[006] 2/地下に奏でられた天上の音楽、そしてアーモンド・チョコレートのワルツ -(1)
働き始めて、どのくらい経っただろうかと、ふと考えた。ずっと前からここで働いていたような、そんな感覚がやってきて。
つまり、そのくらいに仕事に慣れた。
最初は、開店前閉店後の掃除すらも戸惑っていた。
今となっては、箒で塵を集め、ちりとりで塵を取るくらい当たり前に出来る。その後のモップ掛けとて、お手の物だ…。
主人の云う通りだ。人間の機能外のことは主人は要求していないし、昔の人間に使えた器具が今の自分に使えない筈も無いのだ。
革の表紙に金の刺繍で「MENU」と書かれたそれを、お客様のもとに運び、レトロな端末で注文を取り、主人の作ったカクテルをお盆に乗せて運ぶのだ。落としそうだと思いながら恐る恐る、よちよち歩きで運んでいたのも、ずいぶん前のことである気がする。
「君は、仕事を覚えるのが早いので嬉しい」
主人が、微かな笑顔を浮かべて云った。とはいえ、主人の普段の表情が常に微笑だから、特別ありがたがっているのでも言葉どおり嬉しがっているのでもない、そう思う。
古典文学の中にある、チェシャ猫、というのが、脳裏をよぎる。そんな印象だ、主人は。
でも、褒められることはやはり嬉しい。今までの人生で、そんな覚えがあまり無いから。
それは、人を褒めることが出来る人というのが、今まで自分の周囲に居た記憶が無いということなのかもしれないとも、この店で働き始めてから思った。
この店に来る客も、人を褒めることが出来る人だ。主人の料理に、「美味しい」と笑顔を浮かべる人が何人も居る。
今までそんな人を見たことが無いし、自分も、人の料理を褒めたりなどしたことがなかった。
こういうのは、「素直」というのではないだろうか。あんまり口にしたことも耳にしたことも無い言葉だが。
……この酒場が、人をそうさせるのだろうか。そんなことを思う。
「そうでしょうよ」
働き始めてしばらくして、主人が、「どうかな、この職場は」と訊いてきた。
それで、そんな印象を口にした。
主人は
「働きやすいかどうかという意味で訊いたのだけど」
と最初、少し呆れたような顔をした。
「つくづく、君は自分のことは知ったこっちゃないんですね」
続けて、そう云って苦笑した。
「まあ、お客様の雰囲気を最初に口にすることは、良いことだ」
独り言のように云ってから、「そうでしょうよ」と云った。
「素直というか、安心の出来る酒場、それが大事ですね、君。だから、私は君に、何より笑顔を要求している。干渉もしないが、放っておきもしない、そんな飲み屋がいちばん流行るものですよ」
「……ここは、レトロだけで流行っているのではないんですね」
「そうだね。云ったでしょう。私は、博物館を経営してるんじゃないですよ。酒場のあるじ。酒を売ってる商いびとです。その上で、やらなければならないことをやっている、そういうこと…」
「はい」
「だから、君が早く仕事を覚えてくれるのが嬉しい。手際が良いということは、お客様を不快にさせないということです。後は、もう少し、笑顔のぎこちなさが減ってくれると嬉しいね」
「…はい」
そうして、少しは笑顔の固さも取れたと思う。
働き始めて、笑顔を意識している間は、閉店してから、ほおぺたが痛くなったこともあった。つくづく、使っていない筋肉を使っていたのだろう。
とりあえず、主人に質問をしに行くことは無くなった。今のところは…。
そして、当たり前のように仕事をしていて、しばらくして、ふと、思った。
どのくらい、経っただろう、ここで働き始めて。
既に開店前に、ビルの最上階にある事務所へ向かうことは無くなっていた。
カード・キーで裏口の第一の扉を開けて、「鍵」で第二の扉を開けて、まだ誰も居ない「ノア・カテ」の店内に入る。そして、もうひとつの「鍵」で控え室に入り、エプロンをつけた。
制服は、お客様の前に立つ時に着るものだから、閉店直後の清掃はともかく、開店前には着ないようにしている…。私服にエプロンで充分だ。
手際が良くなったから、着替える時間は充分にある。
仕事に慣れた。
随分と長い間、ここで働いているような気がする…。
なのに、
マルセ・ヨースは、テーブルを拭く手を、ふと止めた。
「ああ、そうだ…」
その視線が、店内の一部に向かった。
古ぼけたアップライト・ピアノに。
その前に座っているロボットに。
まだ一度も聴いたことがない。
あの楽器が奏でる「曲」を。
あのロボットが奏でるピアノの音を。
そんなことを思い出すほど、仕事に慣れたとも云えるのだろうが…。
思い出したら、胸が少し苦しくなった。
主人は、チップをはずむお客が居たときや、貸切のお客の要望があれば弾いてもらうこともあると云っていた。…一体、いくらくらいで、あの…ピアノを弾くロボットにリクエストは出せるのだろう。そんなことを考える。
随分長いことそんなお客様が居られなければ、たまに弾かせることもあると云っていた。
「だから…」
随分長いこと自分が働いているような気がするのに、まだ聴いたことがないから、働き始めてどのくらい経っただろうなどと。
…今までは、そんなことを考えたら「いくらくらい貰える計算だろうか」と考えていた筈だ。
マルセ・ヨースは苦笑して、少し頭を振ると、テーブルを拭き始めた。
そんなことを考えていて、仕事が疎かになっては給金が減るだろう、と自分に言い聞かせて。
ロボットが奏でる曲よりも、自分のことを考えなくては。
卒業制作曲の展望は既にある…後は、学費だ。学費が払えなくては、いくら傑作が出来ても、卒業は出来ない。
平日だから、今日はお客が少ない。
天気が悪いというのもあるだろうか、働き始めてから初めて経験する「暇」な感覚だと思った。
注文取りや配膳の合間に、新しくお客様をお迎えするためや、お見送りのためにエントランスに立つので、席に空きが多い日であっても、休む間は余り無いのだが、今日は、開店中に皿を洗う時間がある。いつもは、主人が開店中にそれをやり、残ったものを閉店後に学生がやるのだ。
かろーん…という、来客を告げる機械による人工的な鐘の音は、今カウンター席に座っているお客様がいらしてから、一度も聞こえていない。
閉店も近い。もしかしたら、このお客様が、今日最後なのかもしれない。
既に顔は覚えた。常連の方だ。
自分がここで働き出す前からずっと、「ノア・カテ」を贔屓にしているらしい。主人と交わす会話の声色は、とても気安い。
今も隣で、二人で同じ灰皿を使って煙を吹かしながら、何か話していた。
学生は、客の会話に聞き耳を立てたりすることは無いので、何を話しているのか知らない。
人の声よりも、水の流れる音を聞き、雫がコップにあたる音を聞いて、クロスでガラスを拭く音の新鮮さに、心を奪われていた。店内に流れる曲よりもずっと、学生の耳には新鮮に聞こえる音を、自分が奏でているらしいことが、何となく楽しかった。
「……やれやれ」
主人が、溜息混じりに呟く。
「ここが何処だか分かっているのですか、……さん? 酒場ですよ」
「いいじゃないか。今日は他のお客さんが少ないからさ」
「ふう、酒を飲みながら聴くのは、随分、バチあたりな気がしますよ」
そう云いつつも、主人は頷き、「少々お待ち下さい、探してみましょう」と客に云った。
ツイ、と学生の背後を擦りぬけ、突き当りのクローゼットの扉を開けた。
「マルセ・ヨース君」
主人が、客には聞こえない小声で云う。
「……はい?」
グラスを磨いていた学生は、手を止めて主人の方を見た。
…学生の方を見ていないのに、主人は、ぼそっと「手は止めない」と呟く。
慌ててグラスに目を戻し、キュキュと音をさせて磨く。
「グラスを落とすんじゃないよ」
先に、そんなことを云った。
「……今から、あのロボットがピアノを弾くよ」
……マルセ・ヨースは、目を見開いた。
手が震えた。…主人は、それを見越していたのか、「グラスを落とすな」と。
「でも、ピアノに気を取られて、お客様を疎かにしたりしないようにね。…もし、そんなことがあったら、―あのお客様にチップは頂くけども―君の給金からも、若干チップとして頂きますよ」
道化た声で、主人が云う。
「は、はい…」
擦れた声で、学生は云った。
「…ああ、あった」
「あったかね」
客が、うきうきとした声で云った。
「私としては、あって欲しくありませんでしたがね」
そう苦笑交じりに云った主人の指には、小さな四角い板が摘まれていた。
「そう云うなよ、ご主人。…では、頼むよ」
客も苦笑を返す。
主人が、店内のオーディオのスイッチをまず切った。
…一瞬の静寂。
マルセ・ヨースは、その刹那、ぞくり、と背筋が寒くなった。緊張した、そんな感覚があった。
店内にちらほらと見える客も、おや、という顔をしているのが分かった。
主人は、カウンターを出て、ピアノに向かった。
テーブル席に座った常連の客が、「ああ」と頷いている。そして、一度微笑み、背を伸ばして座りなおすのが見えた。
初見の客は、…あれがピアノという楽器であることを知らないのか、何だろう、という顔をしていた。
主人は、座っているロボットの左側に立ち肩に手をかけ、若干身を屈めて、首の辺りに顔を近づけた。
右手を肩にかけて、左手が体の前面に回っているようだ、何をしているのか。
しかし、何をしているのか、全く分からない。
…まるで、ただ、本当に、専属ピアニストにリクエストを伝えるために、耳打ちしているかのように。
あれは、ロボットなのに。
…マルセ・ヨースには、ロボットの背中しか見えない。カウンターには、ロボットは背中を向けているのだ。
そして、本当に、それしか見ていないようだった。
…主人がカウンターに帰ってくるのが、視界の片隅で、ぼんやりぼやけているように見えた。その手にはもう何も持っていないことは分かるのに、「見えていない」そんな感覚がある。
ロボットの頭が、ピクン、と震えたのが見えた。
そして、…振り返ってこちらを向いた。
でも、マルセ・ヨースを見たわけではない。
ロボットは、リクエストを出した客の方に顔を向け、とても静かな、冴えた視線を送っていた。…そして、軽く、ぺこ、と頭を下げた。無表情のままに。
あれが、ロボットのすることだろうか。愛想は無いとしても、リクエストをくれた客に、お辞儀など…。
再び、ロボットがカウンターに背中を向ける。
鍵盤に向かう。
マルセ・ヨースは、唾を飲んだ。
ロボットの肘が曲がり、手が浮かぶ。
カタン。
耳が悪くなったのか良くなったのか分からない。
他の音は全然聞こえないのに、ロボットがピアノの蓋を上げる小さな音は、とてもよく聞こえた。
蓋を開け、一度、ロボットは膝に手を置き、もう一度、肘を曲げた。
マルセ・ヨースは、目を見開いた。
……曲が、聴こえる。
ピアノが、曲を奏でている。
本物の、ピアノの音…。
「嬉しいね、ディスクでなくて、この曲が聴けるというのは」
「酒場で聴く曲じゃありません」
主人と客の会話が、微かに聞こえた。
「……さんも、好きですね…。こんな曲、知っている人間が、現在どれほど居るでしょうか」
「まさか、この世に君と僕の二人しか知っている人間が居ないとしたら、悲しいことだ」
客が、どこか寂しそうな声で云った。
二人じゃない、少なくとも三人だ。
学生がぼんやり思う。
しかし、主人の云う通り、酒場で聴く曲ではない筈だ。
確かに人の手によって作られた、…天に捧げられた音楽だ。
天上の、音楽。
人の手によって作られたことが最早信じられないほどの、透明感と、優美。
アルコールにふわふわと浮かんだ幸福感は、天上の幸いに比べるには余りにも安くはないだろうか。
…他の客は、どう思っているのだろう。
ゆったりとした調べは、アルコールの酔いにぴったりだと感じているのだろうか。
文句を云う者は居ない。
…もう、ディスクは一般には発売されていない筈だ。酒場の客が、この世に知っている人間が二人しか居ないかもしれないなどと思うほどなのだから…。
最早、ここでしか、本当には聴けないのか。しかも、弾いているのは、機械…ロボット。
マルセ・ヨースは、微かに、胸の奥が痛くなった。
ゆったりと、流れる音。
ピアノが、「歌う」。