いなくなった彼・Ⅰ
それは何の変哲もない、気だるい週明けの朝。
停車場へリリィの迎えに行こうとロッチが準備をしていると、ノックがされ、上階に住むルカが顔を出した。色白な顔が、朝のせいか更に白味を増している。
「ごめん、ちょっと野暮用、今日、一人で行ってくれる?」
「いいけど、どうしたの? 何か手伝う?」
「ああ――、ハサウェイ侯爵が来たみたい、学長室に呼び出し」
「こんな時間に?」
「仕事前に寄ったんだと思う。僕の為に仕事を休むような人じゃないから」
「……ルカ」
「大丈夫だよ、僕、何のヘマもやっていないし」
「…………」
「戻らなかったら先にランチ食べてて」
「そんなに時間が掛かるの? 今日、ミートローフパイって言ってたぞ。ぜったい戻って来いよ」
「だから待たなくていいって。戻らなかったら僕の分も食べてて」
いつもの調子で手を振って、錫色の髪は階段を駆け下りて行った。
授業の開始時刻にルカは姿を現さず、二限目にも戻って来なかった。
二限目と三限目の間の長い休憩時間、ロッチは一階Fクラスのリリィの所へ行った。
彼女も、朝会えなかったルカを心配しているのだが、二階へはA、Bクラスの生徒しか上がれないので、ロッチから話をしに行ったのだ。
「まだ戻っていないの? 急に呼び出されて学校をお休みしてしまうなんて……」
リリィだって悪い予想しか頭に浮かばない。そう、
(入院しているお母さんに何かあったんじゃないか?)
口に出したらその通りになってしまいそうで、怖くて二人とも言えなくて、無理矢理別の予想を明るく喋って、別れた。
ロッチが二階へ戻ると、丁度ローザリンド殿下も教室へ戻った所だった。
「侍従に調べさせた。ルカが呼び出された理由は、母君とは無関係であった」
うお――、王室パワー! 殿下、ありがとうございます!
「ハサウェイ侯爵は、昨日のシガレット愛好会で、学園に先月流れた悪い噂を耳に入れ、激怒して来訪されたようだ」
「え」
『侯爵子息の癖に男爵令嬢にランチをたかっている』ってアレですか。ロッチの中では、もう記憶から薄れつつある過去だ。
侯爵家、情報おっそ!
(っていうか、ほとんど支出がない事に気付かなかった自分を省みる所じゃないの?)
「アーサー・ストラスフォード卿が始業前に学長室に訪れ、『子息は実直で勤勉、学業優秀な頼もしき後輩である、サロンが後ろ楯になってもよい』、と擁護して行ったらしい」
リーダー、ありがとう!! そんな風に思っているなら普段から言ってあげてよ!
「じゃあ、いまだ教室に戻って来ないのは……」
「侍従が学校警護員に聞いたのはそこまでだ。学長室を出てからは面談室に移り、侯爵家の護衛と交代したので、ノータッチらしい。
停車場にハサウェイ家の馬車が無いので、もしかしたら一旦侯爵邸へ連れ帰られたのかもしれない。
その……官吏に聞いた話では、侯はたいそう頑固で、他者の言う事を聞かず、説教を始めると一方的で長くなるそうなので」
うわ、ルカ、気の毒に……
でもその程度なら、学業の方が大切なのだからすぐに戻れるだろう。
最悪の事態も考えていたので、予想が外れて、ロッチは胸を撫で下ろした。
***
「貴族のお説教って長いらしいんだよな」
「ロッチも貴族であろう」
「俺んちは叱られる時は両頬を左右からギュイッって引っ張られるだけ。一瞬で終了さ」
「でも良かったです、お母様の事でなくて」
昼休みの中庭。芝生の上のランチ。
本日はルカがいなくて三人なので少し寂しい。
「ミートローフパイ、あいつ大好物だろ。残しておいてやる?」
「日持ちは今日いっぱいぐらいは大丈夫だと思います」
「放課後まで帰って来なかったら、寮の部屋においといてやろう。じゃあ、ひと切れ」
形のいいパイを油紙に乗せて包もうとすると、王太子が横から更にパイを乗せて来る。
「朝食を食べる暇もなく行ったのだろう? わたしの分もルカに」
「殿下、侯爵家だって朝昼のご飯くらい……」
言いかけてロッチは口を止めた。
ルカがどれだけ放置された存在か、彼の生活を見ていて分かる。田舎伯爵の自分の方が物持ちだったりするのだ。
――ガサ
繁みをかき分ける足音に、三人は期待の顔を上げた。
しかし残念ながら出て来たのは侍従で、「べぺー男爵令嬢がお見えです」と申し訳なさそうに言った。
後ろから、赤毛のケイト・ベぺーが眉間にシワを寄せた顔を出す。
「ケイト?」
「あの、今さっき、Aクラスの子に、ハサウェイ卿が学校を休んでいるって聞いて……」
ケイトはリリィの親しい友人ではあるが、ランチは実家の事業繋がりの家門の生徒と取っている。将来を見据えた交友を築く、貴族のお手本のような令嬢だ。
「理由を聞いていらっしゃいます? 今朝、職員棟であった事とか」
三人は目を見開いて、首を横に振った。
「私、今朝早くに提出物を届けに職員棟へ行ったんです。面談室の前を通った時、ルカ様の怒鳴り声が聞こえて…… あの、告げ口みたいになりそうで怖いんだけれど、やっぱり言っておいた方がいいと思って」
「ありがとう、何でも教えて欲しい」
殿下に言われて、ケイトは唾を呑み込んだ。
「お、覚えている限り正確に言います。
『じゃあ母さんを入院させている病院を教えてよ』『嘘だったんでしょ』『病院に入れてやるから言う事聞けって言ったくせに』『貴族なんか嘘ばっかりだ!』ってルカ様、声を荒げて」
ケイトの声は震えている。
ロッチとリリィ、殿下も、口を引き結んで止まってしまった。母親の事はルカの全ての出発点だった筈だ。
「大人の男の人の声……多分ハサウェイ侯爵の声は、『いつまでそんなくだらない事を言っているんだ』『とっとと忘れなさい』『ここまで愚かだとは思わなかった』『やはり寮などで好きにさせておかず邸で管理した方が良かった』などと。私もう、聞いているだけで胸が張り裂けそうだった」
その後、外に立っていた侯爵家の護衛に睨まれたので、仕方なく立ち去った。
罰が悪くて朝から三人を避けていたのだが、ルカが学校を休んでいると聞いて、びっくりしてここへ来たのだという。
「…………」
「…………」
「…………」
三人が黙ること何秒か。(きっとそれぞれに、自分がルカの為に出来る事を考えている)
ケイトが「あっ」と声を上げた。
彼女の視線の方向を見ると、校門の方角から、立派な貴族帽を被ってステッキを携えた年嵩の男性が歩いて来る。護衛と侍従を連れて、学長室のある教員棟を目指しているようだ。
見事な錫色の、ルカと同じに波打つ髪。
「ハサウェイ、侯爵……」
ロッチが小さい声で呟いた。
呟くと同時に駆け出していた。