Episode.26 十五年
異世界パート
【日付】ミルス暦385年7月11日
陸斗は、受け止めきれずにいた。
ここが並列世界であることも──そして、自分がバケモノへと変じてしまったことも。
爆発の余韻が残る視界に、まるでゲーム画面のような文字列が浮かび上がっている。
名前。体力。数値化された情報。
それは嫌でも、自分が人間ではないと突きつけてくる現実だった。
恐怖を振り払おうと、陸斗は何度も、何度も目を擦った。
皆の安否が気がかりだった。
だが、屈強な冒険者──“ガンサイ”の背に、ついていくほか道はない。
五階建ての教会のような建物に連れ込まれ、陸斗は中央の紋様に座らされ、濁った液体を渡された。
喉を流れ落ちるその味に、不安は募る。
だが「これがこの世界のしきたりなのだ」と思い込み、飲み干した瞬間──意識が闇に沈んだ。
目を開けると、あの忌まわしいゲーム画面は消えていた。胸の奥に、かすかな安堵が灯る。
(……人間に戻った、のか?)
身体は重く、力が抜けている。皮膚には、まだ異形の痕が残っていた。
「あの……人を探していて──」
言葉は通じなかった。
中には、陸斗が口を開いただけで恐怖を露わにする者もいる。
そのとき──ガンサイの拳が、何の前触れもなく陸斗の頬を打った。
「いっ……てぇ!な…何すんだよ!?」
立ち上がろうとしても、力は入らず、次の瞬間には馬乗りになられ、拳が何度も降る。
やめろ、と叫んでも、声は届かなかった。
世界は暗転し、痛みだけが意識の底に残った。
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【日付】7月12日
目を覚ますと、そこは物置小屋のような場所だった。
服は、制服のはずがいつの間にか擦り切れたボロ布へと変わっている。
「なんだよ……これ!?」
声を荒げると、サルのような顔をした小柄な男と、ガンサイが立っていた。
立ち上がろうとするが、ガンサイの姿に言いようのない恐怖が湧き、全身が震える。
二人はその様子を見て、満足げに笑った。
扉が乱暴に閉ざされ、暗闇が戻る。
「なんなんだよ……!」
恐怖に押し潰されそうになりながらも、陸斗は心の中で繰り返した。
必ず全員を見つけ、この世界から逃げる。
──その希望だけは手放さなかった。
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【日付】7月20日
それからの一週間、陸斗はガンサイから家事を叩き込まれた。
少し間違えれば殴られ、言葉を理解できなければまた殴られた。
痛みにも、罵声にも、次第に慣れてしまう自分がいた。
やがて、断片的に言葉が聞き取れるようになった。
その中で知ってしまった──ガンサイは自分を「ゴミ」と呼んでいることを。
怒りは煮えたぎる。
だが、立ち向かう術はない。
涙だけが日々、無言で頬を伝った。
そして、もう一つ気づいた。
現世の記憶が、少しずつ薄れていっていることに。
殴打の衝撃か、それとも魔族──この世界でいうバケモノとなったせいか。
(……みんな、生きてる。今は……我慢だ)
過酷な日々の中でも、その想いだけは決して手放さなかった。
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この世界にも、日本と同じように四季があった。
ある日、蝉の声が消え──
ある日、紅葉が消え──
ある日、雪が溶け──
ある日、桜色の花が散った。
そうして一年が過ぎた。
蝉が再び鳴く頃には、陸斗は自分の名も、現世の記憶も、目的さえも忘れていた。
なぜここにいて、何のために生きているのかもわからない。
ただ、何かをしなければならないという使命感だけが残っていた。
────
【日付】ミルス暦386年7月10日
上機嫌のサル顔──“ゴイル”が、二人の少年少女を連れて歩いていた。
少女は赤い髪色で、少年は紫の髪色の魔族。
その瞬間が、クズとノーブラッドとの最初の出会いだった。
理由はわからない。
だが、クズと目が合った途端、二人の瞳から同時に涙が零れ落ちた。
胸の奥で、何かが軋んだ。
ゴミは、その感情の名を知らなかった。
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【日付】7月15日
ある日、クズは一冊の本を差し出した。
タイトルは──『神素が齎した影響』。
彼女は、その本を使いながら文字を教え、この世界の成り立ちを丁寧に語った。
書かれているのは、希望ではなく、救いなき絶望の未来。
それでも、ゴミはその本を好きになった。
ページをめくるたび、胸の奥に霞のような何かが蘇りかける。
──失われた記憶の断片。
それは、ほのかな温もりを伴っていた。
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二年が過ぎた頃、ビッチとノミが加わった。
翌年には、アホとバカが。
こうして奴隷たちは増え、ゴミが鎖に繋がれた日から──十五年が過ぎた。
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【日時】????
気がつけば、木目の天井を見つめていた。
おそらく、横になっていたのだろう。
ガバッ
勢いよく身を起こし、周囲を見渡す。
知らない部屋。雑然とした空間に、見覚えのない物たちが散らばっている。
けれど、どこか……懐かしさを感じる──
『これは……夢?』
『──────!!!』
誰かが、誰かを呼ぶ声がした。
返事をする間もなく、足音がこちらに迫る。
バンッ!
勢いよく扉が開く。
『──────!! 大丈夫!?』
『……え?』
現れた男の顔を見て、ゴミの心臓が跳ねた。
ぼんやりと霞がかかっていて、はっきりとは見えない。
けれど、なぜか胸の奥がざわついた。
『大丈夫かって!』
『え、ああ……うん』
『はぁ……よかった。
帰ってくるなり部屋にこもってどうしたかと思えば、いきなり──────の部屋から倒れる音が聞こえてさ……焦ったよ』
夢の中だからか、現実感が薄い。
ふわふわとした足元。
声も遠く、意味が掴みきれない。
『……え?ごめん、よく聞こえない』
『ともかく──────に何もなくてよかったよ』
そういえば、言葉も違うはずなのに……なぜか理解できている。
『──────?』
『あ…あぁ、ごめ。なんだか悪い夢を見てたみたいで』
『本当に大丈夫?』
『だ…大丈夫、大丈夫!』
ゴミは、心配そうに覗き込む彼を安心させようと、無理に笑みを作った。
(だい……じょうぶ……?)
──あなたは、生きてね──
『ク…クズ!!!!』
『は?』
『あ、いや……そのク……傷ついた女性、いなかった?』
『ん……?〜〜のこと?』
──まずい。理解できない。
『ところで……──────とか〜〜って、なに??』
『え……?』
相手の顔に戸惑いの色が浮かぶ。
『……ふざけてる?』
その声には、怒気が混じっていた。
『ふ…ふざけてないって!
……あれかな、倒れた時に記憶が……?』
『大丈夫じゃ……なさそうだね』
『大丈夫だって!』
『まあ……いいけど。
〜〜は君の大切な──』
『……え? ダメだ、うまく聞き取れ──』
『それから──────は、君の名前』
息が止まった。
聞き取れないわけじゃない。
はっきりと、聞こえた。
……だが、受け入れられなかった。
『いや、俺の名前は……ゴ、ミ……』
口にした瞬間、胸の奥がギュッと締めつけられる。
その名が、自分を縛っていることに、今さら気づいた。
なんで今まで……俺は……
『何言ってんの』
『え……いや』
『君の名前は────』
そうだ……そうだった。
──俺の名前は──────────
────────────
《──マ……スレ……が一部……》
頭に機械音のようなものが響き渡り、意識を覚醒させた。
どうやらガンサイに殴り倒され、数秒の間、意識を失っていたようだった。
ゆっくりと体を起こす。
「ん?」
ガンサイが振り返る。
(こいつ……まだ意識あんのか──)
ガンサイは小さく汗をかいた。
──────は両手を見やると、そこに刻まれていた魔族隷術の紋様が、狂ったように光を放っていた。
(今なら──!)
意識を集中させる。
バシュン──
爆ぜる音と共に、魔族隷術の紋様は光の粒となって消えた。
同時に彼の目は赤く燃えるように塗り変わり、髪色は銀髪へと変貌した。
そして目を通してあらゆる情報が洪水のように流れ込む。
少し目眩を感じ、目を閉じる。
「な…なんだと!!!!」
ガンサイの怒声が空気を裂く。
「てめぇごときゴミが、こんなことできるわけねぇ!」
「……ゴミ?」
空気が張り詰め、静寂が辺りを包む。
「俺は……俺の名前は、ゴミじゃねぇ」
一歩、踏み出す。
ガンサイが尻餅をついた。
「俺の……名前はな──」
胸元で震える手を握りしめる。
走馬灯のように十五年の光景が駆け抜けた。
拷問。虐待。辱め。奪われた尊厳。
噛みしめた奥歯が軋み、口の中に血の味が広がる。
それでも、逃げなかった。
目を開け、憎悪と悲哀を宿した瞳でガンサイを射抜く。
涙が頬を伝う。
全てを声に込める。
「──陸斗だあああああああ!!!!!」
咆哮が空気を裂き、空間が軋む。
十五年の沈黙を破る、確かな“始まり”だった。
誰もが息を呑む。
「ガンサイ……てめえにはもう……誰の尊厳も、奪わせねえ!
誰の名前も──奪わせねえ!!」
ドォン──
陸斗の全身から赤い光が迸り、大地を震わせた。
目に見えるほどの気圧が空気を押し返し、ガンサイの表情が恐怖に染まっていく。
その覚醒は、抗えぬ波となって場を支配した。




