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アンティーク  作者: 橘隆之
第三部
95/161

[094] 15/我が世の春と秋のソナチネ/AVANT-DERNIER MOVEMENT (展開部) -(2)

 香水屋であるところの客が、店に戻ってくると、給仕が、絡まれていた女性客の傍――足下に膝をついて姿勢を低くし、声を掛けていた。

「不愉快なお目を見せてしまって、申し訳ございません」

 真摯な声で謝っている。女性客は、その声が胸に迫ったのか、ぷるぷると首を振って、

「あなたが謝ることではないわ」

 と涙目で何とか、給仕を安心させるための笑顔を作ろうとしていた。

「いかがなさいますか、このまま、お帰りになるようでしたら、お車を準備致しますが」

「ええ……そうして頂ける? どうもありがとう」

 では、少々お待ち下さい、と女性客に給仕は云い、次には、相席を受け入れて女性客を落ち着かせてくれた常連客へ、「ありがとうございました」と頭を下げた。

 給仕はカウンタに戻り、主人に、「車を準備します」と一声掛けて、「電話」に近寄った。主人は、こくり、と頷いた後で、カウンタの一番端っこにある、小さなチップが詰まった棚へ近寄った。

 給仕が、車を呼ぶための応答をしている間、ちらっと主人を見る。主人は、チップを一枚取り、カウンタを出てテーブル席の客へ、

「お騒がせして申し訳ございません。こちらは、当店からのサービスでございます。どうぞ、御機嫌をお直しくださり、ごゆっくりおくつろぎください」

 と云って、ピアニストに近寄った。

 ほんの少しの間があって、ピアニストがピアノを弾き始めた。

 給仕は、女性客に近寄り、「間もなく、到着致します」と告げた。

 女性客は、こくん、と頷いて、――給仕から目を逸らし、ピアノを見た。

 ご主人の気配りは、不愉快な目を見た女性客の機嫌も、店を去る前に少し直してくれたようだ、と思った。女性客は、決して無理をしている訳ではなく、口元を綻ばせていた。

 ……給仕は――酒場の開店中に、給仕以上のことを出来ないから、車が着くまでの間、自分がするべきことを、やっていた。すなわち、先に注文された別のテーブル席へ、出来上がった料理を運び、別の注文を受ける、等。


 ちょうど、ピアノの音が止んで、客がぱらぱらと拍手をしていた時に、ノア・カテのお客様用に呼んだ車が着いたということを表すランプが点った。……この時間差を考えて主人が選曲をしたのだとしたら、凄いな、と給仕は感心しつつ、女性客のもとへ向かった。

「車が到着しましたので、ご案内致します」

「ええ、ありがとう」

 女性客が席を立ち、給仕に促されて入口に向かう。

 と、主人が、香水屋であるところの客へ、

「すいませんが、一緒に上までついてあげてくれませんか」

 と云った。

 客はすぐに「ええ」と大きく頷いて席を立ったが、給仕が、「え」と戸惑った表情を浮かべた。

 主人が、カウンタの端っこでそっと給仕に耳打ちする。

「……先ほどの迷惑客が、もし周囲に潜んでいたら困るでしょう」

「あ、そうですね」

 女性客の耳には入らないようにこそこそと素早く会話して、主人が、「じゃあ、宜しく頼みますよ、マルセ・ヨース君」と云う。

 はい、と頷いて、「どうぞ」と給仕は女性客のために扉を開け、階段を上っていった。「さっきの迷惑な客が周囲にまだ居るかもしれない」と思えば、後ろから、体格のいい客がついてきてくれていることが、何となく安心できた。


 女性客を無事に「車」に乗せて、その姿が見えなくなるまで見送り、給仕が、香水屋へ頭を下げる。

「すみません、メヌエットさんにもご迷惑をおかけしました、どうもありがとうございます」

「いえ、私は別に何も」

 深々と頭を下げられたので、香水屋の店長は、少々狼狽えた声を出して首を振る。

 階段を下りる時は、給仕は、客の方を先にして後ろをついて行く。

 客がちらりと振り返って「災難でしたね」と苦笑を見せた。

 給仕は、「いえ」と首を振る。

「……あのお客様の方が、余程に災難でした」

 真面目な声で給仕は云う。心から、申し訳ない、という声だ。

 従業員の自分が申し訳ないと思うのはいいことだが、――悪いのは、あの酔客の方なんだから、少しは不愉快そうな素振りを見せてもいいのに、真面目な人だな、と客は苦笑した。

 客を、改めてカウンタ席に案内し、給仕はカウンタの中に入った。

 主人に、「*番様のお料理は…」と小さな声で尋ねると、主人がこっくり頷いて「私が運びました」と云った。恐れ入ります、と給仕は返し、……手元のモニタを見ると、新しい注文は無いようだから、またグラスを磨いた。

「災難でしたね」

 ……主人が、そんな給仕に耳打ちする。

 給仕は、先ほど客に云われたままを返した。「あのお客様の方が余程に災難でした」と。

 まだ少し残っていたノア・カテを飲み干した客が苦笑する。雇い主に云われても、そういう返答をするのか、と。――きっと、雇い主だろうが誰だろうが、他人がどう云っても、自分の「給仕としての矜持」が、そう云わせるのだろう、と思うと、客は感心し、好ましい態度だと思った。

「ご主人、マルセ・ヨースさんに、身を守る術は教えているんですか、主人として?」

 くすくす笑いながら客が云い、主人は肩を竦めて、「そういえば教えてなかった」と云った。

 給仕の方は、「そんなこと、雇用者義務ではないんじゃなかろうか」と思って、不思議そうな顔をした。

「今まで、あそこまで厄介なことは起きなかったものね。……マルセ・ヨース君、君が望むなら、ああいう場面で正当防衛の範囲になる程度の護身術を、教えてあげますよ」

「……」

 給仕が戸惑った顔をしていると、カウンタ席の客が、主人に「もう一杯、ノア・カテを」と云った後、頷きながら給仕を見た。

「マルセ・ヨースさん、もしかして、ご存知じゃありませんね。……こう見えて、このご主人、私でも敵わないくらいに、強いですよ」

「メヌエットさんには敵いませんよ、流石に」

「そんな、ご謙遜を」

 給仕が驚いた顔をして、主人の顔を見た。……とてもそうは見えない。

 ――でも、()()()()()、……自分が雇われるまでは一人で、この酒場を切り盛りしていた主人だ、そう思えば、何となく納得出来た。

 考えておきます、と給仕は真面目に答え、またグラスを磨く。

 主人と客は、ちょっとした雑談のつもりで云ったので、真面目な給仕の返答に、顔を見合わせて苦笑しあった。

 ふと、客がこんなことを云った。

「……次の私の大家は、マルセ・ヨースさんになるんでしょうかね」

 給仕は、表情には出さずに大層驚く。

 主人も、目をぱちくりさせた。似たようなことを云う酒場の客は居るが、「ブラン・カテのオーナー」にまで言及したのは、この香水屋が最初だ。

「あり得ませんよ」

「おや、あり得ないんですか」

「何故そんなことを?」

「いやぁ、あんまりノア・カテの給仕としてしっかりしておられるから、サラスさん――おっと、セイレイシィさんが、次の主人にと考えているんじゃないかとは、想像しても仕方ないでしょう」

「……私はそれを全く考えていないんですが、想像するだけなら仕方ないですね」

 主人が息を吐いてそう云い、客が続ける。

「となれば、自然、ブラン・カテの行く末も気になりますよ。もし、ノア・カテは続くが、ブラン・カテは空きビルになるとなれば、私は追い出されてしまう」

 客が大げさに嘆く顔を作って云う。

 主人は、「そういうことか」と苦笑した。

「私は、ノア・カテもブラン・カテも、次世代をまだ決めていません。まだ、と云っても、いつか決めると云っているのでもありません。――すいませんが、どちらの行く末も、まだ闇の中です。……しかし、私に何かあったらすぐにブラン・カテの入居者が追い出されるなんてことはありません、いくら何でも、そんな無責任なことしませんよ、それはご安心なさい、アドリアーノさん」

「ああ、だったらいいんですが」

 客が、「ほっ」と大げさに、胸をなで下ろした。

 ――給仕の方は、まだ少し戸惑っている。ノア・カテの行く末を決めることは、ブラン・カテに住んでいる・あるいは働いている人の行く末にも関わることなのだ、と考えさせられて。

 そんな給仕の心情を、察知したのかどうか、主人がそっと耳打ちした。

「君が何も気にすることは無いですよ」

「……」

「君が生きている間にやらなくてはならないことは、私がやらなくてはならないことと、一致してないだけです。それが、個人個人の人生ってもんです」

 軽く、給仕の背中を叩いて主人が云う。

「私は、全くそんなこと考えてませんから」

「はい……」

 小さい声だが、主人がきっぱりと云い、それに安心して給仕が頷く。


 閉店後、給仕がテーブルを拭き、主人が食器を洗っていると、主人が給仕に声を掛けた。

「アドリアーノさんの名前に、君は驚いたでしょう」

 微かに笑いながら。

 給仕も微苦笑を浮かべて、「ええ」と頷いた。

「でも、メヌエットさんご本人は、自分の名前に意味があることをご存知でないみたいですね」

「ああ、そうですね。あの人、そこまで音楽に興味が無いみたいです」

 少なくとも、好きなジャンルが私や君とはずれているみたい、と主人が云った。

「だから、()()()()マルセ・ヨースがデビューしても、アドリアーノさんは『おや』とは思わないかもしれません」

 主人がくすっと笑った。

 給仕は、それには特に何も返さずに――はぐらかすように――テーブルを拭きながら続けた。

「でも、ご主人とメヌエットさんのやりとりの方が妙でしたよ」

「何が?」

「アンヌさんとか、サラスさんとか」

「ああ……」

 主人が、「ああそうか」という顔をして頷く。

「それはね、アドリアーノさんのところと、私の家は、私が生まれるずいぶん前から知り合いで」

「はあ」

「アドリアーノさんのところは、途中で商売替えはしましたけど、随分昔からお店をやっていて、その創業者が、アデリアンヌさんという人だったんです」

「……はぁ」

「で、私の家は、アデリアンヌさんがお店を始めた頃は、『セイレイシィ』じゃなくて、『サラス』という発音をしていたらしい。アドリアーノさんは、その創業者の方の名前を貰っているそうだから、以前からあんなことを云ってるんです。アドリアーノさんがまだ小さな時には、まだ祖父も生きていまして、アンヌと呼ばれては『くそじじいめ、女の名前で呼ぶなよ』と怒ってましたよ。あのくらいの応答で済ませられるようになったなんて、大きくなったものだ」

 大きくなったって、と給仕が苦笑する。――大人か子供かという意味で云っても、もうそんな表現は似つかわしくないから可笑しくて……体格で云えば、まさにその通りだ。

「――要するに、あんな言葉のやりとりで、『どうもお久しぶり、今後とも宜しく』なんて云ってるようなものなんです」

 懐かしそうな声色になって云う主人に、給仕が「そうですか」と和やかに笑う。

 テーブルを拭くクロスをカウンタに戻し、給仕はモップを取りに行った。

 主人は、そのクロスを洗いながら、給仕へ、

「昨日はよく眠れたみたいですね」

 と云った。

 自分ではよく分からないのですが、とモップを掛けながら給仕が首を傾げて云うと、主人は軽く首を振って続ける。

「昨日より、ちょっと顔色がいいみたいです。やっぱりね、私もそれには気付いてなかったけど、少し疲れてはいるんだと思いますよ。――ちゃんと休養は取りなさいね」

 主人は、クロスを洗って、しかるべき場所に収めてそう云い、自分の仕事は終わったから給仕へ

「ではお疲れ様。……休養を取りなさいと云った後で、先に帰るのは心苦しいけれど、お休み」

 苦笑して云って、従業員が使うエレベータの方へ向かった。

 給仕も笑って「お休みなさい」と返し、自分に残されたモップ掛けを早々に終わらせる。

 ――それを終えて、……ロボットの皮膚を拭いてしまえば、今日の仕事は終わるのだけど、主人に「ゆっくり休め」と云われたにもかかわらず、この従業員にはまだ、仕事が残っている。

 ヴ……ゥンッ。

 ちょうど、右手の平を拭いて、表に出ている場所は全部拭いてしまってから、小さな、音が聞こえた。

 音楽家が、「おはようございます」と云って、慌てて、控え室に「楽譜」を取りに行った。


(再現部) へ続く

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