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アンティーク  作者: 橘隆之
第一部
7/161

[007] 2/地下に奏でられた天上の音楽、そしてアーモンド・チョコレートのワルツ -(2)

 授業料の滞納癖以外では、極めて優秀な学生には、曲が聞こえたとき、頭の中にフラッシュバックのように、いくつもの言葉が同時に浮かんだ。


 州立大学音楽科ライブラリ・ディスクデータ室・試聴する学生は受付にて学生証を提示すること・持ち出し厳禁・コピーを望む学生は、担任教授の証明書を受付に提示すること・ヘッドフォン着用の際には、カバーを付けてください・州立大学ライブラリ蔵…。


 音楽史・古典・バロック


 19世紀に成立・18世紀音楽史も参照すべし。


 アヴェ・マリア

 グノー

 J.S.バッハ

 平均律クラヴィーア、第一集第一番プレリュード。


 ピアノ曲データ・試聴ルーム・Stop・Skip・Volume・Rec(要パスワード)

 Play


「違う」

 本物の、ピアノ。


 ピ…。学生の意識を覚醒させる音が聞こえた。

 テーブル席から、呼ばれたのだ。

 慌てた様子は見せず、速やかに学生はカウンターを出た。

 心臓は、高らかに鳴っていたけれど。

「お呼びでございますか」

 テーブルに向かった学生は、自分の声が曲の妨げにならないように、無意識に声量を落としていた。

「…あれが、ピアノという楽器?」

 一見の女性客だ。好奇心に満ちた目をしている。隣には、連れの男性が居る。

「左様にございます」

 学生は頷く。

「そう、このお店には、そういうものまであると聞いてやってきたの。初めてで曲を聴けるなんて、嬉しいわ。素晴らしいわね」

「恐れ入ります」

「では、あの曲は何というのかな」

 今度は連れの男性が聴いてきた。

「初めて聴く曲だ」

 マルセ・ヨースは、少し悩んで答えた。

「アヴェ・マリア、と」

「ほう…。誰の作った曲なのだろう。ミュージックディスク店にあるかな」

 男は、隣の女に向かって云った。

「そうね、探してみたいわ。きれいな曲。あなた、ご存知?」

 女が給仕に訊いた。

 どう答えるべきか、少しまた悩んだ。

「グノー、という作曲家の手によります」

「そう、有難う。あなた、物知りなのね」

 にこ、と女が笑った。

「恐れ入ります」

「では、こちらのオリジナル・カクテルをもう2杯もらえるかな。それで今日はお開きにしよう、君」

「そうね」

 男が女に向かって云い、女が頷く。

 端末に入力するほど忙しくない、給仕は「畏まりました」と頭を下げると、静かにカウンターに戻った。

「『ノア・カテ』を2杯お願いします、マスター」

 主人に云うと、主人は、「おや」という顔をした。

「それだけ?」

「…はい」

「何か、他に話していたようだったけど?」

「……ええ、ご質問を受けました」

「分かったの? 私が行った方が良かったのでは?」

 後ろの棚から酒瓶を取りながら主人が云う。

「いえ…」

 学生は、少し戸惑ったように口ごもった。

「何を訊かれたの」

「まず、あのピアノについて、初めてこの店にやってきて聴けるのは幸運だったと、お喜びでした」

「ああ、はい。有難いことです」

 うん、と頷いて主人が微笑した。そして、カウンターの客にも笑いかける。

「それで、曲の名前を訊かれました」

「……分かったのかい?」

 今度は客が、「おや」という顔をして、給仕の顔を覗き込み、訊いた。

 主人が、ふ、と笑った。

「何と答えました」

「…アヴェ・マリア、と答えました。それで、ディスクを探してみようかというお話しをお二人でなさって、作曲家は誰かと尋ねられましたので、グノーです、と」

「……そうか、そうか…。いや、君を雇って良かったと、心から思いますよ」

 主人がクスクスと笑いながら云った。注文を受けたカクテルを作るべく、酒瓶を傾けながら。

 客が、主人と学生の顔を交互に見ていた。

「今までは、そんなことは必ず私が出て行かねばならなかった。いや有難い」

「…」

「…はい、では、『ノア・カテ』2杯お持ちして」

 盆に置かれた2つのグラスに、主人はキッチリ2等分して液体を注ぐ。

 真っ黒かと思うような濃い色の液体。しかし、光に透かせば透明に、暗紫が見える。

 給仕は頷き、テーブルへ向かった。

「…あの子は何者だね」

 客が、主人に小さな声で尋ねた。

「お客様? 当店では、お客様のプライバシーに立ち入りませんが、従業員のプライバシーについても、お答えいたしかねます」

 主人が、おどけた声で云う。客は苦笑し、

「ああ…そうかい。いいさ、少なくとも、あの曲を知っているのが自分とご主人だけじゃないことだけは分かった。あんな若い子が、『アヴェ・マリア』を知っているなんて、嬉しいよ」

 大げさに肩を竦めて、云った。

「ご主人、私にも『ノア・カテ』をおくれ。それで今日はお暇しよう」

 『ノア・カテ』を同じような時間に頼んだ3人の客は、似たような時間に店を出たので、一層「暇」になった。

 それは、確実に、ロボットの弾く曲が終わってからだった。

 ぱらぱら…と拍手の音が聴こえるのを、自分もしたいと思いながら、マルセ・ヨースはグラスを磨いていた。

 その曲を作った二人の作曲家に賛辞を捧げるために、拍手をしたい。だが、状況を考えれば、弾き手への拍手となる。それはそれで、敬意を払えるが、ロボットに対して拍手を捧げるなどナンセンスだと、心の中で負け惜しみを呟きながら、グラスを磨いた。

 最早、そのロボットしか、その曲を、…ピアノを弾ける者が居ないとしても。


 閉店後、学生がテーブルを拭いていると、主人がピアノに―ロボットに―近寄り、何かしていた。

 学生は、何をしているのですか、と訊いた。

 主人はすぐには答えず、…微かに笑った。

 次に、手にしたものを見せ、「これをね」と呟いた。

 小さな板だ。そう云えば、カウンターに戻ってくるときには手ぶらだった。

 主人はカウンターに入り、その板を取り出した戸棚にそれを戻した。

 …リクエストを伝えるように見えた、あの時、主人は何をしていたのだろう。学生が質問した。

「ここに、さっきのチップをね」

 頷いて主人は答え、自分の首の辺りを指差した。

「挿入していました。曲ごとに、データが違うので。起動するスイッチも、似たような場所にあるので、それも」

「…そうでしたか。まるで、本当に、耳打ちしているように見えました」

「美意識の問題です。無造作に起動させて、『人』の首に何か刺し入れるなど、無粋でしょう。あれがロボットであることは察知出来るけれども、…ああいう、美しい曲を奏でる者がロボットだと、お客様に知らしめることも、無粋」

「…はい」

「しかし、あんな曲のデータがあったとは。私個人としては嬉しかったけれど、店に置いておくことはやめようかしら」

 主人が苦笑して云った。…天上の音楽が、酒場に流れることも、主人の美意識には叶っていないのだろう。

 しかし、お客の要望に答えられることは主人には喜びであるはずで、また、あのロボットのためのデータをしまいこんでおくこともナンセンスだと考えるに違いない。

 テーブルを拭きながら、そんなことを思う。

「しかし、君。本当に有難いよ。時々、ああいう質問をされるお客様は居られるのだが、今まで雇った者は、当たり前だが答えられず、やけに狼狽えて私のところにやってきた」

「…はあ」

「せめて、狼狽えることでもやめて欲しかったものでしたが…」

「…」

「だけど、お客様は、ディスクを探そうかという話をされていたのでしょう? 最早、そんなディスクは無いなどとは、教えて差し上げなかったの?」

 主人が、どこか意地悪な笑顔を浮かべて云った。

 学生は、少し困ったような顔をした後で、「はい」と頷いた。

「…差し出がましいことかと、思ったので。本当に一般に発売されていないかどうかも、確信はありませんでしたし」

「ふうん…」

 主人は、特にそれを咎めることもなく、ぼんやりと頬を擦った。

「で、バッハと平均律クラヴィーアの名前は出さなかったんだ」

 あっさりとした声で主人が云う。

 学生の方が、少し驚いた。リクエストを出した客も、その名前については、どうも知らないようだったのだが。

 それこそ、知っているのは、専門的に学んでいる音大生である自分のような人間くらいだろうに、主人の知識は底なしのようだ。

「…困らなかった? 作曲家と、曲名を訊かれたときに」

 微笑して主人が云う。学生は、「はい」と躊躇いがちに頷いた。

「でも、…聴こえる曲が、そうでしたから『アヴェ・マリア』と答えるべきだと思いました。…ならば、作曲家はグノーと…」

「何故、補足して差し上げなかったの?」

「…それも、差し出がましいことだと思いました。平均律クラヴィーアを作ったバッハが居て、それに『歌』を乗せたグノーが居るということをご理解頂くために、どれほど言葉を使わなければならないかと思い、お客様がそこまでのご質問をされているのではないし、ともすれば、衒学的にはならないかと…」

「……Très bien」

 主人が、嘆息交じりに云って、パンパンと手を叩いた。

 学生は驚いて首を傾げる。

「よろしい。マルセ・ヨース君、君を雇って本当に良かった。そう、そこまで語るのは差し出がましいことです。給仕の範疇でそこまでの教授をするのは、好ましくない。それは、この酒場に、『そういうつもり』でやってきたお客様に対して、主人である私が、答えることです」

「…自分が、知ったかぶりに見られることがイヤだっただけなので、そう云われると…」

「それでも構わないよ。君は、お客様が何を望まれているのか、ちゃんと察知しているようです」

 主人は、機嫌がいいのを顕に、にこにこして頷いていた。

「云ったでしょう、君に最初に。新人である素振りは見せないようにってね。これが、この店に、ピアノを目当てにやってきたようなちょっとした趣味人であれば、お客様がご存知でないなら、君はバッハと平均律クラヴィーアについても、答えていたことでしょう…。何故なら、それがお客様の望みであり、それを知っていて当然だろうとお客様が思う『ノア・カテ』の従業員の姿だから」

「……」

「いや、有難い。そのうち、あのロボットへの『リクエスト』を伝える役目を、君にやってもらってもいいかもしれないなぁ。主人が向かうよりも、給仕が行く方が、見た目も良さそうだし」

 主人はご満悦な様子で、そんなことを云った。

 学生は、そんなふうに云われることに対して、何と答えてよいのか分からず、無言でテーブルを拭いた。

 最後のひとつだ。次は、モップかけ。

「じゃあ、マルセ・ヨース君、後は宜しくお願いしますよ。お休み」

 会計の閉店業務を終えた主人が、学生に声を掛けた。

「はい、お休みなさい。お疲れさまでした」

 裏口に向かう主人に軽く頭を下げ、学生も声を掛ける。

 働き始めて直ぐのころは、主人は、学生が仕事を終えるまで自分も店内から出て行かず、しばらくしてからは「戸締りを忘れずにね」と声を掛けていた。

 今は、それもなく、開店前と閉店後は、学生は一人になる。…そのうち、主人と共に店を出ることが出来るように、もっと仕事に慣れるのかもしれない。

 掃除に必要な最低限の照明…薄暗がりのなかで、マルセ・ヨースは一人、床を磨いていた。

 静かだ、と思うことは無い。

 こうして、体だけを動かせばいい時間には、頭の中には、曲が流れている。卒業制作曲のさわりが流れ、その続きが、浮かんでは切り取られ、形を為そうとしている。

 耳に聴こえている訳では無いから、やはり静かなのだが、マルセ・ヨースは、それを寂しく思ったりはしない…。

 ……ああ、いけないな、とふと思い、マルセ・ヨースは頭を振った。

 今日は、卒業制作のことは考えない方が良いのかもしれない。…バッハの平均律クラヴィーアが、「アヴェ・マリア」の一番に限らず浮かんで消える。そして、「アヴェ・マリア」が、鮮明に思い出される…。

 卒業制作曲の中に、混じってしまいそうだ。

 今日は、考えないようにしよう。バッハとグノーを忘れることが出来ないならば、静寂に浸ることにして、早いところモップ掛けを終わらせてしまおう…。

 そうして、出来るだけ何も考えず、マルセ・ヨースは、モップが床を滑る微かな音だけに集中した。


 ヴ。


 カタン。


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