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アンティーク  作者: 橘隆之
第二部
47/161

[047] 12/私は何も要らない 前編 -(3)

(あるいは、他人のために奏でるということ、他人に捧げるものを作ること

そして、他人を欲しがるということ 2)

「私もこんな動作が出来るとは知らなかった。私の代になってからは、楽譜を()()たことが、そういえば無かったな…」

 従業員は主人の言葉に戸惑った表情を浮かべた後、「そうか…」と呟いた。

 主人の書庫にある楽譜…、あれは確かに、捲らなくてはならない。

 戸惑った顔をしたまま、従業員は「どうしよう」と呟き、取り敢えず、モニタの端にあるボタンを押して次の画面を出した。

 ピアニストはそのまま、続きを弾き始める。

「ご主人、今の間も記録されたりするんでしょうか」

 ファイルにその辺りのことが書かれていなかったから、どこか不安げな表情で従業員が尋ねた。

 主人は肩を竦めた後で、「大丈夫だと思いますけど」と云った。

「『楽譜を覚える』んであって…、自分の演奏データを記録する訳じゃないですからねぇ…」

「あ、…それは、そうですね…」

「不安があるなら、後で、楽譜の画面を消した状態で、通して弾いてもらうといい」

 成る程、と従業員は頷き、だが、相変わらず戸惑った顔をしていた。

 ……となると、いちいち「楽譜を捲」ってやらなくてはいけないということか。

 主人が微笑を浮かべて云う。

「君は作曲者でもあり、楽譜の作成者でもあるんだから、譜面の内容は頭に入ってるでしょう? ピアニストが、『1ページ』のラストを弾いて『楽譜』に手を伸ばす前に、画面を切り替えてあげたらいいのでは」

「……邪魔にはならないでしょうか」

 それを聞いて、主人は、ハア…とため息に聞こえる息を吐く。

「――今、彼は『邪魔』とは()()ませんでしたから、いいんじゃないですか?」

 そうか…、と従業員は頷いた。

 そして楽譜を見つめ、音を聞く。

 丁度、画面を切り替えねばならない場所に来ていた。

 ふと、音が止まり、ピアニストが手を挙げる前に、従業員は素早くボタンを押す。

 ピアニストはそのまま、何事も無かったかのように続きを弾いた。

 従業員は、「リモートコントローラ」を持ってきたら良かったかもしれない、と思った。

 そうして、何度か画面を切り替え、…主人も従業員も何も云わず、開店前の明るい店内に漂う音を聞いた。

 最後のページに到り、ピアニストは終止線に従って曲を止め、手を膝に下ろした。

 従業員はモニタの画面を消し、主人は、腕組みをして、ふう…と息を吐いた。

「さて…と。では、それを弾いて貰うには、どうしたらいいのでしたっけ?」

 主人が従業員に問う。

 マルセ・ヨースは、ぴくりと肩を強ばらせた。

 ……どことなく、寂しげな微笑を浮かべている主人へ、従業員はコクリと頷き、……まだ目が覚めたままのロボットのシャツを脱がせ、再び背中のカバーを外した。

 こうなることが分かっていたから、主人は「コンソール単体じゃなくロボットを起動させる方が本当は楽なのに」と考えていた。――どっちにしたって、こうなるのだ。

 今覚えた譜面にナンバーを付けなくてはいけない。ナンバリングされていれば、演奏のたびにコンソールを覗かなくても、声で伝えて―まさに、リクエストを伝えて―それを弾かせることが出来る。……タイトルが音声でも伝えられるならば、今の譜面の冒頭にも書いていたから、こんなことはしなくても良かったのかもしれないのに…。

 従業員は表情を変えず、登録譜の一覧を画面に出す。一番上に、「最新登録譜」があった。それに[CHAT NOIR se réveille]とタイトルを入力し、ちらり、と主人を見上げた。

「ナンバーはどうしましょう?」

「君の誕生日でも入れたら?」

 くす、と笑って主人が云う。従業員は首を傾げ、困った顔をした。

「分かりやすいナンバーがいいでしょう。空いてませんか」

「……」

 主人がそう云うのであるから、と従業員は自分の誕生日に当てはまるナンバーが空いているかどうか見てみた。

 主人も身を屈めて画面を覗き込む。

 ……[37]は埋まっていたが―従業員は知らない曲のタイトルだった―、[307]が空いている。

「ああ、ある」

 主人はそれを指さして従業員の顔を見ると、微笑した。雇われる時の面接で、IDの照会を主人はやっている。従業員の誕生日も、覚えていた。

「これにしなさい。私にも分かりやすい」

「分かりました」

 本人には躊躇いがあったが、やはり、雇い主である主人がそう云うのだから、と、従業員は[307]とナンバーをつけた。

 ピッ、と小さな音がして、[memorize "OK"]と画面に文字が現れる。

 それで作業は終了だ。

 ……だが、作曲家の手がふと止まり、じっとその画面を見ている。後は通常画面に戻して、背中のカバーを戻せばいいだけの筈だ。

 主人は、どうかしたのだろうかと首を傾げた。従業員は、大量の譜を記憶している、そのリストを眺めている。

「どうかしましたか? 操作を忘れた?」

「えっ、――いいえ」

 ぼんやりしていたところに声を掛けられた、という風情で、従業員はピクリと肩を強ばらせ首を振った。

 慌てて従業員は背中のカバーを再び元に戻し、シャツを着せる。その動作は、随分とてきぱきしている。

 その様子を見ながら、主人が苦笑混じりに云う。

「君が好きな作曲家の曲でもあった?」

「……あの…、――ええ、まあ…。……やっぱり、チップと重なってるものは無いんだなあ、とか、そんなことも考えてて…」

 ぎこちない口調で従業員は云い、主人は「ああ」と頷いた。

「そうでしたか。…ご先祖様たちも、その辺りは考慮していたんでしょうね。チップがあるのに記憶させると、容量が勿体ないもの」

「……」

 確かにそんなことも頭の片隅で考えていたけども、それだけを考えていたのではなかった。

 主人の言葉に、従業員は返答をしない。

 作業を終えて背筋を伸ばした従業員に主人が云う。

「じゃ、私が確認してみましょうか」

 従業員は、はい、と頷くと、楽譜立てからモニタを取った。

 主人はピアニストの肩に手をかけ、耳元に、「スコア、スリー・オー・セヴン、プリーズ」と呟いた。

 ヴ…と小さな音がして、再び、ピアニストが手を挙げる。

 鍵盤に触れ、

 ♪♪…♪♪♪……♪…

 ゆっくりと、曲が流れ始める。

 間違いはない。「楽譜を捲る」時の間も無い。

 オーディオから聞こえた時と、全く違いのないメロディである。違うのは、音色だけだ。本物のピアノの音。

 ……こんな早い、明るい店内で目覚めたのに、寝ぼけては居ないようだ、黒猫は。

 ピアニストは二度目の演奏を全く滞りなく終え、手を膝に戻す。

「大丈夫なようですね」

「そうですね…」

 主人の言葉に、従業員はコクリと頷く。

「他に何かやらなくてはならないことがありますか?」

 今の作業は、従業員にとって「メンテナンスの経験」でもある。主人は従業員に確認して、従業員は「いいえ」と首を振った。

 従業員は、念のために衣服の乱れなどが無いか確かめ、……目の色を確認して、首のスイッチに手をやり、ピアニストを寝かしつけた。

 瞼が下りて、ピアニストは微動だにしない。

 従業員がピアノの鍵盤蓋を下ろすのを見てから、ふう…と主人が息を吐き、云う。

「では、戻りましょうか」

「はい」

 主人が店内の灯りを消し、エレベータで二人は再び事務所に向かう。


 新たな楽譜を覚えたピアニスト。

 彼が暗譜している曲のデータの片鱗を、今、見た…。

 秘密の時間に聞いた曲、そのタイトルを全部は知らない。

 だけど、知っているものもある。

 ……そして、知っているそれらの名前が、

 あのリストの中には、無かった。

 ぞく、と従業員の背が震える。主人がそれに気付いて、「大丈夫?」と尋ねた。

「……本当はまだ、具合が悪いのではないの」

「いえ、そういう訳では無いです」

 慌てて従業員が首を振る。

 そうですか?と主人は云い、ちょっと心配そうな顔をしてはいたけども、それ以上、とやかく云うことは無かった。

 ふ、と従業員は息を吐き、考える。

 全部のリストを、()()()()訳ではない。

 スクロールさせて、307を見た。307までの曲のタイトルを、全部確認したのじゃない…。

 それに、307以降にも、点々と暗譜をしていたようだった。308から313までは空いていたのに、突然314に何か記憶していた。主人は分かりやすいナンバーにしておけと云った、恐らく、前の代の主人も同じようなことを考えて、そんなふうに記憶させたのだろう…。

 そう考えたら…、自分が、「ピアニストが覚えている筈のタイトルを見つけられなかった」からと云って、「ピアニストのレパートリーに本来は無い」と考えるべきではない。

 307に記憶した後、その時に現れていた画面にあるリストを確認してみたら、その中には無かった。…それだけだ。

 チップで存在していたが、内部記憶にタイトルやナンバーなどのデータを残す前にチップが無くなってしまった、そんな可能性だってある。

 だから、

 コンソールに現れた画面に

「アーモンド・チョコレートのワルツ」

「最初のメヌエット」

 を見た覚えが無く、チップも見た覚えが無いからと云って、妙だと思う必要は、無い。

 そう、自分に言い聞かせる。

 今感じた寒気は、そんなふうに考えが及ぶ前に感じた、軽はずみなものだ…。


 事務所に戻って、従業員は工具とファイルを元の場所に戻し、抱えていたモニタのスロットから媒体を取り出すと、それを主人に差し出した。

「どうぞ」

「? 私が貰っていいんですか?」

 首を傾げて問うた主人へ、従業員が頷く。

「はい。マスターデータが家にもありますから。……それに、『ノア・カテ』にピアノとピアニストがある以上、『楽譜』は何より、こちらに無くてはならないと思いますし」

 「楽譜」は現在、どんな場所よりも、ここにあるべきものだ。

 マルセ・ヨースはそう云い、主人が、「ああ…」とため息混じりに頷いて苦笑したのを見た後で、俯き加減になり、続けた。

「……これからは、作曲の時にも、最初から五線譜を使おうと思っているんです」

 マルセ・ヨースの言葉に、主人は「はい?」と首を傾げた。

「『黒猫』は、もう出来上がっていた曲を、譜面にした訳ですけど、そうじゃなくて…、もう作曲の時から、…五線譜に、作曲をするっていう、そういう形にしようと」

「……」

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