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Episode.29 業火

 陸斗は肩で息をしていた。

 激しく打ちつけていた鼓動が、ようやく静まり始める。

 ふと足元で何かに躓いた。


 ──刀だった。


 血と土に塗れたそれは、ただ黙って、地に伏していた。


「どこに連れて行くつもりダァ!!」


 なおもガンサイが喚き散らしていた。

 だがその声に、誰も振り向かない。

 威厳はとうに剥がれ落ち、残ったのは哀れな残骸だけ。


「口を開くな」


 誰かが呟く。


 それでも、解き放たれたばかりの人々の足は、まだ縛られたままだった。

 深く刻まれた恐怖の痕跡が、歩みを奪っていた。


 ガンサイは、それに気づいて笑った。


「所詮、奴隷は死ぬまで奴隷だなあ……!

 誰かに頼って、任せて、見てることしかできねぇ。

 忘れるなよ……どこに逃げようが──

 魔族(マージ)である限り、貴様らは世界の汚物だ」


 笑い声が響いた。

 それは、自分が何者であるかすら忘れた者の、最後の足掻きだった。


 クズの唇が切れていた。噛みすぎたのだろう。

 滲む血をぬぐうことなく、ただ睨む。

 だが足は動かない。

 体の奥底に染みついた恐怖が、まだ彼女を縛っていた。


 そのとき──


 金属が石畳を擦る、かすれた音が響いた。

 エクリオンが振り返る。


 ──陸斗だった。


 今にも崩れそうな足取りで、刀を引きずりながら近づいてくる。

 その表情は影に隠れて見えなかった。


 けれど、その歩みに、覚悟があった。


 やがて彼はガンサイの前に立ち止まり、刀をゆっくりと構え直した。


「ゴミィィ!何しに来やがった!?」

「一言……言いたくて」

「なんだぁ?感謝でもしに来たか?」

「……違う」


 陸斗は首を横に振る。

 ひとつ、深く息を吸った。

 肺の奥まで空気を満たし、それを時間をかけて、すべて吐き出す。


 ──沈黙。


 誰かの喉が、ごくりと鳴る音がした。

 ガンサイの額に、うっすらと汗が滲む。


 陸斗が、顔を上げた。


「ひッ──」


 ガンサイの声が掠れた。


 陸斗の目は見開かれていた。

 血走った眼球の奥で、血涙が滲んでいた。


 だが、最も異様だったのはその表情だった。

 冷たいのではない。怒っているのでもない。


 ──温度が、なかった。


 感情の起伏が、一切、存在しない。

 どこか遠くで燃え続ける火が、まるで音も匂いも失ってしまったような、そんな無音の炎。

 それは、人の表情ではなかった。

 見る者の感情さえ拒絶する、異質な“なにか”。


 陸斗は口を開いた。


「……俺たちのために、死んでくれ」

「──は?」


 困惑するガンサイ。

 だが、陸斗は何も言わない。


 刀を持ち替え、刃を天に向ける。

 高く、静かに、掲げた。


「や…やめ──ッ!!」


 命乞いの声が、耳を刺す。

 次の瞬間、陸斗の拳が柄を、強く、握りしめた。

 血が滲む。骨が軋む。

 その一瞬の静寂に、すべての怒りが凝縮されていた。


「……もういい。喋るな」

「やめろぉおおおおおおおおおお!!!!」

「──死ね」


 刃が振り下ろされた──


 ──ガキィィィィンッ!!


 火花。

 金属の断裂音。

 折れた刀身が宙を舞い、そのまま地面に突き立った。


 陸斗の前には、エクリオンが立っていた。


 一瞬、陸斗は理解が追いつかず呆然とする。

 呼吸が荒く、喉の奥で短い息が擦れる。

 視線はエクリオンの肩口を彷徨い、焦点が定まらない。

 やがて、怒気がじわりと浮かび、眉間に深い皺が刻まれる。


 ……次の瞬間。


 エクリオンは、そっと彼を抱きしめた。

 その腕は震えていない。だが、胸の奥に秘めた熱が陸斗の頬に伝わる。

 陸斗の背筋が、反射的に硬直する。

 吐き出し損ねた息が、彼女の首元でかすかに震えた。


「もう、あなたが傷つく必要はないのです」


 その声に、陸斗の眉がわずかに揺れる。

 喉が動くが、言葉はすぐには出てこない。

 唇がかすかに開き、閉じ、また開き──


「……あ?」


 低く押し殺した声。

 視線は伏せられ、だが睫毛(まつげ)の影が小刻みに震えている。


「苦しまなくて、いいのです。

 もっと早く、あなたを助けたかった。ごめんなさい」


 陸斗の瞳がわずかに濡れ、光を帯びる。

 それは涙ではなく、こらえきれず溢れ出した感情のきらめきだった。


「十五年……」


 ぽつりと、呟いた。


「十五年……だぞ」

「はい」

「こいつには……時間を奪われた」

「はい」

「誇りも、感情も……」

「……はい」

「希望さえも、だッ!!!!」

「はいッ」

「なにもかも、……なにも、かもを、だ……!!!」

「……わかっています」


 叫びは、誰に向けたものでもなかった。

 だが止まらなかった。

 止められなかった。


「……許せ、というのか」

「いいえ」


 エクリオンは首を横に振った。


「あなたが赦さなければいけないのは、あなた自身です。

 あなたは、もう……自由なのですから」


 ──陸斗は、刀の柄から手を離した。


 脱力した腕が落ち、膝をつく。


「……赦して、いいのか」

「ええ。

 あなたは、もう、自由なのですから」


 陸斗は、子供のように泣いた。


 声が潰れるほどに。

 喉が裂けるほどに。

 長く、止まることのない泣き声をあげ続けた。


 エクリオンは何も言わず、彼を抱きしめ、

 ただ、繰り返した。


「……大丈夫。

 大丈夫だから」



 ────────────



【時刻】23時30分



 陸斗が泣き止んだとき、夜はすでに地上を覆い尽くしていた。


 元奴隷たちは、皆一様に暗い顔をしている。


「……ん?」


 疲れ切って座っているアホが、ふと背筋を伸ばし振り返る。


「どうしたの?」

「いや……はっきりとはわからんけど、何かがこっちに向かってきてるな」


 アホの言葉にカスが振り返る。

 塀の向こうに砂埃が舞っている。


「なんや?」


 門番がアホに近付く。


「あれは俺がガンサイに言われて呼んだ領主の軍勢だよ」

「なんやて!?」


 青ざめるアホ。

 人間の国の領主ともなれば、この現状を見てガンサイを味方するのはまず間違いない。


 そんな人物が軍勢を連れて押し寄せているのだ。

 アホは絶望的な気持ちに陥った。


「お前……なんてことを──」

「いいから!そこで大人しく見ているんだ」


 ポルディアが入り口に到着し、門番は歩き出す。

 ガンサイはポルディアの姿を見て、深く安堵する。


「ポルディア様……!やっと来てくれましたか!!」

「……これはこれは、また随分なお姿で」

「そうなんです!エルフ族(エルフィ)の女王と(うそぶ)く輩とそこの奴隷どもにやられまして──」

「それで、奴隷商人はどちらに?」


 飄々としたポルディアの態度に、ガンサイの苛立ちが募る。


「そんなことより、まずはこの状況をどうにかできませんかねぇ?」

「……それもそうですね」


 ガンサイはニヤリと笑った。

 かなりギリギリではあったものの、最初にかけておいた保険がこんなところで役に立つとは考えてもいなかった。


(計画はだいぶ遅れてしまうだろうが……まあ仕方ねえ。まずはこの状況から抜け出さないことにはな──)


 ポルディアは向き直り、兵隊の団長へ指示を出す。


「では……国賊ガンサイの(やかた)を隈なく調べて証拠を限りなく集めてきなさい」

「はっ!」


 ガンサイの顔から笑みが消える。

 喉仏がごくりと上下し、首筋に汗が滲む。

 背後の兵士の甲冑(かっちゅう)の音が妙に近く聞こえ、肩がひとつ震えた。


「じょ……冗談だろ──」

「冗談でもなんでもない」


 口元がひくつき、視線が左右に泳ぐ。

 足元では、無意識に靴の先が小刻みに石畳を叩いている。


「例の計画はどうなる!?」

「例の……ああ、あなたが持ち込んだ計画のことですね」

「そうだ!!」

「あんなもの受けるわけがないでしょう」


 ガンサイの呼吸が浅くなり、肩が上下に揺れる。


「デ…デモンストレーションって──」

「ああ……それは最後の証拠集めのために仕掛けた罠だったのですが……」


 辺りを見渡す。


「予想外ではありましたが、おかげでそのようなことをする必要すらなくなったみたいですね」


 あまりの怒りに顔に血管が浮かび上がり、血が吹き出している。


「どういうことだ!!」

「あなた方の計画を聞いた後、真の狙いを探る為に私がスパイを潜り込ませました」

「スパイ……?」


 門番が前に出る。


「私がそのスパイですよ、ガンサイ様」

「き…貴様は──」

「彼のおかげであなたの本当の狙いと真の姿が見えてきました」

「そ…そんなはずはない!!こいつは五年以上前から一緒にいる門番だぞ!!」

「ええ、そのようですね」


 混乱するガンサイ。


「私はガンサイ様に仕える前より、別の組織にて活動しておりました。そしてその組織の中にてあなたとこの街がターゲットとなり、私が送り込まれたということです」

「何を……言っているんだ……組織ってなんだ!!」


 門番は兜を脱ぐ。


「はあ……まだわからないようですね」

「何!?」

「貴様にそれを知る権利などすでにない!」

「なっ──!!」


 口を開こうとするガンサイの顔に向けて剣を突きつける。


「口を閉じろ……下衆め」


 門番の激しい怒りと殺気に当てられ、押し黙る。

 ポルディアは門番の腕を下げ、前に出る。


「すでに国王軍へあなたの所業について通達済みです。間も無く捕えられる奴隷商ゴイルと一緒に国王の名の下に裁かれることになります」


 しゃがみ込み、ガンサイと目線を合わせるポルディア。


「ましてや国の乗っ取りを企てたあなたの罪は重いでしょうね。終わることのない地獄の中で苦しんでくるといい」


 ガンサイはすでに意識が遠のいているようだった。

 その様子に、にっこりと笑い立ち上がるポルディア。


「では、国王軍へ引き渡すにしても、彼らが来るまでまだ時間がある。それまでこの国賊には地下牢とやらにいてもらいましょう」

「はっ!」


 兵士の一人がガンサイを地下牢へ連れて行く。


「……ではポルディア様、この後のことについて約束通りに進めさせていただいても?」

「もちろんです。まずは町中の奴隷をここに集めさせましょう」

「ありがとうございます。万が一領民に死者が出たとしても──」

「彼らも私にとって領民の一員です。その結果については私が最後まで責任を負いましょう」


 領主は兵士に命令を下す。

 そしてエクリオンの前に膝をつき、最大限の礼を尽くす領主と門番。


「エクリオン陛下。この街を治めますポルディア・エド・ログリアと申します。此度(こたび)の件について多大なご迷惑をおかけしたこと誠に──」

「良い。それより私から彼らに声をかけてもよいか?」

「有難きことにございます」


 エクリオンはその言葉を受け、瓦礫(がれき)の上をゆっくりと歩く。

 彼らは目の前で何が起きているのかを理解できずにいる。


「君たちはガンサイから解放された」


 エクリオンが声をかけるが、反応はない。

 確かにあれほど恐れていた暴力の象徴は消えた。

 けれど、その場を包む空気には、わずかの安堵すらなかった。


「しかしガンサイの言った通り、君たちを縛る世界はまだ多く存在する」


 エクリオンの言葉に奴隷たちに影がさす。


「君たちは今後どう生きていく?」


 その問いは、重く、深く、誰の胸にも突き刺さった。

 答える者はいない。

 沈黙だけが、冷たい夜気とともに広がっていく。


 ──その沈黙を破ったのは、震える声だった。


「……なんでだよ」


 カスが顔を上げる。

 赤く腫れた目がエクリオンを射抜く。


「なんで……僕たちばかり、こんな目に遭わなきゃなんないんだよ……!」


 声が震え、喉が詰まる。


「僕らが……何をしたっていうんだよ……!」


 言葉は刃のように場を裂き、あちこちで嗚咽が漏れる。


「存在すら……許されないなんて……なんのために生きてるんだよ……!」


 泣き崩れる者、拳を握り締めて歯を食いしばる者──

 その叫びは、皆の胸を深くえぐった。


 エクリオンは一拍、目を閉じる。


「──“奴隷”、か」


 その低い声が群衆の耳を打つ。

 ざわめきが広がり、数人が思わず顔を上げた。


「たしかに……貴様らは、まだ“奴隷”のままかもしれん」


 どよめきが起こる。


「な…何を……!」

「ふざけんな!やっと自由になったのに──!」

「ふざけてなどいない」


 冷たく、しかし静かな声。

 群衆の反発を、音もなく呑み込む響きだった。


「“奴隷”とは──契約や立場だけではない。

 もはや“人種”と同義の烙印(らくいん)だ。

 認めたくはないが……それが、この世界の現実」


 数人が喉を鳴らす。

 息が詰まる音が、静寂の中にぽつぽつと落ちる。


 エクリオンは群衆を見渡し、問う。


「──では、“奴隷”とは何だ?」


 沈黙。

 誰も、答えられない。


「“奴隷”とは……虐げられることに慣れ、

 考えることをやめ、

 恐れに支配され、

 他人の正義に──己の魂を明け渡した者のことだ」


 胸の奥に、鈍い衝撃が走る。


「ガンサイの言葉に怯え、沈黙したお前たちこそ──まさに“奴隷”だった」


 足元を睨む者。唇を噛む者。

 吐く息が白く、夜に溶けていく。


「怖くて……声が出なかったんだ……!」


 一人の声が割れた。

 しかしエクリオンは首を横に振る。


「恐れることは、悪ではない。

 恐れて、いい。

 ──恐れて、なお、立てばいい」


 その瞬間、群衆の中にかすかな灯が揺れた。


 徐々に、町中の奴隷たちが広場へと集まり始めた。

 足取りは重く、顔にはまだ恐怖の影が残っている。


 その間、門番は一歩も動かず、ひたすら魔素(マナ)を集束していた。

 掌に渦巻く光は脈動を強め、空気がわずかに震えている。

 耳の奥で低い耳鳴りが鳴り、地面から熱が滲み出すようだ。


(今のうちに……だが、まだだ──!)


 奥歯を噛み締め、額に汗がにじむ。

 光は風を巻き込み、周囲の砂埃が小さな竜巻のように踊り始めていた。


 エクリオンはカスの前に立ち、手を差し出す。

 躊躇(ためら)いがちに、それでも震える手が握り返された。


「自由が欲しいなら、現実から目を逸らすな!!」


 その言葉が大地を揺らす。

 振動が足元から腹の奥まで響き、群衆の視線が一斉にエクリオンへ向いた。


「思考を止めるな!痛みを知れ!傷を知れ!

 世界が“奴隷”という檻を作ったなら──

 その檻を、打ち砕け!!!!」


 空気が一段と張り詰める。

 門番の背後で、光の紋がさらに幾重にも重なり輝きを増す。


(耐えろ……まだ今じゃない……!)


 エクリオンの声が再び響く。


「なぜだかわかるか!?」


 誰も答えない。

 その沈黙が、一拍、重く落ちた。


「勝者だけが──新たな歴史を描くからだ!!!!」


 その瞬間、群衆の胸に火がついた。

 カスが立ち上がり、拳を握る音がはっきりと響く。

 それに続き、また一人、また一人と立ち上がる。

 歯を食いしばる音、呼吸の荒ぶ音が重なっていく。


(まだ……まだだ……!!)


 門番の掌の光が爆ぜ、地脈の光が足元から走る。

 術式の輪が三重、四重と重なり、周囲の空気を震わせた。


 エクリオンは両腕を広げ、群衆を包み込むように叫ぶ。


「心が折れた者よ!

 名を奪われた者よ!

 この世界に、生を許されなかった者たちよ──!」


 門番の背後で、光が脈打つたびに空気が押し返してくる。


「お前たちは、痛みを知る者だ!!

 この世界に風穴を開ける──解放の魂だ!!!」


 ノミが叫ぶ。クズが嗚咽する。アホが──バカが拳を突き上げた。

 それは次第に波のように広がり、広場全体を飲み込んでいく。


(もう少し……!あと少しだけ……!!)


 魔素(マナ)の渦が地脈を震わせ、門番の足元に光の紋が幾重にも展開する。


 エクリオンは天を仰ぎ、最期の宣言を叩きつけた。


「ここに誓え!

 奴隷ではなく、人として生きることを!!」


 全員の拳が天を突き上げる。

 息が揃い、地面が共鳴した。


「私はここに宣言する!!

 お前たちの解放を!!!

 お前たちの夜明けを!!!

 お前たちの──魂の勝利を!!!!」


 その声が夜空を突き抜けた瞬間、門番が低く叫ぶ。


(今しかない──!!)


「ここに集う全ての奴隷を解放せよ!

 〈広範囲奴隷解放〉アンチ・スレイブ・エリア!!」


 術式陣が爆ぜ、光が奔流となって奴隷たちを包み込む。

 次の瞬間、まだ枷が外れていない奴隷達から奴隷紋が消し飛んだ。


「印を掲げろ!!炎を広げろ!!お前たちは偉大なる戦士だ──!!!」


 エクリオンの声は魔法のように街全体へ響き渡った。

 そして──


「「「うぉおおおおおおおおおおおお!!!!!」」」


 奴隷たちの咆哮は、夜を裂き、

 ここに消えることのない──神をも焼き尽くす業火の炎が誕生した。

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