[063] 13/要らないものを貰える皮肉 要らないものを欲しい矛盾 (通路) -(3)
それから少しの間、二人とも無言だったので静かな時が流れた。キーボードを叩く音と、互いの息の音、機械が立てる、ピー、とか、カリリ、とかそんな音だけだ。
少々ツケが溜まってきているお客様への手紙を書いている時に、ふと、主人が声を出した。
「……蒸し返すようで、重ねて申し訳ないけれども…」
え、と従業員が手を止めて主人の方を見ると、主人は、ちらりと従業員に視線を合わせてからすぐ、モニタに戻った。
従業員もモニタに顔を向ける。手を止めなくても聞ける話なのなら、仕事を続けなくてはいけない。
「――君に済まないことを云いましたね」
「え?」
「……。君に、音楽に関わる財産を譲るというのは、私の確かな決心だけども」
「――」
主人は、前置き通り、少し申し訳なさそうな声色になっていた。
従業員は、何だろう、と首を傾げた後、次には主人に気付かれない程度に微かに、眉を顰めた。
「ピアニストを、『譲る』という表現は、してはいけなかった……」
「……」
表情は、主人にも気付かれない程度の小さな移ろいだったが、胸は、とても痛かった。
「ごめんね」
――視線を感じたので、従業員は主人の方へ顔を向けた。
主人も、微かにだけども、どこかが痛そうな顔をして従業員を見ていた。
従業員は、――微苦笑を浮かべて、「いえ」と軽く首を振った。
「気になさらないでください。……正直、さっき話している間、自分でもあんまり深く考えてませんでした」
大したことではないのだ、ということを示すために、従業員はモニタに向き直り、手紙の続きを書く。でも、集中しているのではないことは確かだから、後でちゃんと確認をするつもりだ。
「もう、納得していることなのだと思います。いくら自分の感情が揺らいだって、それで現実の事実が変わる訳でないのですから……。感情の方を制御するようにして、……それはもう、成功していたのだと思います」
従業員は、声色を変えず、冷静に云った。
主人は、「そうですか」と息を吐きながら云って、こちらもモニタに顔を向け、次には、
「ではやはり、蒸し返すようなことを云って、それについてはつくづく済みませんでしたね」
と、云った。
「いえ、気になさらないでください」
ちらりと主人の方に顔を向け、主人がモニタを見ている以上、どうせ見えていない無駄は知りつつ微笑を浮かべて従業員は云った。
主人は、その視線は感じたのか、ふと顔を上げて微苦笑を投げて返した。
気を取り直して仕事に戻り、今度は完全に雑談のつもりで主人が口を開く。
「どうせだから云ってしまうと」
「はい?」
今度は本当に雑談だろうか?と確認するつもりがあり、従業員はちらりと視線だけを主人の方へ向けた。
主人は、モニタを見て、ほんの少し笑っている。
雑談らしい、と従業員は判断して、同じく仕事を続ける。
「私は、君を養子に迎えようかという気になったことが、一度や二度じゃなく、ある」
「……」
驚いて従業員が、やはり主人の方へ顔を向けた。
主人は、今度も、ちらりと従業員に目を向けて、どこか意地悪な笑みを浮かべた。だが、顔を従業員に正式に向けることはない。すぐに目を逸らして、引き出しの中を覗いた。
……あくまで雑談らしい。
従業員は、ひとまず安心して自分も仕事を続けた。
引き出しから、このビルのテナントに入っている業者のデータが入った媒体を取り出し、セットしながら主人が軽い口調で続ける。
「遺言状を遺すより、そっちの方が手っ取り早いし」
「……手っ取り早いって…」
従業員は呆れた声で呟いた。
「だってそうだったら、めんどくさい遺言状は遺さなくても、私に何かあったら即、自動的に相続してもらえる…、政府に渡ることはないでしょう?」
「……それはまあ、そうでしょうけど……」
「備えとして遺言状を作るのは、セイレイシィ家の末代としての義務だと心から納得していますけれど、正直、我が家はお金以外の財産が多いもので、それの把握をするのが面倒なこともありましてねぇ…」
大げさに溜息をついて主人は肩を竦める。
「いざ遺言状を作成するとなりました時、君に『全ての財産を譲る』なら楽ですよ、そりゃ。それでも私は別にいいんだけど、現実的に、音楽に関する財産を譲るとなった時」
「……はあ」
従業員は、どういう言葉を返したらいいか分からないので、適当な相槌だけを打った。
「『音楽に関する財産』とはどこからどこまでであるのか、はっきりさせとかないと、これまた誰かさんがゴネるだろうと、リーナスさんも私も想像する。私としては、君がそういう遠慮する性格のことも知っているので、せめて『君が好きなものを持って行きなさい』と云いたいところでもあるけども、それも曖昧で、ともすれば誰かさんが、君に何らかの面倒・圧力をかけるかもしれない」
「……『好きなものを持っていけ』と云われても、何も持っていけないかもしれませんけど」
「まあ、それもあるでしょうけどね」
従業員がもごもごと口籠もりながら云うと、主人はくすくす笑って、ちらりと従業員に目線を向けた。だが、すぐに仕事に戻る。あくまで雑談として聞け、ということだ。
「なので、出来るだけ面倒を避けるために、先に、我が家には何があるのか全部把握した上で、これとこれとこれ、というふうに、はっきり示しとく必要があるんですよ。……その手間が、時々面倒くさい…」
従業員は、少し困った顔を主人に向けた。
主人は、苦笑して肩を竦め、先回りして云う。
「面倒くさいから、養子に迎えると楽なのに、というのは、大変失礼ですね」
「……」
それについては、従業員も「いいえ」とは云わない。流石に、「それはあんまりだ」と思うくらいの自尊心はある。
「……先に、こんなことを云った後では、信じられないかもしれませんが、本当に、君に全ての財産を譲ることになっても構わないという気持ちがあるからですし」
前置きはあったものの……、従業員としてはやはり恐縮せざるを得ないことを、主人はさらりと云う。
そして次には、戸惑いつつも、何となく嬉しくなることを主人は云った。
「……もっと純粋にね。財産がどうとかは全く関係の無いところで、君を自分の家族に迎えることは、喜ばしいことのように感じたことがあるので……。正直、何度も、君が我が子のように思えたことがある。父や母は、私をこんなふうに想っていただろうか、と、そんな想像をしたことがあります」
やはりそうだったのだ。主人は時々、マルセ・ヨースの親のような顔をすることがこれまであったが、やはり、そんな気持ちがあったのだった。
従業員は、頬を染めて、「ありがとうございます」と云った。
照れくさいし、財産がどうとかいうことを聞いた後では、やっぱり恐縮もするけれども、それでも、主人がそんなふうに想ってくれることは、早くに親をなくしていた従業員には嬉しいことだった。
……主人も照れくさくなったのか、小首を傾げた後、殊更声色を変え、いつもの人をからかうような声と顔で続けた。
「養子に迎えて一緒に暮らすようにでもなれば、いよいよ君は、ノア・カテそのものを受け継ぐ気になってくれるかもしれませんし」
「――」
もしかして本気もあるのかもしれないけれども、従業員は敢えて冗談と受け取り、主人に苦笑を見せた。
「自分を、『経営者』というものに向いた人間だとは、これまで一度も思ったことがありません…。ご主人には、その素質があるように見えるんですか?」
「ただの『経営者』の素質と云ったら疑問ですが、『ノア・カテのあるじ』への適性と云ったら、無くはないと思えます」
「……」
やはり、従業員は苦笑する。
「ノア・カテのあるじに必要なのは、お客様のくつろぎのために誠意を尽くす態度でありますから…。『もの』を保存することも、料理を覚えることも、全てはお客様のためにやることです。その気持ちがあれば、『ノア・カテの経営に必要なこと』は、自ずから覚える、覚えたくなるものなんです」
「……」
「そりゃま、『ものを保存する』ことは、単に貧乏性の血筋で、自然とそうしたくなるというのがありますが……。基本的に我が家の人間が代々、他の仕事をする気にならず、『ノア・カテのあるじ』をやってきたのは、子供の頃から代々、お客様のために誠意を尽くす『ノア・カテのあるじ』の背中を見て、それに習い・倣うことを、人生の目標にしてきたからですね。――代々、先代を尊敬して、酒場のあるじという仕事を、誇りにしてきた訳で……」
淡々と云った後で、主人は、くすっと笑い、従業員にからかう声を投げる。
「ですから、君が我が家に入って、一日中私の背中を眺めていると、酒場のあるじを継ぎたくなるかもしれない。それをちょっとだけ期待する部分もありました。――そりゃ、私が尊敬しうるあるじだとして、ですけどね…」
「充分、ご主人を尊敬しています」
主人は冗談めいた言葉で云ったが、慌てて、従業員は首を振る。それは、ちゃんと伝えたい。
「あの、ノア・カテを引き継ぐ気持ちになれないとして、それは、ご主人を尊敬出来ないからなんてことじゃ、絶対にありません」
焦って従業員が云うと、主人はくすっと笑って、「ありがとう」と頷いた。
「ああ、マルセ・ヨース君、そんな困った顔しないで。そういう気になったことがある、っていう雑談のつもりだったんですから」
「……はあ…」
「まあ、今の私と君の関係が、いちばん良い距離な気もしますしね。親子になって、酒場での主従関係がなれ合いになっても、これはお客様に対してよろしくない。それに、本当に君を養子に迎えて、ノア・カテのあるじの教育を自然とするようなことになったとして―我が家の誰も、子供に対して親が、ノア・カテのあるじになるようにと強制したことはありません―、それで作曲の才能を伸ばしてあげられないなら、それが何より、私にとっても不本意です」
新しいデータを入れた媒体を、端末から取り出しながら主人が云う。
従業員も、ちらちらと主人に目線を向けながら、視線の本線はずっとモニタに向いている。
「君は成人していて、このように、ちゃんと仕事もしている。我が社の給料は、結構良いという自負もあるので、生活に困っていることは、もう無いでしょう?」
「はい、それは……本当に。アルバイトの時から雇って貰えて、本当に、有り難く思っています」
従業員はハッキリと云い、大きく頷いた。
にっこり笑って主人が続ける。
「未成年の苦学生に援助するつもりで養子に、ていうことでもないのですしね…。そんなことを全く考えない状態で、まだ君を養子に迎える気になるとすれば、さっきも云いましたが―てれくさくもあるけど―、純粋に、君の親の顔をしたいから、ってことになりますね」
言葉通り照れがあるからか、主人はさらっとした声で云った。
戸惑ってしまうけれども、それは、本当に嬉しい――従業員はもう一度、ありがとうございます、と云った。
雑談をしつつも、いつもの仕事は順調に進み、そのうち、夕食時になった。
端末のパワーを落とし、さて、と主人が立ち上がる。
従業員はそれから少しだけ遅れて、パワーをオフにした。
「今日の夕食は、ミートソースのラザニアなのですが、君は、トマトは大丈夫だったかしら?」
「はい」
従業員が夕食を外に食べに出るということは結局、就職以来全く無かったので、主人はもう、一緒に食べるものと思って、そんなふうに尋ねた。
従業員も、それを当然のことと思って、IDカードを携えて、主人の後ろについていく。
これは「社員食堂」であるから、食事の後には、支払いをしなくてはいけない。
味と満腹感を考慮すると、無料に近い値段であるが……。
夕食が終われば、カテ・コー社ノア・カテ部門の社員は、お客様のくつろぎを担う給仕として働き始める。
(出口) へ続く