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アンティーク  作者: 橘隆之
第一部
9/161

[009] 3/他人のために奏でるということ、他人に捧げるものを作ること そして、他人を欲しがるということ -(1)


 夢か幻を見たのかと思い、そしてそれを尊重した結果、閉店後の業務を無給とすることを覚悟した学生は、大学で天上に捧げられた音楽を聴いた後、いつもより早めに仕事場へ向かった。

 最早、主人と共に店に向かって仕事を教えてもらう必要などは無くなっていたので、本来なら「ノア・カテ」店内に直接向かうのだが、その日は、久しぶりに事務所に顔を出した。

 主人は、「おや、どうしました」と驚いた顔をしていた。

 「早いね、まあ座りなさい」と応接用の椅子を勧める主人に、いいえ、と断り、「すみません、昨夜は、帰宅時刻の記録を忘れました」と云った。

 主人は、「おやおや」と顔を顰めたあとで苦笑し、「しょうがないねえ」と溜息混じりに云った。

 正直に、先に告げたことが良かったらしい。

 主人が、「しょうがないね。まあ、私が訊ねるまでしらばっくれているよりは良い。今回だけですよ」と苦笑を浮かべたまま云った。

 学生は、え、と首を傾げる。

「今回だけだよ。前の日の帰宅時刻を目安にしましょう」

 そう、有難いことを云ってくれた。

「時々居たんですよ、そういう子は。月末に〆るでしょう、その時に、『え、そうでしたか』なんて云ってねえ…。困るんだよねえ、そういうの。こっちにも経理上の都合があるのだから。バカだね、私も鬼じゃないんだから、君みたいに先に云っておけば、しょうがないねえ、って云ってあげてたのに」

 くす、と主人は笑って学生に云い、「君は本当にまっ平らで有難い。先に云っておいてもらえると、こちらも後々の作業が楽だ」と頷いた。

「済みませんでした」

「いいえ。でも、次から気をつけてね。今度は、ちゃんと云って貰っても、只働きということにしますよ」

 主人は、笑顔と共に軽い口調で釘を刺し、そうだ、と何か思い出したような声を出した。

「丁度良い、まだ開店までには随分時間があるから、先に話しておこうかな。まあ、やっぱり座りなさい」

 と主人は応接椅子を勧めた。

 何だろう、と学生は首を傾げて、「はあ」と素直に座った。

 デスクに向かっていた主人は、小型の端末を持って学生の向かいに移り、それをテーブルに、二人してモニタを見られる位置で据えた。

 ピ、と小さな音を立てて主人がキーを叩くと、スケジュール画面を呼び出した。

 何だろう、と学生が見ていると、主人は手際よく目的の画面をモニタに映す。

「あのね、1ヶ月後なのだけどね」

「はい」

「この日なのだけど」

 主人はモニタを指差して云う。学生は画面を見て、「はあ」と頷く。

「早い出勤と残業を頼みたいんですよ。どうでしょうね」

「え、何か…」

「ええ」

 何かあるんですか、と問おうとした声を最後まで聞かずに、主人が頷く。

「結婚式の二次会」

「……」

 学生は、ピンとこなくて戸惑った顔をした。

 「結婚式」というのも、まだ若すぎる自分にはピンと来ないし、二次会、というのが分からない。

 それは多分、人が集まって飲み食いする、パーティのようなものも自分に縁遠いものだからだろう。

「ああ…、お式の直後のパーティだから、披露宴か。ははは、ウチのような酒場は、披露宴の後の二次会の方が多いから、そのつもりでいましたよ、いけないなあ」

 主人は一人で、苦笑して首を振りながら云って、学生はリアクションをしない。

「そうそう、だから、披露宴から二次会まで此処、というような感じになるようなので、忙しくなりそうなんですよ。…まあ…、此処でやると決めた以上? ゲスト全てに従業員が気を遣うようなサービスは期待して欲しくないから、君に突然、ホテルの給仕のような接客を学べとは云いませんが」

 クスクスと笑いながら主人が云う。

 当たり前だ、と学生は、躊躇いがちに頷いた。

「つまり、貸切ということですね」

「そういうことです。君が働き始めて最初の、貸切のお客さんです」

「……特別な接客を学べとは云わないと仰いましたが、今から覚えなくてはならないことはありますか? 普段から気を配っておいたほうがいいこととか…」

 困った顔をして問うと、主人は、目をパチクリさせてニッコリ笑った。

「ああ、君は熱心で助かるね。つまり、OKということですか」

「……あ」

 そうか、と学生も目をパチクリさせた。

「そういうことになりますね」

 そして、頷く。

 どうせ、卒業制作を残して、大学に向かうことが滅多に無い自分だ。大学に行かない自分が、現在常に抱えている予定とは、「ノア・カテ」に出勤することだ。断る理由もない。

 …自分が断ったら、主人が一人になるということで、それは大変だなあ、などということは、後で思いついた。

「うん、それは助かる。…ええ、そうですねえ。そんなに変わった仕事が増えるわけではないんだけど…。立食パーティになるだろうからね。常にフロアとお客様、テーブルの様子に気を配り、いつもよりも右往左往するようになりますね。しかし、決して目立ってはならない。…練習していた方がいいかもね。意識の面では、君はもう大丈夫だと思うんですが、行動がそれに伴ってくれるかどうかは、ねえ」

 ふふ、と主人が笑う。

 変わった仕事が増えるわけではない、というのはそうかもしれないが、…難しい仕事ではある、学生は思う。常に右往左往するのに、目立ってはならない、か。

「…気をつけておきます」

「他に何か質問は?」

 主人の言葉に、頭をひねり、「…あ」と呟く。

 主人が首を傾げたが、学生は、こくん、と言葉を呑み込んだ。

 ……貸切の、お客様…。


  そのパーティで、あのロボットはピアノを弾きますか。


 その質問が、頭を過ったが…、それは余りに、公私混同しているように思われ、飲み込んだ。

「何?」

 主人が今度は声に出しながら首を傾げたので、学生は「それで、何時に出勤すればいいですか」と、それも本当ではある質問を口にした。

 そんなことは、前日聞いたって大丈夫だったが…。

「うん、大丈夫かなあ。午後の5時には来て欲しい。…そうだ。出勤が早くなるのが当日だからそう云ったけど、残業はそれ以前にもして欲しいんだった」

 主人が、申し訳なさそうに学生の顔色を窺う。…別に学生は、そんなこと気にしなかった。

 残業が増えるということは、収入が増えるということだから、却って有難い。

 大丈夫です、と頷く。

 ほ、と主人が息をつき、だめだなあ、と呟いた。

「やっぱり歳なのかな。どうも物忘れが」

 そんな嘆きの声に、学生は胸中で苦笑する。

 …一体、何人、何十人…何十年何百年分の知識を持っていて、そんなことをこの人は云うんだろう、と思う。

「パーティが午後の7時からで、午後6時から受付になるからね。その受付は幹事さんがやるようだけど、君にもゲストへの応対をして欲しいから、準備が要るんです。控え室にお通しして、飲み物を出したり」

「はい」

「その準備があるので、受付の1時間前ということで。…早い分にはいくら早くてもいいです、ちゃんと時給計算も出勤してくれた時刻にあわせますから」

 …今度は、からかうような声で云った主人だった。学生は、ふ、とばつが悪そうに俯いた後、「はい」とやはり頷いた。

「残業は、後片付けになります。食器の片付けや掃除もいつもよりずっとかかるでしょう。大変ですけど、宜しくね」

「はい」

 こくん、と学生が頷き、主人も「うん」と頷く。

 端末に手を伸ばし、では、と電源を落とそうとしていた主人が、「…あ」と何か思い出したような声を出す。

 また、何か「物忘れが」だろうか?

「そうだ、…君」

 主人が学生の顔を覗き込む。

 はい?と学生は、少し戸惑った顔をして首を傾げた。

「それで、ピアノを弾くんですけどね」

「……」

 サラリと云われて、学生は「え?」と目を見開く。

 誰が。

 ……ロボットに決まっている。

「それが…?」

 学生が、一層戸惑った顔をした。

 主人は、笑っているのだが、思いつきで云っているのではない、それなりに真剣な声で続けた。

「ちょっと云いましたね。…君にね、ロボットへの『リクエスト』を伝える役目をしてもらおうかと思うんですけど」

「……」

 どく、と胸が痛くなった。

「何故ですか?」

 少し声が震える。

 見栄えがいい、とは云っていたが、その程度なら別に、あのロボットの扱いを全く知らない自分にさせることはないと思う。万が一、壊してしまったら…。

「見た目もそうなんだけどね? 昨日はたまたま、カウンタ席のお客様が私に直接リクエストをしたから良かったけれど、テーブル席のお客様がリクエストを出されることがあったとしてさ。君が私に伝える。君がカウンタの中で、昨日のようにグラスを拭く。私がカウンタを出て、『リクエストを伝える』…ちょっとねえ、決して君を卑しめてるつもりは無いんだけど、傍から見た時上下関係が妙な感じがしませんか」

 胸の上で手を組んで、主人が困った顔をして云った。

 学生が想像してみる。

 成る程、と思う。用を云い付けられて動くのは自分であるはずなのに、それが逆のような風景だ。

「それに、ひと手間かかっているということになるよね? 君がリクエストをお受けして、チップを取りに行き、『リクエストを伝える』方が、スムーズでエレガントだ。お客様のためには、その方がいいんです」

「はい…」

「ただ、ピアノのリクエストをお受けするのを、端末に入力するのは無粋ですから、リクエストをお受けして伝えるまでの間、どなたのご注文であるか、きっちり覚えておいて後で入力するのを忘れないようにする」

「……」

「今回のパーティの場合では、もともと予定として、2曲ほどのサービスがあるんですけどね。それ以外にゲストの方々からのリクエストも自由にお受けするプランになってるんですよ。だからね、特に、私が右往左往するのが見苦しいでしょ」

「そうですね…」

 学生が頷く。

 給仕である自分が、客の間を立ち回るのが当然だろう。

「あの、でも、大丈夫ですか」

 戸惑った顔をして主人に問うと、主人は「何が?」と首を傾げた。

「…ロボットの扱いです、出来るでしょうか?」

 よりによって、自分が、あの…今の世の中で唯一ピアノが弾ける「もの」を壊すようなことになったら、いたたまれない。

 主人はにっこり笑って、「余計な心配ですねえ」と手を振った。

「大丈夫ですよ。一般的な端末にFDを挿入するのと変わりやしません」

 だったら良かった、と学生は、ほう、と息を吐く。

「とはいえ、昨日のようにはいきませんけど。あのね、パーティの日には、あのロボットは最初から起動させておきます。そうなると、『アレ』は、普通の人間と、一見変わりありません。まばたきもするだろうし、少しくらいもじもじしたりもするでしょう。お客様の目には、実直なピアニスト…『従業員』のように見えなくもないんです。昨日のように、『ロボットであることは分かってはいるけれど敢えて気にしない』そんな雰囲気ではなくなるんだね」

「……はあ」

「だから特に、…お客様に、『人の首に何かを挿入する』なんて無粋な姿は見せないように、気をつけてもらわなくてはいけない」

 …学生が首を傾げた。

 ……普通の人間と変わらない…、それで、昨日のような訳にはいかない。

 さて、想像だけではとてもピンとはこないが、……やはり、覚えなくてはならない難しい仕事が、いくつか増えたということになるのだろう…。

 マルセ・ヨースは、ほう、とまた息を吐き、「はい、分かりました」と頷いた。その仕事はしたくありません、とか、出来ません、とかいうことを、云える立場ではないと、自分を思っている。

 それに自分でも、その仕事を、どんなに難しくても、したくないとは思わないだろうと、考えていた。

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