六話『信用なんて』
俺は五分ほど、千夏に抱きつかれ、ようやく話してもらえたと思うと、今度はしっかりと俺の手を握ってきた。
「千夏、今日はやたらと甘えてくるが、風邪でも引いてるのか?」
その問いに、こちらを見てきた千夏の目に、一瞬ハイライトが入っていないように見えた。
すぐにいつもの笑顔を見せると、千夏は答えた。
「こうしておいたほうが、離れずに済むでしょ?」
可愛らしい笑顔の中に、何かドス黒いものが見えかけたが、俺はそれから目を背け、今日のプランを頭で思い浮かべていた。
そんなこんなでバスが到着し、水族館に着いた俺達は、チケットを使い中へと入った。
「そのチケット、どこで手に入れたの?」
「ずっと前から狙ってたんだよ。それで、運良くチケットを取れたから、お前と二人で来たかったんだ。」
そう言うと、千夏は嬉しそうに俺の腕を絡め取った。
「優咲大好き…!」
いきなりそんな事を言われ、俺は困惑と恥ずかしさでいっぱいになった。
それからは、二人で楽しい時間を過ごした。
大きなサメを見たり、イルカショーを見たり、水族館で出来ること見れることすべてを行った。
そして、そんな時間が過ぎ、俺達はクレープ屋でクレープを買い、食べ比べをしていた。
クレープを食べ終え、ようやく帰ろうということになった。
「今日は楽しかった〜。」
「それならよかった。俺も、お前とこれて良かった。」
そう伝えた時、千夏は足を止めた。
「千夏?」
俺は彼女に近づき、返事を待った。
「……優咲はさ、優しいから私といるんだよね?」
突然、彼女はそんな事を言い始めた。
「え?」
「だって、普通はさ、自分の人生を滅茶苦茶にした奴となんていたいわけないじゃんね。」
昨日の晩から、ずっと様子がおかしいと思っていたが、精神的に不安定になっているのだと、この時のようやく分かった。
「千夏、俺は本当にお前のことが…」
「……やめてよ、私に優しくするの…惨めになるからさ…」
「……千夏…」
彼女の顔は、いつもとは違って、とてもうつろな目をしていた、
なぜこんな事になったのか、俺には理解ができない。
だが、これだけは分かる。
「…分かった。お互い、しばらく距離をとろう」
俺は彼女にそう提案した。
彼女も頷くと、小さな声で謝った。
そして、彼女は俺の隣を通り過ぎ、一人バスに乗り込む。
俺はそのバスには乗らなかった。
バスは俺を置いて走り出し、突然の別れを認識した。
俺はベンチに腰を下ろすと、嘘がバレたのかと考えた。
「……もう嘘じゃないのになぁ」
俺は誰もいないバス停で、そうポツリとこぼすのだった。
ーーー7月8日、火曜日。
私は彼と距離を取り始めて、二日経った。
まだ二日しか経っていないというのに、私の心はすでに、崩壊寸前までていた。
「大丈夫?」
心配そうに、美鈴が話しかけてきた。
私は首を振り、机に突っ伏したまま動かない。
「…あいつと喧嘩でもしたのか?」
「……してない…。ただ、私がわがままを言っただけ…」
少し濁して彼女に伝えた。
納得はしていなかったが、そっとしておいてくれるようで、何も言わずに自分の席へ戻った。
何もかもがどうでもよくなっていたので、残りの時間すべて寝て過ごした。
気づけば全ての授業が終わっており、教室には私一人だけが残っていた。
「……何してんだろ」
ふと冷静になった私は、日曜日でのことを思い出した。
『私から取ってみろ』そう言ったのに、この有様だ。
彼のことを信じるなんて言っておきながら、信じて裏切られるのが怖いからという理由で、彼から距離をとってしまって。
「ほんと…。何してるんだ私…」
そうして、私は再び深い眠りに落ちたのだった。
ーーー同日。
俺は一人の女子と、再会してしまった。
「……川中…」
「……ゆう、さく…」
十分前。
俺は一人で帰路についていた。
塁や静に帰りを誘われたが、俺は千夏が一人になっていることを知っていたから、それを断った。
それで、商店街を一人で帰っていたのだが、数人の大柄の男どもが、路地に入っていくのが見えた。
最初はどうでもよかった。
そのまま見て見ぬふりをしようとした。
だがそれはできなかった。
男達が何かを囲うように、路地に立っていた事に目がいき。
そして、見つけてしまった。
「…川中?」
その問いに、服が乱れた彼女がこちらを見た。
男達もこちらに目を向けてきた。
彼女は傷だらけになっており、とても弱っていた。
涙を流しきったのか、目は充血しており、目頭も真っ赤に腫れていた。
そして、彼女は俺に弱々しく言った。
「…たすけて……、ゆう、さく…」
力を振り絞ってこちらに伸ばす手を見て、俺はいても経ってもいられなかった。
気づけば、男達へ突っ込んでいて。そして、彼女の手を取り駆け出していた。
後ろからは、先ほどの男達が叫んでいた。
路地をなんとか飛び出した俺は、傷だらけの彼女を抱きかかえると、全力で逃げた。
男達は路地を出てから、こちらを見失ったのか追いかけてこなかった。
商店街を抜け、そこよりも遠い公園へ向かった。
何度か黒服の男を見かけたが、なんとかバレずにやり過ごした。
公園へついた俺は、ミハルを連れて、トイレに駆け込んだ。
個室に入り、鍵を閉めて、ようやく一息つくことが出来た。
「……悪いな、こんな汚いところに隠れてしまって。」
「……」
彼女は乱れた服を両手で押さえながら、ビクビクと震えていた。
俺は彼女を落ち着かせようと、自身が来ていたブレザーを、そっと彼女にかけてやった。
便器の蓋の上に、俺は鞄を置き、彼女に座るよう促した。
彼女は大人しく従い、座った。
それで落ち着いたのか、彼女は再び涙をこぼし始めた。
「……あり、あ、ありが、とお……」
なんとか振り絞ってでしたその言葉は、俺にとって新鮮だった。
「……ミハルに感謝されたのって、今日が初めてかもな。」
「……ごめ…んなさい…」
「…悪い、そういうつもりで言ったんじゃない。」
「…ご、こめ…」
また謝ろうとした口に、俺は人差し指をかざす。
「謝らないでくれ。…なんか気分が良くないからさ。」
そう言うと、彼女は頷いた。
「……ありがと…」
少し笑って、感謝を述べた。
その時だった。男どもの怒号が聞こえてきた。
それに反応した彼女は、再び震え始め、恐怖で顔が歪んでいた。
トイレまでやってきたその男達は、個室を一つ一つ開け始めた。
「どこに嫌がる!?」
「出てきなさいやー、もうメンドーなんだわ」
野太い声で個室の扉を蹴破る男と、白い服に身を包んだ華奢な男がめんどくさそうに話しかけてくる。
一つまた一つと、個室が破られていく中。
一番奥にある、俺達の個室までやって来た。
「……こん中にいるんでしょう?」
そう言うと、爪で扉をゆっくりとひっかく。
嫌な音が耳を通り、全身に駆け回る。
ゾワゾワとするその感覚に耐えながら、俺は川中の耳を必死に押さえるように、抱きしめた。
「…ヒーローぶらないでさ、あきらめなー、どうせここでやり過ごしても別のところで見つかるんだからさー」
嫌な音が止んだと思うと、扉が力強く殴られた。
「いい加減にしたしなよ…。これ以上仕事増やすんじゃないよ」
冷めきったその声に、ミハルは身震いする。
俺を抱きしめる力が強くなり、震えが直に伝わってくる。
「チッ……、メンドーだなー。…やっちゃって」
そう言うと、男は離れ、先ほどまで蹴り壊していた男が立った音がした。
俺はミハルを一度離し、一か八かに賭けた。
そして、その男が蹴りを入れようと片足になったのを感じとった俺は、すかさずその扉を蹴り開けた。
驚いた男はバランスが取れず、その場で倒れ込んだ。
それを見た俺は、その男を殴打した。
全力でひたすら殴り続けた。
やがて、その男は動かなくなり、白い服の男に目を向けた。
「わーお…。君なかなかやっちゃうねー」
飄々としたその態度に腹が立った俺は、そいつに近づこうとした。
しかし、それをミハルに止められる。
「ミハルちゃーん。…君はほんとに迷惑ばかりかけるよね。」
男は一歩こちらに近づいた。
ミハルは俺の腕から離れようとしない。
徐々に近づいてくる男に、俺はミハルの手を振りほどき、殴りかかった。
しかしその拳は軽くいなされてしまう。
そして、気づけばトイレから投げ出されていた。
「カハッ!?」
何が起きたのか分からず、その場で血を吐く。
ミハルが俺に駆け寄ってきて、白い服の男も近づいてきた。
俺は痛む体に鞭打って、男と向き合う。
「君さぁ、何も知らないでミハルちゃんを守ってるわけ?」
そう言われ、少したじろいだ。
「…知らないよ、でも、助けを求めたから。」
ふ~んと興味なさそうに相槌を返すと、男はそれを言った。
「ミハルちゃんはね、親に売られたんだよ。」
「………っ!」
一瞬思考が追いつかなかった。
ミハルが、親に売られた?
ミハルは一生懸命親の期待に応えてきたというのに、そんな彼女を売ったのか?
俺は怒りで体が震え、そしてその男に飛びかかっていた。
「…ミハルちゃんはね、これから遠い所に行かなきゃいけないんだよ。…だからね、早く捕らえなくちゃいけないんだー」
攻撃を避けながら、そんな事を言う。
「そんな事許されるわけ無いだろ!」
「ミハルちゃんの親はそれを許した。」
その瞬間、俺はまたその場に倒されていた。
起き上がろうとした時、上に男が乗りかかってきた。
「やめときなー。こんな事しちゃったら、ミハルの親の会社本当につぶれちゃうよぉ」
「…潰れる?」
それに反応したのは、ミハルだった。
「そそ、だからね、ミハルちゃんを売って金に換えて、その金で立て直そうとしてんのよ。」
その言葉に、ミハルは崩れ落ちた。
そして何かを悟ったように、花壇に目をやった。
「…ミハル!ミハルやめろ!」
「ミハルちゃん?」
ミハルはその花壇の方へと歩き出すと、その場で膝をつき、レンガを取り外した。
そして、手に取ったレンガを、ミハルは何の躊躇いもなく、自身のこめかみをめがけ、振りかざすのだった。
川中ミハル
川中商事の令嬢。
その価値は高く、多くの富豪から迫られている。
彼女はその事を知らない。
親はもしもの時のために、教育を欠かさず行い価値を上げた。
愛情など無く、彼女はただの道具であった。