Episode.39
『ここらでよいかの』
のんが立ち止まったのは、森の奥にひっそりと口を開けた池の前だった。
水面は鏡のように澄み、しかし不気味な静けさを宿している。鳥の声すら遠のき、周囲に張り詰めた気配が漂っていた。
「ここで何を──」
陸斗が問いかけた瞬間、鋭い声が割り込んだ。
「リクトさん!構えてください!」
「え?」
ファルシュリオンが突如として臨戦の姿勢を取った。
彼女の視線の先──草むらがざわりと不自然に揺れた。
陸斗は慌てて武器を探し、足元に転がっていた木の枝を握りしめて身構える。
バババッ──
草叢を掻き分ける音が近づき、やがて姿を現したのは──
「きました!!」
緊張に喉が鳴る。
陸斗が息を呑み、その正体を目にする。
「……え?」
そこにいたのは、真紅の粘体が陽炎のように揺らめきながら跳ね回る存在だった。
炎を抱いたような流動の体。あまりにも小さく、あまりにも滑稽に見える。
「燃焼粘体生物……?」
思わず気が緩む陸斗。
しかし隣の少女は鋭い声でその気配を断ち切った。
「リクトさん!気を抜かないで!」
「いやでも……弱そうだし」
「確かに、単体なら脅威ではありません。ですが──こいつらは群れで現れます。そして……」
その言葉に呼応するかのように、池の周辺の茂みが次々と揺れた。
赤、青、紫、黄……無数の粘体がぴょんぴょんと姿を現す。
「一体ずつ異なる能力を持っているのです」
「え……」
陸斗はごくりと生唾を飲み込みながら、群れの色彩を見渡した。
赤は炎、青は水、紫は毒、黄は雷──それぞれが不気味に脈動し、目に見えぬ力を滲ませている。
「──カラフルで、なんか綺麗にすら見えますね」
「そんな甘いものではありません……中には自ら爆ぜる個体もいるのです」
「爆発!?そんなの……」
慌てて探す陸斗の視線の中に、確かに異様に膨張した黒い粘体が見えた。
背筋を衝撃が走り、彼は無意識に体を硬直させる。
「どうすれば……」
「まずは落ち着いて。それぞれがどんな力を持つのか、一体ずつ見極めるのです」
「わ…わかりました」
気を引き締め、群れを注視する。
だがその最中──
「……あれ?」
「どうしました?」
「いや……一匹だけ。何も能力を持っていないやつがいるような……」
ファルシュリオンの眉間に皺が寄る。
「そんなはずはありません。スライムは種族の特性上、例外なく何かしらのスキルを宿すはず……長きエルフの歴史でも、ただのスライムなど見聞きしたことは一度も……」
「そうなんですか?でも、どう見ても普通そうに見えるけど──」
『それは無性粘体生物だの』
のんの声が、静かに割り込んだ。
群れの中で所在なげに揺れる、一匹だけの無色の粘体。
仲間から外れ、居場所を見失ったかのようなその姿に、陸斗は無意識に自分を重ね、顔を歪めた。
『ふむ……ちょうどよいの』
のんが木の枝を蹴ってひょいと登り、見下ろすように声を落とした。
『陸斗よ、これから魔眼の修行に入る。まずは基礎からだの』
「……おう。何すりゃいい?」
『スキルの移し替えだ』
「ッ──!?」
ファルシュリオンの瞳が大きく見開かれる。
「スキルを……移し替えるですって……?そんなこと、できるはずが……」
「そんなにすごいことなんですか……?」
彼女は重く頷く。
「スキルは本来、努力や修行の果てに身につくもの。それを移すというのは、その人が積み上げた経験や知識そのものを移し替えるのと同義……あまりに恐ろしい術です……」
「……そんな能力が基礎なんて……」
『魔眼とはそれほどのもの。世界を壊すことも、守ることも容易い。その意味をわかっておけ』
のんの声に、陸斗は青ざめた顔で唾を飲み込んだ。
『では、あの無性粘体生物に他のスライムたちの能力をすべて移し替えろ』
「わかった……」
『もう気づいていると思うが、魔眼は魔素ではなく変素を用いて発動する。ゆえに魔眼を扱えるのは魔族だけだの』
「え?変素って……?」
言葉が途切れ、場の空気が重く沈む。
『主……ガンサイのもとで本を読んだのではなかったか?』
「あ〜……なんかそんなの、あったような……」
『……やはり底抜けの馬鹿だったの』
「ひどいだろそれ!?」
陸斗が抗議するが、のんは一瞥すらくれず説明を続ける。
『変素とは、魔素や聖素とは異なる“種族元素”のひとつだ』
「ちょっと待って!もう頭パンクしそう!」
『魔素や聖素は、魔法を使うための要素──そう理解しておけばよい』
「……あ、クズもそんなこと言ってたな」
『種族元素とは、それぞれの種族が生まれながらに持つ力。魔族は変素という、あらゆる性質を変える力を宿している。だからこそ、彼らは戦争の火種となった、とされている』
陸斗は難しい顔をしたまま黙り込んだ。
「どうしました?」
「いや……魔素とか変素とかの違いが、まだぼんやりしてて……」
「混乱してますね……簡単に言うと──」
彼女の声音はやわらかくなる。
「魔素などの魔力元素は“体の外にある力”。一方で種族元素は“体の中に宿る力”──そう考えれば理解しやすいかと」
「なるほど!だから変素は魔族だけが持ってるってことですね。てことは、エルフとか人間にも、それぞれ種族元素が?」
「ええ、厳密に言えば──」
『もうよい!長くなる』
のんが強引に打ち切った。
「……ですよね」
『主はただ、自分が変素を扱えると理解しておれば十分だ』
「はいはい……」
拗ねたように口を尖らせる陸斗。
『魔族は常に体内で変素を精製しておる。力を一箇所に集中すれば、そこに変化が生じる。例えば──腕を少しだけ伸ばしたり、背中に集中すれば翼が生える魔人もいる』
「翼!?よし、やってみる!」
陸斗の瞳が輝く。全身に力を込め、背筋を震わせた。
……だが、何も起きない。
「くそ〜……」
『未熟な主に翼など生えるはずがなかろう。まずは名以外の情報を見られるようになるのが先だ』
「名前以外の情報?」
『スキルを移し替えるにも、そのスキルを知っていなければどうにもならぬ。変素を目に集めて、粘体生物を観察してみろ』
「了解!」
張り切って頷いた陸斗は、しかし直後に固まった。
「えっと……変素を目に集めるって、どうやるの?」
のんが深くため息をつく。
『主は本当に……よく目を凝らせ!』
「おおう──!!」
陸斗は必死に目を見開き、スライムたちを凝視する。
十分経過──
二十分経過──
三十分経過──
「できねぇ!!!」
頭を抱え、地面に転がる陸斗。
のんはこめかみを押さえ、ぐったりとした声を漏らした。
『……センスがないのう』
「変素ってなんなんだよお!」
『はぁ……本来は自ら気づくものだが……仕方ない。手を貸すか』
「お願いします!!」
『まずは目を閉じろ』
言われるまま陸斗は瞼を下ろす。
『己の中を巡る血の流れや、空気の鼓動を感じろ』
「え?どういう──」
『黙れ。集中せよ!』
「はい!!」
背筋を正し、陸斗は呼吸を整えた。
『流れている、と想像するだけでいい。それが大事なのだ』
しばしの静寂。やがて──
「……あ」
『できたようだの』
「これは……」
『主が今感じているものは、人族で言うところの〈気〉に近い』
陸斗の意識に、体内を巡る力の流れが鮮明に立ち現れる。
それは血潮のようであり、火のようであり、息吹のようでもあった。
体が軽くなる。自分という存在の奥底に何かが目覚め始めている。
『今度は、その流れだけに意識を向けてみろ』
のんの声に、陸斗は静かに頷いた。
それは頭から指先まで、体の隅々を巡っている──そして、やがて彼は気づく。
すべての流れが、必ず一点に通っていることを。
「……ここは……?」
『それが主の核。変素を生み出す源だ。今度はそこに気を集中させよ』
「わかった──」
陸斗がぐっと力を込めた瞬間──
ドォンッ──!
赤い奔流が爆ぜるように立ち上がり、彼の体を包んだ。
烈火のごときオーラが空気を押し返し、地面を抉る。
「な…なんだこれ……!」
『それが貴様のオーラだ。以前にも一度、無意識に噴き出したことがあったろう』
「す、すごい……!」
『まだ微弱にすぎぬ』
「これが……微弱──!?」
(空気が裂け、気流すら生んでいる……地面も削れて……。これで微弱だというの──)
隣で見ていたファルシュリオンの胸を、恐怖が強く締めつけた。
人間とは思えぬ力。その片鱗だけで、彼女は背筋に氷を這わせる。
「すげえ……!」
陸斗は我を忘れたように興奮していた。
『呆けるな。変素を目に集めよ』
「おう!」
気の流れを眼へと集中させる。
オーラがざわめき、不安定に揺らぐ。だが意志を込め、さらに収束させる。
「……こうか……ッ!」
瞬間、陸斗の視界が変わった。
世界が解像度を増し、目の前の存在が“言葉”として立ち現れる。
「……見える……!なんか、全部詳しく見えるぞ!!すげえ!!」
昂ぶる声のまま、陸斗は思わずファルシュリオンを振り返った。
そして口をついて出た言葉に、彼自身が凍りつく。
「え……ファルシュリオン様、十五歳なんですか!?」
「きゃあああああ!!!」
バンッ──!
少女の拳が反射的に陸斗の顔面を打ち抜いた。
不意打ちに吹き飛ばされながら、陸斗は目を白黒させる。
「な……なんで……」
「つい……!でも、乙女の情報を勝手に覗くなんて、許されません!」
頬を赤らめ、ぷんぷんと怒るファルシュリオン。
「ごめんなさい……」
『集中せよ!』
のんの一喝に、二人同時に背筋を伸ばす。
「「は…はい!!」」
陸斗は再びスライムたちへ視線を移す。
その視界には、名前だけでなく──各個体が宿すスキルの文字が、鮮烈に浮かび上がっていた。
「──見える……スキル名まで、全部」
『よし。スキルの移し替えは、指に変素を集めて行う。指先にスキルをくっつけ、別の個体へ貼り替えるのだ。まずは目に見えるステータスを自分の前に集めてみろ』
「……集める?本当にそんなこと……」
『主は戦闘の最中に敵へ駆け寄り、一体ずつ手作業で移し替えるつもりか?』
「たしかに……でもどうやって……」
『イメージだ!少しは自分で考えよ!』
「お…おす……」
叱られるたびに、陸斗は肩をすくめる。
だが目を閉じ、深く息を吐き、己の中で映像を描いた。
(管理する……作業台に並べるみたいに……)
変素の扱いにも、少しずつ慣れてきているのか。
彼は難なく、目の前に“状態表記”を並べることに成功した。
「……できたぞ!」
『次はその状態を維持したまま、指先に変素を集めろ。そして全てのスキルを──無性粘体生物へ移し替えるのだ』
のんの声は、静かだが威圧を孕んでいた。
陸斗は唾を飲み込み、震える手を前に突き出す。
「……これで本当に移るのか?」
半信半疑のまま、そっと指先をスライムへ触れる。
──ぴたり。
「……おお。できた……!」
『手を休めるな!!全て終わるまで続けろ』
のんが鋭く叱咤する。
陸斗は必死に集中を繋ぎ止め、次々とスキルを引き剥がしてはノーピィに重ねていった。
わずか五分──だが永遠にも思える時間の果てに、彼は膝をついた。
「はぁ……っ!はぁ……っ!」
体力も気力も削り取られ、呼吸は荒い。
『……終えたのなら、残りのスライムは倒せ』
「……っす……!」
ふらつく体を奮い立たせ、陸斗は雄叫びをあげた。
「うおおおおおお!!」
群れは一斉に陸斗へ襲いかかる。
だが彼の拳が振り抜かれるたび──
パァンッ──!
スライムは無惨に弾け飛んだ。
鋼鉄粘体生物すら、一撃で霧散する。
「まじかよ……!」
拳は止まらない。スキルを失った粘体生物達は、なす術もなく彼に触れる前に粉砕された。
息が切れ、腕が痺れても──陸斗は殴り続ける。
やがて最後の一匹を打ち砕き、荒い呼吸のまま立ち尽くした。
「……終わった……」
その足元へ、よたよたとノーピィが近づいてくる。
陸斗は拳を構え──しかし、動けなかった。
「こいつも……倒すのか……?」
あからさまに嫌そうに顔を歪める陸斗を見て、のんが言った。
『いや。その個体には名前を与えよ。心を通わせた証だの』
「名前を……?」
一瞬戸惑うが、ノーピィの揺れる身体に自分を重ねた時、自然と笑みがこぼれた。
「……よし決めた!お前の名前は──ピィだ!」
「ピィ!!」
小さな鳴き声のような音が返り、次の瞬間、ピィの身体がまばゆく輝きだした。
「なっ……なんだ!?」
『──太古の昔、特定の魔族のみが行なっていたとされる名付けの儀式があった。対象に真名を授け、受け入れることで主従関係を結ぶ』
「主従関係!?」
『いつしか名付けは種族スキルとなり、ある特殊な能力が発動した──』
ピィの輝きがピークに達する。
『それは、種族進化だ』
「進化!?」
「そんな──!!」
二人とも驚愕する。
「ピィーーーー!!!」
光が収まると、ピィからは小さな羽が生えていた。
『無性粘体生物は粘体生物の中で唯一、最終形態まで進化する。今は……天使粘体生物、と言ったところかの』
「……なんだよこの能力──」
『そして名付けして主従を結んだ相手のスキルを借りて使用することができる。威力は多少落ちるがの』
あまりに凄まじい──
あまりに壮大な能力に呼吸すらもままならない。
『故に──魔族にとって名前とは特殊な意味を持つ。教団はそこに目をつけたのだろうのう……』
のんはどこかを見つめながら、呟く。
『これが君主の景色の基礎スキルだ』
「これが基礎──」
(こんな能力が存在するなんて……リクトさんが悪の心を持てば世界なんてあっという間に──)
陸斗はファルシュリオンに近付く。
その気配を察して反射的に後退りしてしまう。
「……ファルシュリオン様」
「……はい」
陸斗はファルシュリオンの手を握る。
「どんな能力を持とうが、俺は俺です!何も変わりません。安心してください」
にっこりと微笑みかける陸斗。
「リクトさん──」
(そうだ……今は信じよう。この人の真っ直ぐさを──)
『まずは確認だの。ピィの状態を見てみろ』
「──わかった!」
状態表記が表示される。
個体名:ピィ
レベル:1
種族:天使粘体生物
スキル:
【耐性】
熱耐性×6、冷耐性、水耐性、雷耐性
【攻撃スキル】
爆発、燃焼×3、毒、酸、雷光×2、水泡、突風
【防御スキル】
鋼鉄、ミラー、水身体
【特殊】
高速、分裂、千里眼、吸収
【強化】
身体強化×3、反射強化
「なんじゃあこりゃあ!?」
「どうしました!?」
「……ちょっとツッコミどころが多すぎるんですけど──」
思考が固まっていると──
──ピロリン──
突如どこかで聞いたような音が陸斗の脳内に鳴り響いた。
〈初めての部下ができました〉
「え──?」
〈初めての部下を進化させた事で、君主の景色のレベルが上がります〉
「なんだこの声!?」
「リクト……さん──?」
〈続いてあなたの能力を上昇させます〉
「は!?」
声に反応するかのように、陸斗の体が赤く光った。
「だ…大丈夫ですか!?」
「なん…だ……勝手に変なイメージがッ──!!」
──いざという時、必ず──飲み込め──
「かはっ──」
「リクトさん!!」
『心配ない』
「でも……」
〈レベルアップ完了〉
「はあ……はあ……」
陸斗の脳内に響く声は、まるで"心の奥に染み渡るような透き通った綺麗な声"だった。
「……なんなんだよいきなり……勝手に喋って勝手に弄り回しやがって──」
そう言った陸斗の顔からは何故か涙が溢れていた。
「リクトさん……」
「くそ!!部下ってなんだよ!!ピィはそんなんじゃなくて俺の友達だ!!!」
〈部下ではなく友達……修正しました〉
苦しそうに胸を抑える陸斗。
「なんだよこれ……」
〈おめでとうございます。主人〉
〈よかったね。──くん〉
二つの声が陸斗の脳内で重なる。
(なんでだよ──)
「誰なんだよ……」
(なんでこんな暖かい気持ちになるんだよ──)
「答えろよ」
(どうしてこんなにも──)
涙が止まらない。
「無視すんなよ!!勝手すぎるだろ!!」
ファルシュリオンが陸斗を抱きしめる。
「うわあああああ!!」
陸斗は叫んだ。
目が覚めたら、そこには大切な誰かがいる。
そう願いながら。
しばらくずっと叫びながら、咽び泣いた。
そして少し落ち着いた時に、ファルシュリオンが陸斗に問いかけた。
「リクトさんの記憶を探しに行こう?」
その問いに陸斗は──
「……ああ!」
力強く頷いた。




