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アンティーク  作者: 橘隆之
第一部
8/161

[008] 2/地下に奏でられた天上の音楽、そしてアーモンド・チョコレートのワルツ -(3)

 ぴく、とマルセ・ヨースの肩が強張った。前かがみになっていた背筋が伸びる。

 …空耳?

 いや、…確かに、聞こえた。

 今日、聞いた音と、同じ…。


 背筋が寒くなった。

 恐る恐る、

 ピアノの方に目を向けた。

 今、立っている場所は、ピアノの真横よりも、少し、後ろより。

 ロボットの顔が、見える。

 目を、開けている。少し、伏目がちだけれど、…目の色が、灰色がかった蒼だと分かった。

 ピアノの、鍵盤が見える。白と、黒。

 何故。

 さっき、主人がデータチップを取り出すときには、蓋は、閉まっていた筈。

 そうだ、さっき聞こえた音は、カウンターの中で聞いた、ロボットが蓋をあげるときの。


 マルセ・ヨースは、瞬きも、息をするのも忘れたように、硬直していた。

 モップを握った手は、握り締めたまま、固まっている。

 …グラスを落とさないように、と云われたあの時は、手が震えた。

 …今は、もし、モップを倒して、余計な音を立てたりなど、絶対にしてはならないと、そんな無意識で。


 ロボットの腕が、肘から曲がるのが見えた。

 白と黒に、指が近づく。


 …ワルツ…


 そんなことを、頭の片隅で考えながら、マルセ・ヨースは、戦慄した。




Tu vas en avoir un peu.

ほら、すこし食べてみて。


伏目がちになった灰蒼の目が、メガネの向こうから鍵盤を眺め


Tu aimes le chocolat?

チョコレート好き?


指が、白と黒に触れて、大して上下することもなく


Laisse-le fondre dans la bouche

お口の中で溶かしてごらん。


どうして? 押しただけでは鳴らないはずのピアノの音なのに。


Maman, il y a un os.

ママ、骨が入ってるよ。


ピアノを弾くロボットの手と、


Non, mon petit: c'est une amande.

いいえ、ぼうや、それはアーモンドよ。


髭の奥の唇が、動いている。


聴いたことが無い。

楽しいのだか哀しいのだか分からない。

メジャー? マイナー?

そんな括りが通用しない曲が存在するのか?

奇妙な音の羅列。

奇妙なワルツ。

語り。

誰が作ったのか。



そして、

ロボットが発するとは思えない、低く、少し擦れた、男性の声。

ロボットの発する声じゃない。機械的なノイズも、濁りも無い。

無表情というだけなら、それはロボットの個性じゃない。


頭の中が、混乱して…真っ白になる。

こんなにも、聴覚は冴えているのに、

つまり、神経が動いているのに、

脳は動いてないのじゃないかと……

……





 音が止まった。

 そして、声も止まった。

 マルセ・ヨースは、それでも、微動だにせず、自分の息の音も聞こえず、胸の鼓動ばかりがうるさくて、もしやこの音があのロボットの邪魔になっては居なかったろうかなどと考えた。

 …ロボットの視線がこちらに向くことはない。

 果たして、あのロボットには、視覚があるのかどうかは分からないが。

 こちらに、「気付いている」だろうか。

 …「気付かれてはならない」と思っているから、そんなことが気になる。

 何故、何故、ロボットが今動く。

 主人の悪戯か?

 先程、やけに上機嫌に自分を褒めてくれていたから、ご褒美を驚かすのと同時に呉れたのか…?

 いや、でも。

 蓋を開く「カタン」という音の前に、

 …機械が起動する時特有の、「ヴ…」という音が聞こえた。

 主人は、もう居なかったのに。

 それに、主人は、「アヴェ・マリア」のチップを取り出したあと、新しく挿入したような素振りは無かった。


「チョコレート」

 マルセ・ヨースは、硬くなっていた体を、一層強張らせた。

 低い声。…独り言のような。

「の味を、私は、知らない。どんな味がするのだろう」

「……」

 質問されたのだろうか…。マルセ・ヨースは戸惑う。

 こちらに気付いているのか。

 …いや、そんなふうには見えない。

 鍵盤に触れたまま、俯いて考え事に沈んでいる、そんなふうに見える。

 誰かが聞いていることなど知らないままに、独り言を呟いている。



「肉の味がするのか?」



 マルセ・ヨースは、背筋が寒くなった。

 無表情な、冷たく聞こえる声。

 …天上の音楽を奏でた指、腕、肩の上に、首で支えられて乗っかっている顔。

 その唇から発せられた、肉の味、という言葉が、とても、何故か、怖かった。


「何故、そう思います」

 マルセ・ヨースは、乾いた喉から、擦れた声を出した。

 無意識のうちに。

 そして、自分が声を発したということに驚いて、口を覆った。

 …ロボットが、こちらを見た。

 特に驚いたような様子は無い。…当たり前だ、ロボットじゃないか。驚いたりなんて、そんな感情があるものか、マルセ・ヨースは、必死に、気丈になろうとした。

 気付かれてはならないと思っていたのに、自ずから禁忌を破ってしまった自分に対して、言い訳のように。

 ロボットが、メガネごしにこちらに冴えた視線を向けて、呟いた。

「…ぼうやは、骨が入っていると云ったからだ」

「……」

「君は、チョコレートの味を知っているか」

「…化学合成されたものなら」

「どんな味だ。肉の味か」

「……」

 マルセ・ヨースは顔を顰めた。少し、胸焼けがしたように思う。

「本当の、肉の、味…を、知りません。あなたは、肉の味をご存知なのですか」

「…知っている」

 何故、という言葉を飲み込んで、マルセ・ヨースは答えた。

「では、その味では、無いと思います」

「……チョコレートがか?」

「チョコレートは、甘いのです」

「甘いのか。肉にも、甘みはあると思うのだがな。それとは違うのだな」

「……」

「君は、アーモンド・チョコレートは好きか」

 ロボットが訊く。

 マルセ・ヨースは、少し戸惑ってから、「いいえ」と首を振った。

「甘いものは、あまり好きではありません」

「…そうか、君は、ぼうやとは違うな」

 ロボットが、そう云って、……もしかして、少し、微笑んだだろうか。

「どういう意味でしょう」

「ぼうやはこの後、ひと箱全部食べたいと云って、だだをこねるのさ。ママは、おなかを壊すといけないと云うのに」

「……今ので終わりではないのですか」

「そうだよ。…つい、チョコレートの味が気になった」

 そんなことが何で気になるのだろう、このロボットは。

「その曲は、何と云う曲ですか」

「そのままさ、アーモンド・チョコレートのワルツ」

「……」

 つくりは丹精なのに、髭と服装のせいで、少しくたびれて見える青年は、マルセ・ヨースから顔を背け、ピアノに正面向いた。

 そして、ピアノの蓋を下ろした。

「……え」

 ロボットは目を閉じて、膝の上に手を置いた。

 マルセ・ヨースは、首を傾げ、次には、呆気に取られた、という表情を作っていた。

 ヴ…。

 慌てて、ロボットに近寄る。

 そっと、肩に触れた。

 …終了直後の機械によくある熱が、伝わってくる。

 そして、段々と冷めていく。

 ……今のは、何だったのだろう。

 首筋を見てみる。起動スイッチは分からなかったが、主人の云っていたチップを入れるスロットのようなものは分かった。

 このロボットの機能については全く知らないが、…少なくとも、スロットにチップが入っているようではない。イジェクトらしいボタンが、引っ込んでいる。

 …では何故、もう、何故起動したのかということは兎も角として、弾けたのだろう。

 いや、チップに頼らなくても、このロボットの中に記憶媒体が入っているとすれば、データが既に入っていて、何も無くて弾くことも出来るのかもしれない。

 しかし、…それでも、何故起動したのか、は頭から離れない…。

 何が起きたのだろう。

 …夢を見てでもいたのだろうか。

 もしかしたら、「アヴェ・マリア」を聴いたところから、…今日一日が夢だったのかもしれない。もうすぐ目を覚まして、気付けばベッドの中なのかもしれない。

 色々と考えながら、そう思った。

 …夢だと思っていた方がいいのかもしれない、そんな気持ちがあり。

 だが、マルセ・ヨースは、ちゃんとモップ掛けを、慌てて終わらせた。

 そして、私服に着替え、店を出ようとして、少し困る。

 タイムカードという名前がついた磁気カードに、帰宅時刻を記憶させなければならないのに、…いつもより随分遅くなった。

 何をしていたのか、と主人に思われることは、好ましくないことのように思われる。

 …悩んだ末に、忘れていた、ということにした。

 もし忘れることがあったら、閉店時刻を給金の目安にする、と聞いていた。…閉店後の業務は、只働きということだ。

 マルセ・ヨースは、給金よりも、夢か幻だと思った方が良いのかもしれない時間を選んだ。



 卒業制作は自宅でも出来るので、随分長いこと大学には顔を出していなかったのだが、起床の後、マルセ・ヨースは、ライブラリのディスクデータ室に向かった。

 そして、バッハとグノーを探し、改めて、久々に平均律クラヴィーアを全て聴き、「アヴェ・マリア」を聴いた。

 ロボットの奏でる本物のピアノと、ヘッドフォンから聴こえるこの音の、どちらが好きだろう…ぼんやりと考える。

 そう云えば、「平均律クラヴィーア」は、「練習曲」として、そもそも作られたと、音楽史の講義で学んだ。

 …「練習曲」というのがピンと来ない。講義している教授とて、随分冷めた口調で云った。どうでもいいことだとでも云いたそうだった。

 でも何となく、あのロボットがピアノを弾いている様を、間近では無いとしても目にして、…あれを人間が行うには、訓練が必要かもしれない、などと、微かに考える。

 …ロボットに、練習は必要だろうか。ふと、思う。

 いや、データで動いているロボットだ。ひとつの音の狂いもなく、初めて与えられる曲すらも、すぐに弾けるのだろう…。あれは、ピアノを弾くために作られたロボットだ。

 ……自分は、今聴こえてくる「アヴェ・マリア」を弾きたいと思っているだろうか。

 弾くためには、練習が必要だろう…。練習してまで?

 嫌だとは思わないが、迷っている。

 ……ロボットが、何の躊躇いもなく弾くピアノを、練習してまで自分が弾く必要があるのか?

 でも、ロボットに奏でられる人の作った曲を、何故人が奏でられないのかという疑問もある。

 それは、何処にも楽器が無いからだけど

 ……自分は、ピアノを持っている「ノア・カテ」で働いているじゃないか…。

「いけない」

 マルセ・ヨースは首を振る。

「…制作が先」

 制作が先、そして学費を稼ぐのが先だ。そう思い、先人の曲を、「参考」という名目のもと、聴く。影響はされすぎないように、と自分を戒めつつ…。

 「アヴェ・マリア」が終わる。

 ディスクをケースに戻し、手続きを終えて、ライブラリを出る。

 本当は、もう1つ、探したい曲があったのだが、見つけられなかったので諦めた。

 緩やかに、柔らかく、天上に捧げられた優しい音楽とは、まったく耳触りが違っていた。

 …マルセ・ヨースは、思い出して寒気を感じた。

 あの美しい「アヴェ・マリア」を奏でた、青年の姿をした機械が、その直後に、生々しい、「肉の味」などと口にした…。

 自分はそもそも、「肉」というものが嫌いだ。合成だと思うから口に出来るけれど、もともとは、「肉」は動物の死体だという意識がどうしても働いて、嫌悪感がある。

 ロボットの考え方だからか、率直だ。

 骨が入っているとぼうやが云った。チョコレートとは肉の味か…。

 ライブラリから構内の売店に向かって、バックアップ用のRAMディスクと、音楽理論の電子書籍を買った。

 ふと、食べ物のコーナーで、「アーモンド・チョコレート」の箱が目に入った。

 眉を寄せて顔を背ける。

 もともと甘いものは好きじゃないが、今は目にするのも不愉快な気がする…。構内の売店で売られているものに天然ものなどない、全て無菌工場で化学合成されたものだとは、分かっているけれど。

 大体、チョコレートが天然ものだとして、それでも「肉」を連想する必要など無いのだ。

 …ある意味、あのロボットは、無知であるが故に、想像力が豊かとも云えるのではないか…。

 そんなことを思った。

 大学を出てマルセ・ヨースは、まだ早いけれどそのまま「ノア・カテ」に向かうことにした。昨日、帰宅時刻を入力し忘れたことを、主人に先に伝えようと思い、事務所に顔を出すつもりでいたから。

 歩道を歩きながら、ふと思いつき、溜息混じりに声を出した。

「ああ…」

 骨が入っているとぼうやが云ったからだ。

 甘いとかそんなことじゃなくて。

「自分なら、『種』が入っていると思うだろう、と云えば良かった」


2002.1.10

(加筆修正/

2002.11.14/2003.3.7/2006.1.4/2007.3.26)


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