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Episode.37

 王国騎士団が街で揉めているその頃。


 ログリア町の西方、深い森の中で──エクリオンは目の前の光景に言葉を失っていた。


「なぜここに……だ…大聖霊様が……!?」


 信じられぬものを見るように目を見開く。


「え?なに言ってるんですか。こいつは、のんで……昔──ッ!?」


 言いかけた陸斗が頭を抑え、崩れ落ちる。


「ぐああッ──!!」

「リクトさん!?」


 焦るエクリオンをよそに、のんはただ短く息を吐いた。


『やれやれ……やはりこうなるか』


 その声音は諦めに近い。


「え……?」


 のんは小さな前足を陸斗にかざす。


『闇聖術──〈業〉』


 刹那、世界が塗りつぶされた。

 闇が降り、光も音も奪われ、ただ漆黒だけが残る。


「こ…これは……なんなのッ……!?」


 エクリオンの全身が痙攣のように震えだす。恐怖で歯が鳴り、指先の感覚すら曖昧になった。


『ふむ……この程度でよかろう』


 のんが前足を下ろすと、闇は裂けて消える。陸斗は静かな寝息を立てていた。


「あ……あ、あ……!」


 声が喉に貼りつき、呼吸が途切れる。胸が押し潰されるように苦しい。それでも目はのんを離せなかった。畏怖に縫いつけられた獲物のように。


『手のかかる』


 のんは再び前足を翳し、今度はエクリオンの胸から何かを吸い取る。


「ッはぁ──!!」


 息が戻り、体が解放される。


『落ち着いたかの』


「は……はい……!ありがとうございます……!」


 額から滝のように汗が滴り落ちる。


「だ……大聖霊様……一つだけ伺っても……」


『申せ』


「なんなのですか、今の術は……!?」


『……やかましいのう』


 のんは耳をかき、少し思案した。


『まあよかろう。闇とはすべてを引き寄せ、呑み込む力を持つ。今のは抑えた出力で、此奴の痛みの原因だけを吸い取ったのじゃ』


「吸い取った……?」


『お主の恐怖もそうじゃ。余計な畏怖を抜き取っただけのこと』


「……!では、リクトさんが苦しんでいた原因を──大聖霊様はご存知なのですね!?」


『ああ。記憶を取り戻そうとしたゆえじゃ。容量の足りぬ器に無理をした』


「……どういう、こと……?」


『此奴の記憶には制限がかかっておる。他の奴隷どもが魔族隷術(マージスレイブ)で封じられておるのとはまったく違う。もっと深い……此の世界そのものに関わる制約じゃ』


 のんは陸斗をじっと見下ろす。


『思い出すには、力が要る。さもなくば、押し潰されてしまう』


「なぜ……そんなことが……」


『此奴を助ける条件として、我にも制限がかかっておる。これ以上は語れぬのぅ』


 その言葉と同時に、陸斗が目を開けた。


「あ……あれ?俺……なんで倒れてたんだっけ」


 頭を押さえ、記憶を探ろうとする。


『今は気にするな』


「え、のん?なんで──」

「あっ!!そ…そうでした!話の途中で……!」


 慌てて遮るエクリオン。


(今思い出させるわけには……)


「そういえば……」


 陸斗は不思議そうにのんを抱き上げ、頭を撫でた。


「こいつって精霊なんですよね?精霊って、上位とか中位とか……どのくらいの立場になるんですか?」

「リ、リクトさん!?な、なんてことを──!」


 蒼ざめるエクリオンの声が裏返る。


「大聖霊様に触れるなど……!」

「大聖霊?こいつが?上位精霊とかそういうのじゃないんですか?」

「ひッ──!」


 あまりの無礼さに息を呑み、エクリオンは顔をそむけた。

 のんは小さくため息を漏らす。


『……やれやれ、こやつ』


 エクリオンは必死に態度を立て直し、説明を続けた。


「のん様はもはや“精霊”と呼ばれる存在ではありません!最上位精霊が進化を遂げた時、聖なる存在へと生まれ変わる──それが聖霊です」

「聖霊……」

「さらに全ての種族の頂点に至り、神にも等しい存在とされる。それこそが──大聖霊様なのです」

「へぇ……」

「へぇ!?リクトさん、あなた分かってますか!?」

「いや、そんなにすごい存在だとは思えなくて……」


 のんは腕を振り払い、陸斗の手から飛び降りた。


『くだらぬ話はもうよい。──お主は、この先どうするつもりじゃ?』


「え……?」


 陸斗はしばし黙り込む。

 そして、低く息を吐いた。


「……やっぱり、記憶を取り戻したいし……家族に、会いたい」


 その声は迷いを断ち切ったようで、しかし震えていた。


『なるほど。ならば魔族隷術(マージスレイブ)を解かねばなるまい』


「え!?解けるのか!?」


『元を断てばの』


「元……?」


『魔族を悪と定め、罪を背負わせ、隷術を刻み続けている者は誰じゃ?』


「そ…そんなの知るかよ!」

「……教会です」


 静かに割って入ったのはエクリオンだった。


「女神アンを唯一神とする教団。彼らの始祖こそが、魔族を戦犯として糾弾し、隷術を完成させた者たちです」


 陸斗の表情が険しくなる。


「しかし……」


 エクリオンは濁すように言葉を区切った。


「その歴史は、我らエルフの記録とは食い違っています」

「食い違う……?」

「はい。王族にのみ許された古文書にはこうあります──戦争を起こしたのは人族。女神アンを掲げ、他種族を邪悪と決めつけ、世界から消し去ろうとしたのは彼らだ、と」

「そんな……」


 陸斗は言葉を失った。


『正確には、それも違うがな』


「え!?のん、知ってるなら教えてくれよ!」


『それは言えん』


「なんでだよ!!」


『──お主がそう決めたのじゃ』


「え……どういう意味だよ……」


 陸斗の混乱を無視し、のんは視線を鋭く変える。


『それより──そろそろ答えてもらおうか』


「え?」


『お主は何者じゃ』


「……ッ!」


 エクリオンの瞳が大きく揺れる。


 一瞬の沈黙ののち、エクリオンは頭をかき、無理やり笑みを浮かべる。


「えへへ……ばれちゃいましたか」


『目的を言え。ファルシュリオンとやらよ』


 のんの声が低く沈み、空気そのものが鋭利に変わる。

 森の緑がざわめき、殺気は刃のように二人を切り裂いた。


 陸斗の背筋を冷気が駆け上がる。


 エクリオンは笑みを保ちながらも、わずかに肩を震わせていた。

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