[001] 1/(Prélude) -(1)
「あれは、何ですか?」
その酒場に雇われることが決まって、胸を撫で下ろし、それを訊いた。
「おや…、随分といい大学に行っているんだね」
IDカードを端末にかけ、モニタに表れる履歴を見て、主人は少し驚いた顔をした。数世紀前ならば、履歴書なるものを見ながらそう呟いただろう。今は、紙というものがないから、それも存在しない。
照れ臭そうに俯いて、頭を掻いている学生に、主人は、微笑んだ。
「こんな場末の酒場で、働いてていいのかい? こき使うからね、勉強の時間が無くなるよ」
からかうように云った後で、主人は、「志望の動機は?」と尋ねた。
少し口ごもった後で、思い切って顔を上げて答えた。
「率直に云って、お金です。…勉強の時間は、確かに無くなるでしょうけど、あと、必須の単位は卒業制作だけなので…。それよりも学費が払えない方が問題なんです」
「成る程、率直だ。確かに、うちは普通のレストランで働くよりはペイがいい」
主人は、気を悪くした様子も無く、喉を鳴らして笑った。
「社会勉強だの青臭いことを云われたらどうしようかと思った」
「……」
「おべんちゃらも勘弁だしね」
「…? おべんちゃら? 云う人が居ますか」
主人は、首を傾げた学生に向かって、「おや」という顔をした後で微笑んだ。
「どういう意味かな、それは? 普通、雇い主に気に入られたくて、その企業の特性を持ち上げたりするものじゃないかな?」
「…そうでしょうけども」
「君は、この薄汚い酒場の何処に持ち上げる要素があるのかと、そう思うんだね? まあ…そこまでは云わないとしても、こういう水商売で志望の動機を訊く方も訊く方だ、とは思っていないかな」
相変わらず、気を悪くした様子は無い。だが、人の胸中を見透かしたような薄笑いで、皮肉な声で云われて、またしても俯いてしまった。
別にそこまで、見下したようなことを考えた訳ではないのだが…。
今まで見たことがある飲食店の中でいちばん、暗いとは思った。友人にムリヤリ連れて行かれた酒場だって、こんなに暗くてすさんだ雰囲気では無かった。薄汚い、とは云わないが、世の中の飲食店とはかけ離れて「清潔」とは云いがたい、そう思う。こんな場所に誰が客として来るのだろう、どうして、給料がこんなにいいんだろう、そんなにはやっているのか、そんなことも考えた。
だが、それが度を越していて、驚きの方が強くて、却って不愉快を感じない。
何というのか、「今時」こんな場所があったのかと思うような前時代的な建物、内装だと思われた。
「あの、では、訊いてもいいですか」
「何だい?」
「無料配信の求人広告で、問い合わせたのですが」
「それは聞いてるよ? 余程にお金に困っているんだねえ…、ニュースメールの定期購読も出来ないらしい」
くすくす、と主人が笑った。皮肉な云い方がこの人の特徴らしいことが判ってきた。それにムカっとくるのではなく俯いてしまうところが、自分の特徴だと、自分で思う。
「待遇は、その、広告の通りなのですか?」
「つまり、給料と時間に偽りは無いかと?」
「…はい」
「無いよ」
あっさり云われて、口を噤む。「本当か」と念を押すのは、流石に雇い主を不愉快にさせそうだった。
主人は、ふ、と笑って続けた。
「君の疑問に答えてあげよう」
「…は…」
「こう見えて、ここは結構はやっているから、君に示した給料くらい、簡単に払える」
「…」
「しかも、ここの営業時間はとても短い。それでもね、来る人間は来る。ねえ、君」
「はい」
主人が顔を覗き込んで声を掛け、その後、ふい、と店内に視線を飛ばした。
「ここはね、ずッ…と前から、あるんですよ」
主人は、随分と溜めて「ずっと」を云った。
「私のご先祖から、ずっと守ってきた建物だ。話でしか聞いたことが無いが、取り壊しに遭いかけたこともあるよ。でも、今となっては…、保存すべき建築物」
相変わらず、主人はくすくすと笑う。
少し驚いて、目を見開いた。
「まさか、文化遺産とでも仰るのですか?」
「あーあ…、指定されそうになったこともあるけどね…。そうなると、今度は酒場の営業が出来なくなる。私も追い出されてしまう。だから、辞退したよ。どうせ、連邦政府には、ここを保存できるものも居ない…。私は、管理人よりも酒場の主人で居たいので」
愉快そうな声に、完全に口を噤んだ。そんな大層なものだとは思わなかった。自分は「清潔と程遠い」と思ったけれども、人によっては「レトロな雰囲気」と思いそうだ、くらいは考えた。そんな内装にしてあるのだ、と思っていたのだ。
だが、この酒場は本当に、歴史的な場所だったのだ…。
もしかして、場末とはとんでもない、高級な社交場なのでは?
そんなことを考え、自分がここで働けるのだろうか、と不安になり、またしても俯いてしまった。
主人は微笑んで、うん、と頷いた。
「君、結構卑屈だね」
「…」
「卑屈と云ってはいけないのかな。自分の価値を、あんまり尊んでいないね」
主人の言葉に、顔を上げることが出来なかった。俯いたまま、否定もせずに聞いた。
「君、水商売は少しばかり気が引けるけども、その方が実入りが良い、その中でも、ここが一番待遇が良いので問い合わせたのだろう」
「…はい。でも、雇ってもらえるかどうかは、分かりません」
「当たり前でしょう、雇う雇わないは、こちらが決めること。それを、『自分が雇われることは無いだろう』という意味で云っているところが、自分の価値を尊んでいないよね」
「…」
「文化遺産に指定されそうになるような、そんな大層な場所で働けるような大層な人間じゃない、とか思っていない?」
顔を覗き込んで、主人が云う。
「…先程から、ご主人は、人の心を見透かしているようなことを仰いますね」
戸惑った声で云った。
主人は笑って、そうかな?と首を傾げた。
「テレパスなのですか?」
「そうだとして、断りも無く人の心など覗きはしないよ。君の残高も見ていないから、志望理由を訊いた」
キャッシュカードでもあるIDカードを指で挟んで、主人が云う。
「君の頭の中を覗いていたら、こんなカード自体必要なかったろう? パスワードの必要ない履歴のみならず、初恋の相手や初体験の歳まで、私は既に知っている」
おどけた声に、少し顔を赤くした。普通、怒ってもいいのに、どうしてそれだけで終わるのか、自分でも不思議な気がする。
主人は笑って、頷いた。
「頭の中を覗かずに、人を見ることが出来なくて、本来、商いは出来ませんよ、君。君の態度やレスポンスから判断して、君がまるで私をテレパスのように思った、それだけの話」
「本当はテレパスで、そんなふうに云っているのはポーズかもしれません」
「ああ…、そうかもしれないね」
ふふふ…と主人が笑う。…この人も、どうも「怒らない」人だ、そんなことを思う。随分、失敬なことを云った様な気がしていたのだが。
「君、自分の価値も尊んでいないけど、他人の顔色を窺うことも無いね」
「…失礼なことを云って済みませんでした」
「いいや、別に。素直というのとは違うけど、素朴だとは思うよ。別に、君は私に対して、馬鹿にするようなつもりで云ったのではないだろう。…率直だね、君は本当に」
主人が微笑む。よく笑う人でもある。こんな人、あんまり見たことが無い。
「君、自分の価値を尊んでも居ないけど、他人の価値も尊んでいないのかもしれないね」
「…」
また口を噤んだ。答えに困る。決して、他人を蔑んでいるということはないと思うのだが。
「ほら…。ねえ、君。私は、君を嫌な人間だと云ったのではないよ。ああ、私の言葉が悪かったかしら」
主人が苦笑した。
「自分以外の人のことを、貶めているつもりは無いのですが」
そう云うと、主人は苦笑のままで首を振った。
「あーあ、ほら…。やっぱり私の言葉が悪かったかもしれないね。人の価値を尊ばないことを、どうして貶めていると思うかな? そういうふうに考えるということは、君、自分の価値もやはり尊んでいないね、貶めている?」
「…」
「私が云ったのはね、君が、真ッ平らだということだよ」
「?」
「何というのかな…、あんまり、欲が無くて、興味の対象も無いんじゃない?」
「…お金が欲しいです」
欲が無いというのは違う、と思い、呟くように答えた。主人は、首を振る。
「それは、私からしたら欲とは云わない。君は、必要にかられて、ここに来たのでしょう。学費を払わなくて良かったら、ここに来た? 生活費だけなら、ここまで給料の良い場所に面接に来なかったのじゃない?」
「…」
「ここに問い合わせる学生は大体、学費というより、遊ぶお金のためだね。酒場ならば、ともすればただで酒も飲めるし…」
主人が、今度は皮肉な笑みを見せて、次には、柔らかい笑顔を浮かべた。
「君、自分が一番楽しいことってある? 自分の中で、何より最優先させたい大事なことって、あるのかな?」
「…」
「ほら、すぐには答えられないね。何かに対する興味というものが、あんまり無いんだ」
「それは、欠点ですか? こちらで雇ってはもらえない…」
「いいえ? どちらかと云うと、長所です」
主人は笑って首を振り、その後、こくん、と頷いた。
その言葉に戸惑い、「長所?」と呟いた。
「君、他人に褒められたことはある?」
「…あんまり、覚えていません」
「ああ、そう。…お金が欲しいという君のために云ってあげるけど、ここで働くよりも、もっと短時間にガッポリ稼ぐ方法はあるよ?」
主人は、カウンターに頬杖をついて、学生の顔を眺めた。
怪訝そうな表情の学生に、主人は続ける。
「君は随分、可愛い顔をしているよ。この裏の通りに立っていなさい? そうしたら、ご飯も食べさせてくれて寝転がってるだけで、お金をくれる人は山ほど寄ってくる」
それを聞いて、…微かに眉を寄せた。
そんな表情を見た主人は、一度目を細めたが、気づかなかったふりをして続けた。
「それか…、君の通っている大学。君自身はそれを認めないかもしれないけれど、一般的に考えて、そこに通っている――いや、入学したというだけで、君は『優秀』であり、エリートだと世間からは認識される筈です。そこに通っている学生の生殖細胞ならば、無条件に高値で買ってくれる企業は多かろう。ここで働くよりも、手っ取り早いよ」
主人の言葉に、一度唇を引き締めた。そして、主人に…、初めて、不快感を表した表情で視線を送った。
「それはあなたにとって、商いですか」
「私は、酒を売るのが商いですよ?」
「…労働力を売ることと、身体を売ることは、同じだと思っていません」
「うん」
「労働力と引き換えに、お金を頂きたくて、ここに来たんです。それが、働きたいという意思表示です。…能力を売ることと身体の一部を売ることも、同じでは無いと思います」
「はい」
主人は頷いて、学生を見つめた。そして、もう一度大きく、頷いた。
「君を雇いましょう」
「…は?」
「気に入った」
「な、何故ですか」
どちらかと云うと、さっきから、主人の気に障りそうなことばかりを云っているような気がしていた学生は、主人の「採用」の言葉に戸惑った。