外山滋比古・知的な聴き方ーAI時代の耳の力を巡る問題
文章を書くときには、ある一つのことにこだわっている。それは、想像上の声で書く、というものだ。あなたは文章を書くとき、どうやって書いているだろうか。原稿用紙に書くのは稀だろうが、ノートに手書きで書いたり、スマホやパソコンで何かを打って書くだろう。そのときに、言葉の音を、意識しているだろうか。実を言えば、自分にとって、それ以外の方法で書くことを想像できなかった。読み書きをするときには、音を想像しながらするのが当たり前だと思っていたから、特に書く時には、想像の聴覚の力を発揮していた。今この文章を書いている間もすべて、想像上の声で書いている。いま自分は公共の場にいるため、声を出すことはできないものの、想像上の声を発しながら書いている。喋ることを想像力でやっているようなものだ。これが自分にとっての当たり前だ。しかし、どうもそれは、違う。当たり前ではない。この本を読んでいると、そのことに気づかされる。実は現代人は、耳の力で読み書きをするのが、ものすごく苦手である。
この本では最初に、話を聞けない子供の話に始まり、明治時代に西洋の文化が輸入されてから日本人が主に目の力に依存するようになったことが述べられる。この点は、谷崎潤一郎が文章読本において述べている点と合致する。そして、現代はコンピューターが台頭しているからこそ、余計に人間は耳の力を養うべきだと述べられる。いかにももっともな話だ。自分は読み書きをするにあたって、とにかく言葉の音を耳の力で処理することを尊重しているため、この本の内容は非常に説得力がある。しかし、外山滋比古氏と自分との違いは、学者が目で読み書きをして生きている、という視点に立って、耳の力を発揮することの重要性を述べている。そしてそれはそのまま、AI時代の人間の価値につながってくる。この本の中に、AIのことはほとんど書かれていない。しかし、AIというものが、この本の中で述べられているところの、コンピューターの延長にあることはすぐに察しがつく。この本を読む限り、AIはやはり、目で処理している。実際に目で見て情報を処理しているわけではないのだが、情報の処理の仕方がそもそも、目で生きている人間のやり方だ。そのことを考えたら、この時代において、いかに耳で言葉に触れるかが重要であるかに気づかされるだろう。
しかし、現代人は目で生きているようだ。あなたは日々、活字をどのようにして読んでいるだろうか。想像上の聴覚を働かせて、音読をするようにして読んでいるだろうか。この本を読むことによって、例えば読書においては、音読を基調にして、想像上の声で音読をするようにして黙読することが重要であると気づくだろう。この本は、AI時代における人間の生き方について考えるにあたって重要なことがたくさん書かれているように思えるため、もし今あなたが、耳の力を働かせることに自信がないと思っているのであれば、ぜひともこの本を読んで、耳の力を鍛えていただきたいと思う。