様はその辺の貴族の子供よりも街の危ない場所を分かっているわ。大丈夫、ちゃんと戻って来るわよ、大丈夫」
昼休みを終わる無情の鐘が鳴った。
残念ながら学生の自分たちに出来る事は少ない。
後ろ髪引かれる思いで、四人はそれぞれの教室に戻った。