[021] 7/知ったかぶりをする者と知っていることを知らない者(あるいは、私的 詩的 師的 深夜2) -(1)
「黒猫が目を覚ます」…、デビュタントその日に、たびたび、それは店内に流れた。
ノア・カテの従業員である学生は、たびたび、照れくさくなった。
そんな様子に気づく者は客の中にはいなかったという点で給仕は、ほぼ完璧なノア・カテの従業員となっていたと云って良かろう。
開店してすぐに受け付けた客を、給仕は慣れた様子で席へ案内した。既に、主人に限らず自分も顔なじみである。忘れる訳が無い。
ここで働き始めて最初に受け付けた客の顔も忘れたことが無いが、このお客様は、以前、ピアノ弾きのロボットに、「アヴェ・マリア」をリクエストしたのだ。
客の方も、給仕と完全に馴染んでいたので、いつものカウンタ席へ案内されるとき、「お構いなく、いつもの席への案内なんてお手数かけるのは申し訳ない」などとおどけたものだ。
……カウンタの中に居た主人も微笑して、「いらっしゃい、**さん」と頷く。
「いつものパターンでよろしいですかね、ノア・カテから?」
「パターン? そんな云われ方すると、癪にさわるなぁ、ご主人」
そんなことを、笑いながら…。
くすくすと笑いながら、主人は、真っ黒な液体の入ったグラスを、客の前に置いた。
開店してすぐだから、店内が埋まるにはまだ時間がある。
給仕もカウンタに入り、「おしぼり」を温める機器を覗いていたりした。――頻繁にチェックし、ほどよいところで保温器への入れ替えをしないと、沸騰したようなおしぼりをお客様に出す羽目になるので、この仕事はかなり重要な部類に入るのだった――
以前、「アヴェ・マリア」をリクエストした、本日最初の客は、一口「ノア・カテ」を喉に通すと、主人に問うた。
「? この曲は何? ウェッブラジオじゃないね?」
今店内に流れている曲は何、ということだ。何も無い空間…自分の背後と天井に視線を巡らせてから、客は主人を見て云った。
給仕は、心の中でビクっとして、主人は、ふふ、と笑った。学生の方は見ない。
「『黒猫が目を覚ます』というタイトルですよ」
「初めて聴くよ」
「そりゃあそうでしょうよ。他のどこでも聴くことは出来ません。今日初めて、この店でだけ流れたんです」
「そりゃあ、どういうことだろう」
客が首を捻る。
学生はそ知らぬ振りをして、充分温まったおしぼりを保温器へ移す作業をしていた。
「将来有望な、しかし今は無名の若い音楽家がね、この『ノア・カテ』のイメージで作曲をしてくれたのですよ。そして本日、店内で初のお披露目となったのです」
そっぽを向いている学生は、全く表情を変えないながらに、どきどきしていた。
とても恥かしくてならない。
自分が作曲したことが分かってしまうから、主人に何か云うことは出来ない。でも、将来有望などと云われるのは、主人がお世辞を云うような人ではないだけに、とても照れくさい。
客は、目をパチクリとさせて、「ほう」と云った。
「それはそれは…。その音楽家に会ってみたいものだね、素晴らしい才能じゃないか。ぴったりだ」
「そうですか。そうでしょう? 私もとっても気に入ったんです」
「誰なんです、ご主人、その若い音楽家というのは? 是非、うちの会社でコマーシャル曲でも書いて欲しいよ」
このお客様は、会社を経営しているか、営業部門だかに居る人物らしい、と学生は初めて思った。
そして、それを聞いて、「それはちょっと」と胸の中でだけ、呟く。
そういう仕事をしたくないから、今自分は、ノア・カテでおしぼりの移動をさせているのだ。
それが終わったので、今度は、グラスを磨くことにする。
主人が、くすりと笑って、さあて、と首を傾げた。
「さて、それは――この曲を書いたのが誰であるか――、お教えできないんですよ、少なくとも、今現在は…」
「何故です?」
「作曲家自身が、まだ、名前が出るのを拒んでいるので」
「そりゃ勿体無い」
大げさに目を見開いて、客はカクテルを舐めた。
「晴れやかな未来が待っているだろうに。若い人は早いうちからその才能を世の中に認められるべきだと私は思うけどな」
「しかし、若いうちからちやほやされると、後々が困ることになりかねませんしねぇ」
「それはそうだろうけども、ああ、勿体無い。こっそり教えてくれないかな?」
「それで、内密にコマーシャルフィルムを作り? 次には作曲家自身を**さんのところで売り出しますか」
意地悪な笑顔を浮かべて主人が云うと、客は、ふふふ、と肯定も否定もせず笑った。
…広告代理店に勤めているんだろうか。と、給仕は再び考える。
「無理ですよ、それは。名前そのものが出ることよりも、そういうオファーが来ることの方を拒んでますからね」
「ああ、勿体無い、何だ、それは」
「気難しいんですよ、芸術家というのは」
主人が、くすくす笑いながら云う。
客は、やれやれ、と肩を竦めて「ノア・カテ」を飲み干した。
自分では気難しいとは思わないけどな…、と給仕は考える。
ちょうど、「黒猫が、目を覚ます」が終わった。
シュシュシュ…、とディスクが回る音が小さく聞こえる。
「ご主人、来たらもう掛かっていたので、最初から聞きたいな、もう一度かけてくれる? これは、リクエストになるのかな」
「ああ…、ええ、そうですね」
主人は、声をかけられた瞬間、ちょっと首を傾げて、客の言葉に、微かに驚いた顔をして、ふふふ、と笑って頷いた。
「『ジューク・ボックス』へのリクエストと同じお値段ということでお受けしましょう」
「ふむ、ピアニストへのリクエストよりは安いんだな。では、お願いするよ。…ご主人、ちゃんとその音楽家へ、マージンは出すんですよ? しらっとネコババなんてしちゃあダメだからね」
今度は、客の方が皮肉に笑った。
ははは、と主人が笑って
「そりゃあそうでしょう。私は、そんな悪徳なことはしません」
などと云った。
え、と給仕が思う。
初めて、自分と、学校関係者以外の人間が耳にした日、その日に、自分の曲が買ってもらえたということになるだろうか。
ピアニストへのリクエストよりは安いということだが。
「ああ、なるほど…。良いなぁ、惜しいなあ、その芸術家に会ってみたいなぁ…」
客は、うんうんと頷きながら、目を閉じて聞き入っている。
新しい注文はまだしないままに。
カラーン…と新たな来客を知らせる鐘の音色が聞こえ、給仕は慌てた様子は見せずにカウンタを出た。
内心では、「黒猫が、目を覚ます」に聞き入っている客の態度に、相当の照れを感じてはいたのだが。
そうして、新たにやってきたお客様は、給仕によってテーブル席に案内されたのだが、注文を受けた給仕がテーブルへオードブルとグラスを持っていくと、
「今かかっている曲は何?」
と給仕に尋ねた。
給仕は、何と答えてよいものか一瞬躊躇い、しかし正直に
「『黒猫が、目を覚ます』という曲です」
と答えた。
するとそのお客様は、「ふうん、いいな」と呟いて、どうもありがとう、と云った。
そのときは、それだけで、給仕は安堵と落胆とをほんの少しずつ感じ、「いいな」という呟きに喜びを感じて「ごゆっくり」という言葉を残してカウンタに戻った。
しばらくして曲は終わり、いつも通り、主人が選んだゆったりした曲が流れ始めた。それが2曲3曲と続いたのち、…給仕は、自分が「黒猫が、目を覚ます」のタイトルを教えたテーブル席の客に呼ばれた。
「さっきの曲、『黒猫が、目を覚ます』だっけ? あれは、もうかからないの? リクエストしていい?」
…給仕は、「は」と呟いてから、内心の動揺を隠し、「かしこまりました」とは答えず、落ち着いた様子で「マスターに尋ねて参ります」とだけ返し、カウンタに戻った。
何せ、…リクエスト料金が正確には分からないから――ジュークボックスへのリクエストと同等と、決定してしまったのか?――、すぐに「はい」とは云えない。
カウンタの中に入って、主人に耳打ちするようにして尋ねると、にっこり笑って
「ええ、構いませんよ、リクエストは」と云った。
少しだけ、給仕の表情が困惑に変わる。
「料金は、『ジュークボックス』へのリクエストとなります、とお知らせしてらっしゃい。メニューに書いてますから、ご存じでしょうよ。今後も同様にね」
「…分かりました」
給仕はテーブルに戻り、そのように伝えた。
お客様が、微かに笑って、「じゃあ、次にかけてください」と云った。
そして再び、「黒猫が、目を覚ます」。
一体、何度黒猫は、気まぐれに眠り気まぐれに目を覚ましたのだろう。あるいは、一体、何匹の黒猫が、目を覚ましただろう?
こんなふうに、曲の途中で来店したお客様が、タイトルを尋ね、曲の合間を縫ってはリクエストをし、…ということが続き、デビュタントその日に、無名の若い音楽家の曲はずいぶんと多くの人の耳に入ったのだ。
給仕は、そつなくその注文を受け、学生は、とても照れくさく、作曲家は、とても誇らしいのと同時に、どこかで納得が出来てなかった。




