[004] 1/(Prélude) -(4)
……学生が、ぽかん、と口を開いた、何を云われたのか分からないという顔をして。
「……ピアノ!?」
そんな驚きの声を、学生は、初めて発した。
主人が、こくん、と頷くのを見て、学生は、口をぱくぱくとさせた。
「ピアノを知っている?」
「お、音は…。データで…ありますから…」
「そうでしょうね」
「まだ、実物があるなんて! 学校にだって、立体映像のデータが、ライブラリにあるだけで…。でも、形が、違います」
「随分、饒舌になったね、君」
主人が、目を「ピアノ」に釘付けにして白黒させている学生を腕を組んで眺め、くすくす笑いながら云った。
「そうか、形が違うか…。君の学校のデータは、グランドピアノなんだろうね。うちにもあるのだけど、うらびれた酒場にはアップライトの方が雰囲気が合うかと思って、こっちを置いてあるんです。でも、そんな雰囲気の違いはお客様に分かってるのかな…」
「分かりません…」
学生が呟く。
「何故形が違うんですか?」
「君…、君が私に訊いてどうする」
主人が、「学生」の顔をして自分に問いかける学生に、溜息をつきながら苦笑した。
「ご存知なら教えてください。何が違うんですか、同じピアノなのでしょう」
「ああ…、あのねえ。私ごときが簡単に云ってしまうなら、値段かな」
「…」
「君がデータで見たことがあるというグランドピアノは、率直に云って、高いんです。あのアップライトは、それに比べて安い。その分、音も違うよ」
「音が違う?」
「何というのかな、深みというか響きというか…。君が聴いたことのあるデータが、どちらのものかは知らないけども。だからさ、雰囲気でアップライトを置いているというのはね、安酒場にグランドピアノのような高級なものがあると変だろうという、それだけのことなんだけど、…そうか、やっぱり、そういう雰囲気は分からないか」
主人の呟きに、相槌は打てなかった。
「ピアノ」というものが、実物があるだけで衝撃を受けている自分に、雰囲気なんて微妙なものが分かるものか…。
「その、グランドピアノの映像では、音の出る仕組みが分かりやすかったですけど、あれも同じ仕組みで鳴るんですか?」
アップライトを指して、学生が云った。信じられない、という声と表情だった。
「仕組みは同じですよ? ハンマーが弦を叩く。だから、形が違う分、同じ仕組みでも音が変わるのじゃないかしら? 私も専門家では無いから、詳しくは知らない」
主人の言葉に、信じられないという顔をしたままで、「そうか…」と頷いた。
聴いていないから、音が違うというのが実感として湧かないけれども。
「あの、では、あの人は?」
学生が、そう云って…ピアノの前に座っている「人」を指した。
主人が、くっくっく…と喉を鳴らした。
「本当に君は面白いな。普通、そちらが先だと思うのだけど」
「…」
そういえばそうかもしれない、と少しバツが悪い。
ずっと「ピアノ」の前に座って動かない「人」の方が気になってしかるべきかもしれない。
「第六感なのかな、興味の対象の問題かな。楽器の方に先に行くとは。…まあいいや、君、それはちょっと違うんだなぁ」
「違う? 何がです?」
「あれも、あれは何ですか、なの」
「…え?」
主人が、に、と笑った。
「ロボットなんですよ」
「…えッ、ロボット? ホムンクルスじゃなくて?」
「驚き方がやはり、ピアノの時と違うな」
うんうん、と頷きながら主人が云った。
「有機生命体が、あそこまで微動だにしないということは無いでしょう? ロボットだから、息をしていることも分からないんですよ」
「…人型の? …まだ、あるんだ…」
「そうですね、あれも、人型の中では後期の傑作だけど、ロボットとしては古い」
「あの、近づいて見てもいいですか」
学生が問うと、主人は
「ロボットを? ピアノを?」
とからかうように云った。
学生が、俯いたのを見て、「いいよ」と笑い、先にすたすたと近寄った。
「ピアノ」の両脇に分かれて立ち、学生が「人」と「ピアノ」の両方を見つめる。
人型のロボット…。「ロボット」というものは、人の形をしている意味が無いと、今はそれが当たり前の筈だ。
何らかの作業をさせるためだけの機械ならば、専門的に作ったほうが効率が良いから。人の形をしているロボットはエネルギーも食う。その割りに、出来ることはやはり限られる。人の形のロボットがロマンであることは、既に無い。それがロマンであった時代があったということすら、学生にはピンと来ない。
そのうち、有機生命体、テストチューブ・ライフ、ホムンクルスが、一定の条件・制限の下でならば生育可能となって以来、完全にロボットは人の形を捨てた筈。
まだ、こんなものがあったのかと、学生は驚いていた。
「何故、このロボットを、ピアノの前に座らせているんですか?」
「歩けるけどね、流石に…歩かせるバッテリもちょっと勿体無いので、ずっと置いているんです。調子も悪いから…」
「いえ、そうじゃなくて」
学生は主人の答えに首を振った。
「…まさか、このロボット、ピアノを」
「弾くんです」
主人が当たり前のように頷き、驚いている学生に笑ってみせた。
「昔の人は、面白いね。ロボットを作って、それに楽器を演奏させるということを、ロマンにしていたようですよ。…何の役に立つわけでもないのに」
「…」
「これも、この酒場の売りのヒトツではありますよ。でも、さっきも云ったけれど、バッテリの問題もあるし、修理はしているけども調子も悪いので、余程にチップを弾むお大尽のリクエストがあったときか、貸切のお客様のご要望とかでも無いと滅多に動かさないけど。でも、全く動かさないとそれもまた不調の原因だから、そういうお客様が長く居られなかったら、たまに、ちょっとだけ弾いてもらいますね」
「…あの」
「あーあ、ダメ」
主人は、恐る恐るという口調で何事か云おうとした学生に、首を振った。
「ダメです、動かしませんよ。云ったでしょう…、あんまり、無駄には動かせないの」
「…はい」
学生は、俯くように頷いた。
「あの、では、ピアノの鍵盤を見せてもらっていいですか」
「…ああ、それは構わない」
主人が頷き、かた、と小さな音をさせて蓋を開いた。
学生の目の前に、白と黒の列が現れる。
大きく目を見開き、それを、黙って見つめていた。
自然と、手が動いた。
「触ってもいいですか」と訊かぬままに、まるで魂を何処かに飛ばしたような顔をして鍵盤に触れようとしている学生を、主人は微笑んで見ていた。
学生は、鍵盤に向かって座っているロボットの右側に立っていた。
恐る恐る、白いそれを、押してみる。
ほぅん、と、妙に小さすぎる音しか聴こえない。その中に、鍵盤が沈んだ、こく、という音が混じっている。
「ピアノの鍵盤というのは、『押し』ても、ピアノの音が出ないんですよ、君」
その声に、学生は初めて、自分が鍵盤に触れたことに気づき、はっと顔を主人の方に向けた。
「す、済みません、勝手に触って」
「いいえ、仕方ないでしょうよ。君の場合」
「……」
「それよりも、ちゃんと音を出してみなさい。ロボットに出せる音が、君に出せない筈が無い。…人が弾くのが当たり前だったんだから、昔は」
主人の言葉に、学生は狼狽えた顔をして、「押してダメなら、どうすれば鳴るのでしょう」と呟いた。
「ハンマーが弦を叩くんだよ? ハンマーが叩くということは、鍵をそれなりに叩かないとね…」
主人が云った。そうなのか…、と狼狽えた表情のままで学生は頷き、握手するような角度に手首を捻り、人差し指を立てて他の指を握りこんで高く掲げ、…まっすぐに落とした。
ぴわあん…と甲高くてにごった音が響いた。データでも聴いたことがある「ピアノ」の音だ。
でも、…狙いが定まらずに、鍵と鍵の間を叩いてしまった、だから、濁ったのだ。
…それに、自分の指が痛い。
学生は、ショックを受けたような顔をして、黙り込んだ。
こんな痛い思いをして、しかも、高い場所から指を落とすようにして、どうして「曲」が出来るものか。
方法が違うのか…? どうやれば、この楽器は「曲」としての「音」を出す。
思いつめた顔をして、学生は鍵盤を、睨みつけると云っていいような目で見ていた。
酒場のあるじは、何も云わずに、学生を見ている。
学生が、自分の指をじっと見た後、ロボットを見た。
「…このロボットは、どうやってピアノを弾くんですか…」
独り言のような声で、問うと、主人は、あっさりした声で答えた。
「手で。手の指で、この鍵盤に触れて音を出しますよ?」
「どうやって…。ずっと不思議でした、初めてピアノの映像を見た時から。音を出すための鍵盤がこんなにたくさんあるのに、手の指は10本しか無いんです。それがどうして、…曲になるのか…」
「…」
「このロボットだって、人型です。手の指は、10本しかありません」
学生が、今度はロボットを見つめて、呟いていた。
「…君は、学校で何をやっているの?」
主人が、何の他意も無い…皮肉めいてなどいない、率直な声で訊いてくる。
しかし、一瞬、とても、いたたまれなくて口を噤んだ。
主人は、ちら、と学生の顔を見た。
俯いて、とても小さな声で呟いた。
「…専攻は作曲です」
「ああ、そう」
主人は、素直に頷いた。
とても、恥ずかしい。
本来、自分の方が…連邦政府州立大学音楽科の学生である自分が「専門家」であっていいのに、今まで、「ピアノ」を目の前にして、「酒場の主人」に教えを請うていたのだ。しかも、とても…初歩的なのかもしれないことを。
恥ずかしくて、いたたまれない。