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アンティーク  作者: 橘隆之
第一部
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[005] 1/(Prélude) -(5)


 「そうか、そうだね…。楽器が最早現存しないのだから、プレイヤーを大学が育成するということは無いか」

 主人は、学生の羞恥を知っているのか知らないのか分からない顔をして、そんなふうにあっさりした声で云った。

 このロボットは、この楽器を演奏出来るのか…、今度の興味は、ロボットに移っていた。

 じっと見つめる。

 何でここまで人間に近づける必要があるのかと思うほど、精巧だ。

 単なるカバーでは何故いけない、…人工合成皮膚まで貼り付けて、見れば植毛までされている。

 男性だ。学生よりも、10ほど年上の設定に見える。膝の上に、ちょこん、と置かれた手はごつごつとして、指は長く、男性らしく、手首から手の甲へ濃い毛が覗いていた。

 顔を見れば、頬から顎へ、髭までもたくわえているではないか…。何で、ここまで人に近づけたかったのだろう、先人は。呆れてしまうほどの凝りだ。

 息をしていないのが不思議なほど。何故、微動だにしないのか不思議なほど。

 まっすぐに背を伸ばして、ピアノに向かって座っている。

「どうして、こんな格好をさせているんです?」

 学生の呟きに、主人は、くくく、と笑った。

「ハダカで置いておくわけにはいかないので。…これね、物凄く精巧なんですよ。楽器を奏でるロボットに何で必要なのか理解出来ませんが、性器までついていて…」

 頬が熱くなるのが分かった。それを振り払うように首を振って、学生は続けた。

「そうじゃなくて…」

「服装? これも雰囲気かな。この酒場に、パリっとしたタキシードを着た青年ピアニストが居るのも変だろうと思って。…アルコールの毒に酔って、何かに疲れて敗れたおじさんが、うらびれた酒場で夢見心地にピアノを奏でる図の方が、似合わない? …君に云っても、ピンと来ないのかな」

「…そうですね…」

 よれよれのコート。プレスは全く落ちたスラックス。タートルの薄汚れたセーター、同じく煤けた色合いのソフト帽…。主人の、「雰囲気」の拘りなのか、丸メガネ(メガネという名前だった筈だ)を鷲鼻の上にひっかけている。

 その服装のせいか、本来の設定は学生よりも十かそこら年上なだけだろうに、主人の云った通り、少しくたびれた「おじさん」のように見えた。

 メガネの隙から見える目は閉じている…。瞳はどうなっているんだろう、そんな興味が湧く。

 このロボットは、目を何処に向けて、このピアノを弾くのだろう。手をどのように動かすのだろう…。最早、人間には奏でられない楽器をどんなふうに奏で、どんな曲を…。

 とても…

「ご主人…」

「うん?」

「本当に、雇ってもらえるのですか」

「まだ云ってる…」

 主人が呆れたように溜息をついた。

「さっきとは、全然、自分の気持ちが違うのです」

「……」

「下心が、あります」

「へえ?」

「このピアノを弾くロボットを、とても、見たい…。ここで、働きたいです。ここ以外で、働きたくないです」

「それは嬉しいこと」

 主人が、にっこり笑った。

「良いのですか、下心が出来ているんですよ」

「もう雇ってしまった、私は。君を従業員登録してしまったんです」

「…」

「…さっき、私が、君には何か楽しいことがあるかと尋ねたら、君は答えられなかったね」

「…はい」

「それは、興味の対象が無いというのでは無かったんですね」

「…」

「君は、音楽が好きとか楽しいとかいうことは自分で考えないけれど、まるで息をするように、自分の中で当たり前に存在していると、そういうことなのでしょう」

 主人が、微笑んでいるのだけども、やけに真剣に聴こえる声で云っていた。

「興味の対象が、たった一つ…、君にはあったのですね。そうだな…、学校は辞めたくない、そんな執着はあったから、ここに来たのだし…」

「…そうだとして、良いのですか、雇っても」

「もう決めた。君に下心があるとしても、私が君を解雇するほどのことじゃない。逆に、私が君を気に入って雇い入れる気になったのに加えて、君も『働きたい』と思ってくれたなら、喜ばしいことですね。…それに、君は、少なくともこのピアノとロボットだけは、とても大事にしてくれそうだ。だから…こちらこそ宜しく」

 微笑んだまま、主人は頷き、そう云った。

 学生が、頭を深く下げて、「お願いします」と云った。

「では、本題に戻りますか。まず控え室に行きますよ」

「はい」

 踵を返した主人に、学生が、さっきとはうってかわったやる気に満ちた表情でついて行った。


「お客様には笑顔で接しなさい。しかし、大げさ、薄ら笑い、にやけ、そんな印象は良くない。微笑、を心がけること、それが出来ないなら、いっそ無表情で居なさい、少なくとも最初は。

「まず受付でIDカードをお預かりして、端末にかけ、お客様が常連ならばどの席を常に望まれているかなどの好みを、出来るだけ把握しなさい。何度もお尋ねするのはしつこくなります。お客様のお顔も覚えるように努力しなさい。

「最初のうちは、常連のお客様は、君に何らかの反応を示すでしょう。そのときは、丁寧に挨拶をお返ししなさい。お客様に気に入って頂くことは、決して損にはなりません。しかし、一見のお客様は、君が新人であることなど知らないのですから、素人のような素振りを見せないように心がけましょう。もし分からないことがあっても慌てず騒がず、そっと私のところに質問に来なさい。

「いいですか」

 主人の言葉は、これまで全く経験したことのなかった従業員の心得だった。だから、とても難しいことのように思えた。だが主人は、「()()()不可能なことではないでしょう」と云う。

「人間の機能外のことを要求はしてないのですからして」

 それはそうなのだ…。

 控え室の鏡に映った自分を眺め、蝶ネクタイの角度を直し、主人の言葉を思い返していた。

 天然の綿素材のシャツ。格子柄のシルクのベスト。…このまま逃げても、今着ている服を売るだけで半年食べていけるかもしれない。コンプレックスというのではなく、ただ金銭的価値で考えた。

 そんなことをふと、漠然と思い、すぐに忘れた。

 そんなことをしたら、あのピアノの音は、ロボットの奏でる曲は聴けないのだし。

 鏡の中の自分に、みっともないところは無いだろうか。ネクタイはもう曲がっていない。シャツに不自然な皺は無い…ネームプレートも歪んでいない。

 そうして主人の言葉を出来る限り思い出し、覚え、努力することを誓って、エントランスの受付に立った。

 かろーん…とスピーカーが来客をつげる鐘の音を発する。

 シュ、とまず最初のオートドアを抜けて、コート姿の初老の男性が入ってきた。

 一度、コクンと唾を飲み込んで、出来るだけ落ち着いた素振りで、軽く頭を下げた。

「いらっしゃいませ、ようこそ『ノア・カテ』へおいで下さいました」

 ちゃんと云えただろうか、と少し鼓動が早くなるのが分かった。

 顔を上げると、男性は、おや、と驚いた顔をした後で、にこ、と笑った。

「新人さんだね、随分と落ち着いている」

 落ち着いている…、そう見えたのか、良かった、と心の中で胸を撫で下ろした。

「名前は…何というのかな」

 とネームプレートに視線をやった。

「マルセ・ヨース君か。…採用されて良かったね、頑張りなさいよ」

「有難うございます、今後とも宜しくお願い致します」

 そう云って頭を下げると、うんうん、と男性は頷き、既にこの店の手順は慣れているらしく、「では、はい」とIDカードを差し出した。

「確かにお預かりしました、少々お待ち下さいませ」

 頭の中で、カードを読んで何をするべきか、渦が巻いている。

 せめて、お名前と顔を覚え…と、モニタと客の顔を、彼が不愉快では無い程度に、交互に見つめた。

 席。カウンターが多い。

 味の好み…、これは覚えなくていい、今は。

 あッ。

 このお客様は、あのロボットへのリクエストを、もう3回も出している。

 マルセ・ヨースは、ノア・カテで働き始めて最初に受け付けた客の顔を、二度と忘れなかった。


 ノア・カテには、マルセ・ヨースにとって息をするのと同じ程度の自然さと重要性を持った「音楽」を奏でる楽器と弾き手が在った。

 だから、学校を卒業しても、マルセ・ヨースはノア・カテを辞めなかった。


 マルセ・ヨースは、ノア・カテという酒場で、学費のために働き始めた。


2001.11.16

(加筆修正/

2002.11.14/2003.3.7/2004.5.18/2006.1.4/10.5/2007.4.7)

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