[047] 12/私は何も要らない 前編 -(3)
(あるいは、他人のために奏でるということ、他人に捧げるものを作ること
そして、他人を欲しがるということ 2)
「私もこんな動作が出来るとは知らなかった。私の代になってからは、楽譜を見せたことが、そういえば無かったな…」
従業員は主人の言葉に戸惑った表情を浮かべた後、「そうか…」と呟いた。
主人の書庫にある楽譜…、あれは確かに、捲らなくてはならない。
戸惑った顔をしたまま、従業員は「どうしよう」と呟き、取り敢えず、モニタの端にあるボタンを押して次の画面を出した。
ピアニストはそのまま、続きを弾き始める。
「ご主人、今の間も記録されたりするんでしょうか」
ファイルにその辺りのことが書かれていなかったから、どこか不安げな表情で従業員が尋ねた。
主人は肩を竦めた後で、「大丈夫だと思いますけど」と云った。
「『楽譜を覚える』んであって…、自分の演奏データを記録する訳じゃないですからねぇ…」
「あ、…それは、そうですね…」
「不安があるなら、後で、楽譜の画面を消した状態で、通して弾いてもらうといい」
成る程、と従業員は頷き、だが、相変わらず戸惑った顔をしていた。
……となると、いちいち「楽譜を捲」ってやらなくてはいけないということか。
主人が微笑を浮かべて云う。
「君は作曲者でもあり、楽譜の作成者でもあるんだから、譜面の内容は頭に入ってるでしょう? ピアニストが、『1ページ』のラストを弾いて『楽譜』に手を伸ばす前に、画面を切り替えてあげたらいいのでは」
「……邪魔にはならないでしょうか」
それを聞いて、主人は、ハア…とため息に聞こえる息を吐く。
「――今、彼は『邪魔』とは云いませんでしたから、いいんじゃないですか?」
そうか…、と従業員は頷いた。
そして楽譜を見つめ、音を聞く。
丁度、画面を切り替えねばならない場所に来ていた。
ふと、音が止まり、ピアニストが手を挙げる前に、従業員は素早くボタンを押す。
ピアニストはそのまま、何事も無かったかのように続きを弾いた。
従業員は、「リモートコントローラ」を持ってきたら良かったかもしれない、と思った。
そうして、何度か画面を切り替え、…主人も従業員も何も云わず、開店前の明るい店内に漂う音を聞いた。
最後のページに到り、ピアニストは終止線に従って曲を止め、手を膝に下ろした。
従業員はモニタの画面を消し、主人は、腕組みをして、ふう…と息を吐いた。
「さて…と。では、それを弾いて貰うには、どうしたらいいのでしたっけ?」
主人が従業員に問う。
マルセ・ヨースは、ぴくりと肩を強ばらせた。
……どことなく、寂しげな微笑を浮かべている主人へ、従業員はコクリと頷き、……まだ目が覚めたままのロボットのシャツを脱がせ、再び背中のカバーを外した。
こうなることが分かっていたから、主人は「コンソール単体じゃなくロボットを起動させる方が本当は楽なのに」と考えていた。――どっちにしたって、こうなるのだ。
今覚えた譜面にナンバーを付けなくてはいけない。ナンバリングされていれば、演奏のたびにコンソールを覗かなくても、声で伝えて―まさに、リクエストを伝えて―それを弾かせることが出来る。……タイトルが音声でも伝えられるならば、今の譜面の冒頭にも書いていたから、こんなことはしなくても良かったのかもしれないのに…。
従業員は表情を変えず、登録譜の一覧を画面に出す。一番上に、「最新登録譜」があった。それに[CHAT NOIR se réveille]とタイトルを入力し、ちらり、と主人を見上げた。
「ナンバーはどうしましょう?」
「君の誕生日でも入れたら?」
くす、と笑って主人が云う。従業員は首を傾げ、困った顔をした。
「分かりやすいナンバーがいいでしょう。空いてませんか」
「……」
主人がそう云うのであるから、と従業員は自分の誕生日に当てはまるナンバーが空いているかどうか見てみた。
主人も身を屈めて画面を覗き込む。
……[37]は埋まっていたが―従業員は知らない曲のタイトルだった―、[307]が空いている。
「ああ、ある」
主人はそれを指さして従業員の顔を見ると、微笑した。雇われる時の面接で、IDの照会を主人はやっている。従業員の誕生日も、覚えていた。
「これにしなさい。私にも分かりやすい」
「分かりました」
本人には躊躇いがあったが、やはり、雇い主である主人がそう云うのだから、と、従業員は[307]とナンバーをつけた。
ピッ、と小さな音がして、[memorize "OK"]と画面に文字が現れる。
それで作業は終了だ。
……だが、作曲家の手がふと止まり、じっとその画面を見ている。後は通常画面に戻して、背中のカバーを戻せばいいだけの筈だ。
主人は、どうかしたのだろうかと首を傾げた。従業員は、大量の譜を記憶している、そのリストを眺めている。
「どうかしましたか? 操作を忘れた?」
「えっ、――いいえ」
ぼんやりしていたところに声を掛けられた、という風情で、従業員はピクリと肩を強ばらせ首を振った。
慌てて従業員は背中のカバーを再び元に戻し、シャツを着せる。その動作は、随分とてきぱきしている。
その様子を見ながら、主人が苦笑混じりに云う。
「君が好きな作曲家の曲でもあった?」
「……あの…、――ええ、まあ…。……やっぱり、チップと重なってるものは無いんだなあ、とか、そんなことも考えてて…」
ぎこちない口調で従業員は云い、主人は「ああ」と頷いた。
「そうでしたか。…ご先祖様たちも、その辺りは考慮していたんでしょうね。チップがあるのに記憶させると、容量が勿体ないもの」
「……」
確かにそんなことも頭の片隅で考えていたけども、それだけを考えていたのではなかった。
主人の言葉に、従業員は返答をしない。
作業を終えて背筋を伸ばした従業員に主人が云う。
「じゃ、私が確認してみましょうか」
従業員は、はい、と頷くと、楽譜立てからモニタを取った。
主人はピアニストの肩に手をかけ、耳元に、「スコア、スリー・オー・セヴン、プリーズ」と呟いた。
ヴ…と小さな音がして、再び、ピアニストが手を挙げる。
鍵盤に触れ、
♪♪…♪♪♪……♪…
ゆっくりと、曲が流れ始める。
間違いはない。「楽譜を捲る」時の間も無い。
オーディオから聞こえた時と、全く違いのないメロディである。違うのは、音色だけだ。本物のピアノの音。
……こんな早い、明るい店内で目覚めたのに、寝ぼけては居ないようだ、黒猫は。
ピアニストは二度目の演奏を全く滞りなく終え、手を膝に戻す。
「大丈夫なようですね」
「そうですね…」
主人の言葉に、従業員はコクリと頷く。
「他に何かやらなくてはならないことがありますか?」
今の作業は、従業員にとって「メンテナンスの経験」でもある。主人は従業員に確認して、従業員は「いいえ」と首を振った。
従業員は、念のために衣服の乱れなどが無いか確かめ、……目の色を確認して、首のスイッチに手をやり、ピアニストを寝かしつけた。
瞼が下りて、ピアニストは微動だにしない。
従業員がピアノの鍵盤蓋を下ろすのを見てから、ふう…と主人が息を吐き、云う。
「では、戻りましょうか」
「はい」
主人が店内の灯りを消し、エレベータで二人は再び事務所に向かう。
新たな楽譜を覚えたピアニスト。
彼が暗譜している曲のデータの片鱗を、今、見た…。
秘密の時間に聞いた曲、そのタイトルを全部は知らない。
だけど、知っているものもある。
……そして、知っているそれらの名前が、
あのリストの中には、無かった。
ぞく、と従業員の背が震える。主人がそれに気付いて、「大丈夫?」と尋ねた。
「……本当はまだ、具合が悪いのではないの」
「いえ、そういう訳では無いです」
慌てて従業員が首を振る。
そうですか?と主人は云い、ちょっと心配そうな顔をしてはいたけども、それ以上、とやかく云うことは無かった。
ふ、と従業員は息を吐き、考える。
全部のリストを、確かめた訳ではない。
スクロールさせて、307を見た。307までの曲のタイトルを、全部確認したのじゃない…。
それに、307以降にも、点々と暗譜をしていたようだった。308から313までは空いていたのに、突然314に何か記憶していた。主人は分かりやすいナンバーにしておけと云った、恐らく、前の代の主人も同じようなことを考えて、そんなふうに記憶させたのだろう…。
そう考えたら…、自分が、「ピアニストが覚えている筈のタイトルを見つけられなかった」からと云って、「ピアニストのレパートリーに本来は無い」と考えるべきではない。
307に記憶した後、その時に現れていた画面にあるリストを確認してみたら、その中には無かった。…それだけだ。
チップで存在していたが、内部記憶にタイトルやナンバーなどのデータを残す前にチップが無くなってしまった、そんな可能性だってある。
だから、
コンソールに現れた画面に
「アーモンド・チョコレートのワルツ」
「最初のメヌエット」
を見た覚えが無く、チップも見た覚えが無いからと云って、妙だと思う必要は、無い。
そう、自分に言い聞かせる。
今感じた寒気は、そんなふうに考えが及ぶ前に感じた、軽はずみなものだ…。
事務所に戻って、従業員は工具とファイルを元の場所に戻し、抱えていたモニタのスロットから媒体を取り出すと、それを主人に差し出した。
「どうぞ」
「? 私が貰っていいんですか?」
首を傾げて問うた主人へ、従業員が頷く。
「はい。マスターデータが家にもありますから。……それに、『ノア・カテ』にピアノとピアニストがある以上、『楽譜』は何より、こちらに無くてはならないと思いますし」
「楽譜」は現在、どんな場所よりも、ここにあるべきものだ。
マルセ・ヨースはそう云い、主人が、「ああ…」とため息混じりに頷いて苦笑したのを見た後で、俯き加減になり、続けた。
「……これからは、作曲の時にも、最初から五線譜を使おうと思っているんです」
マルセ・ヨースの言葉に、主人は「はい?」と首を傾げた。
「『黒猫』は、もう出来上がっていた曲を、譜面にした訳ですけど、そうじゃなくて…、もう作曲の時から、…五線譜に、作曲をするっていう、そういう形にしようと」
「……」