プロローグ(表紙絵あり)
その国の王子さまはとても病弱でいらっしゃいました。
生まれた時から淡雪のように儚げで、目を離すといつの間にか溶けてしまっているのではと、周囲は薄氷の思いでお育てしておりました。
そしてとうとう四つの冬に、大きな病を患ってしまわれたのです。
「早く何とかしてやっておくれ」
「治療師はまだですか」
熱が下がらず痛い痛いと繰り返す幼子に、王も王妃も悲痛な面持ちでオロオロします。
お二人は大層仲睦まじいのですが子宝に恵まれず、やっと生まれた王子をとても愛していらっしゃいました。
病の正体は分からず、八方手を尽くしましたが医師も治療師も項垂れるばかり。
王子さまは反応も薄くなり、か細い命は今にも途切れそう。
「出来ることしか出来ない。治せなくとも言い掛かりは付けるな」
横柄な物言いで入って来た男性は、身なりからして王城に場違いな、ボサボサ頭のならず者。
持っている道具でかろうじて医療関係者と分かる程度。
なりふり構わぬ王が召し上げた、『城下で評判を集める流れ者の治療師』。
『胡散臭い』『ペテン師』『黒魔術を使う』等の噂を、藁にもすがる気持ちが凌駕したのです。
治療師は部屋に入るなり、瀕死の幼子を見て、怒っていた表情を切り替えました。
「衣服を脱がせろ」の指示に、召し使いが汗でぐっしょりの絹を剥がします。
治療師は屈んで、大きな手を子供の青黒い腹に当てました。
目を閉じて腹から胸、首筋、頭……
王も王妃も、宰相や侍従たちも、息を止めて待ちます。
今度はうつ伏せにして、背中を上から下へ。
「あった」
男が一言呟きました。
ハッとする一同。
次の言葉が飛びます。
「清らかなモノを持って来い、何でもいい」
「き、清らかな……?」
王妃は部屋の隅のサイドテーブルに目をやりました。
何にでもすがりたかった彼女がここ何日かで集めた、護符、まじない、教会の聖具から怪しい祈祷道具まで。
「ああ、そこの水、清らかだ、ここへ」
言われて王妃は、聖水の入った透明の水差しを掴んで、慌てて駆け寄りました。
治療師は右手を王子の背中に当てたまま、左手を伸ばして水差しに触れます。
とたん聖水が波打ち、ゴボゴボと音を立てて真っ黒なヘドロとなりました。
「ひっ」
「『穢れ』だ。子供の背の中心に詰まっていた」
「け、けがれ……」
「それは布を掛けて溢さぬよう教会に運んで処理して貰え。間違ってもそこいら辺に捨てるなよ」
「は、はい、必ず……ああ、王子!」
見ると、幼子の肌の色に僅かに血色が戻り、心なしか呼吸も落ち着いています。
王妃は思わず近寄ろうとしますが……
「まだだ、まだ百の内の一つも終わっていない。もっと清らかなモノを持って来い。その机にはもう無い」
「分かりました、侍従長、教会に聖水の手配を」
「王妃様、聖水は教会で祈りを捧げて七日七晩掛かります」
「ああ、何てこと」
悲嘆に暮れる王妃に、治療師は呆れたように言います。
「清らかなモノなどそこいらに幾らでもあるだろう。来る途中の庭にあった、植物の新芽でも花の種でも」
「え? そういう物でいいんですか」
「庭園は雪に埋もれております、王妃様」
侍従長が進言します。
「雪を掘れば、春を待つ植物や樹木の新芽なども眠っている。そんな事も知らんのか」
「うぐ……」
「治療師殿の言に従え」
王の命令で、召し使いの何人かが庭へ走り、よく分からないながらも地面を這い回り、様々な植物の新芽や秋に残った実や種を篭に摘んで来ました。
「ああ、これは使える、うん、そちらも清らかだ」
治療師は篭の中の物を選って摘まんでは、目を閉じて念じます。
植物はあっという間に萎れて真っ黒になりますが、その度に王子の様子が良くなって行くのが目に見えて分かります。
召し使いたちは夢中で庭の雪を掘りました。
じっとしていられない王妃も加わろうとしますが、周囲に気遣わせて邪魔になると王に止められました。その代わりに王は騎士団に助けを要請しました。
宰相は部下に命じて清らか判定の出た植物を石板に記し、庭に取って返す召し使いに持たせます。
見た目がきれいだから良い訳でもなく、泥にまみれたみすぼらしい物がOKだったり、基準がよく分かりません。
奇妙な治療を繰り返し、萎びた黒い植物が傍らの篭に山になりました。
外はもうとっぷり暮れ、長い時間が掛かっています。
雪の庭は凍り、キンと冷えた暗い中、地べたを這いずる召し使いはもとより、屈強な騎士たちさえもフラフラになっています。
治療師も疲弊している様子に王妃は気付きました。
そう、あんな黒い汚れを身体の中に何度も通しているのです。
「あ、あの、治療師様、少しお休みになられては」
「一気にやり切ってしまわねば。今止めたら元の木阿弥だ。だがしかし予想外に根深い。湯冷ましを頂けるか」
両手の塞がった治療師に、侍従が杯を口へ沿えます。
ゴクゴクと勢いよく飲んで、治療師は疲れが少しは癒えたようです。
「治療師様、清らかな物とは植物だけですか? 宝石などは……」
王妃がそっと聞きました。
「石でも構わぬが、見ての通りだぞ」
「は?」
「真っ黒になって砕けるぞ、元には戻らぬ」
「はい、承知致しました」
治療師はこの部屋に入って初めて王妃の顔を真っ直ぐに見ました。
「貴族って奴は……」
「はい?」
「いや……、そうだな、その頭の横の髪飾りなどは、かなり清らかだ」
「え? あ、はい」
王妃は躊躇している所を見せぬよう、急いで雪の結晶模様の白金の櫛を外そうとしました。
しかしいつもは侍女がやる作業、上手く外れず髪に引っ掛かってしまいます。
手を貸してくれたのは隣の王でした。
「この櫛も王子の命の糧になるのなら、何と本望な事であろう」
「はい……」
その櫛は、まだ王太子にも決まっていなかった青年の彼から、婚約の証にと彼女に贈られた物でした。
王妃が毎日大切に、手ずから磨きなから使い続けていらした物です。
そんな櫛も、治療師の手の中で容赦なく溶けて真っ黒になりました。
「効果が大きかった」治療師が意外そうな声で呟きました。
王妃は身体中の装飾を外しながら侍従に命じました。
「私の部屋からありったけの宝石を持って来るよう。保管場所は侍女頭が知っています」
王も、王妃程の宝石は持っていませんが、価値のありそうな私物を持って来るよう命じました。
「これと、これ、これもだ」
差し出されたトレーから、治療師は彼のお眼鏡に叶った『清らかなモノ』を摘まみ上げます。
この彼には何が見えているのでしょうか。
選ばれる物は必ずしも高価な物でなく、どちらかというと使い古した平凡な物です。
すぐに真っ黒になる物もあれば、時間を掛けてゆっくり崩れる物もありました。
(大切な方から頂いた想い出の品ばかり選ばれて行く……)
失われるそれらを眺めながら、王妃は意地悪されている気分になりました。
いえ、この治療師が石の経歴など知っている筈はないのです。
清らかな物とは何なのでしょう。
忙しそうな彼に今聞くのは憚られます。
そして聞いても「そんな事も分からんのか」と鼻で笑われそうな気が、何となくします。
「この子に、砂糖水を与えてやってくれ、ああ、少量の塩を混ぜて」
治療師の声に、王妃はハッと我に返りました。
見ると王子が半分意識を戻して、口をはくはくさせているではありませんか。
急いで砂糖水を用意させ、綺麗な綿に含ませて、王妃自ら王子の乾いた唇へ持って行きました。
その時、横目に……
――あっ
トレーに乗っているそれ……それは宝石ではありません。
王子が生まれる何年か前、王妃が産み落としてこの世に数分しか生きられなかった哀れな王女……の、小さな白いカケラ。
誰にも内緒で宝石箱の隅にしまってあったのを、侍女頭が宝石箱ごと持って来てしまったのでしょう。
彼女の事は責められません。
治療師は一番にそれに手を伸ばしました。
――ああ!
今までの流れから、とても「それだけはやめてください」なんて言えません。
この身の中に十月生きた娘の命の想い出も、王子に捧げねばならないのでしょうか。
いえ、そうすべきなのでしょう。
王妃は声を飲み込みました。
その時、
ハクリと、指に暖かみがありました。
王子が、砂糖水の綿を王妃の指ごと咥え、力弱く吸っているではありませんか。
コクンと飲み込む様子に、王妃は何もかも忘れて胸一杯の涙をポロポロと溢しました。
「ああ、こちらの方が極上だ」
治療師はそう言って、トレーに伸びていた手を王妃の頬に移しました。
骨張った指に掬われた涙は小さいのに、手の中で大きな黒い固まりとなってゴトリと落ちました。
「終わった」
***
~表紙絵~