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Invisible hand(1)


          *



 ヴァンサンがこの島に来たのは、今日が初めてだ。もちろん、ジェレミーも同じく。

 

 真下に広がる島の風景は、夜の闇の中では電灯やネオンの光で照らされている。

 

 硝子の塔(グラス・タワー)が、この島で一番高い建物なので、全ての建築物が背の低い建物に見えてしまう。実際、周辺の建物はそこまで背が低いわけではないのに。

 

 一方で、海岸線沿いは薄暗い。街灯とまばらな建物の光しか見えない。

 細い月の光を反射した波が、何度も繰り返し蠢いているのが見える。

 

 ヴァンサンは波を見つめながら、小さな頃の出来事を思い出していた。

 

 あれはまだ、ジェレミーを引き取る前の夏だった。両親とシチリア島へ旅行した時に行った海。

 

 とっぷり陽が暮れる前、まだ空が茜色をしていた時間帯の海だった。

 その時間ともなると、とっくに人気(ひとけ)はなくなっていた。波音以外の音がない静けさに、この世界にいるのは両親と自分だけではないのか、とも思った。

 

 『この波に自分と両親が飲み込まれて、もし両親が自分の手を離してしまったら、一人ぼっちになってしまう』

 何に影響されたのかわからないが、そんな不安が胸を覆い尽くした記憶。


 ヴァンサンは視線を島の風景から逸らし、ガラスに反射した自分の姿に向けてみる。

 

 彫りが深く、美しいと評される顔。だが、ヴァンサンがガラスの反射越しに見る顔は、まるで白いシーツを被ったお化けみたいに見える。

 

 無理やり口角を上げて笑い顔をつくると、やっと自分の顔だと認識できた。

 そんな風に認識が混乱するのは、薬物中毒だった時期以来で、ぞっとした。

 

 ガラスに反射した自分の姿、部屋の内装。

 何の気なしに内装の方へ意識を向けた瞬間、ヴァンサンは映り込んだものを見て、即座に振り向いた。

 顔は心なしか青ざめている。


 今、この部屋にいるのは自分だけ。

 それなのに、ソファに人がいた。

 真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばした、黒い瞳のアジア人の若い女が。60階の展望フロアで、自分が怒らせてしまった、あの女が。

 

 正直、どんな日本のホラー映画よりも怖い、出現の仕方だった。

 

 

「ミ、シェル」

 驚きのあまり、声が掠れていた。掠れている、と気づいた時にはもう、名前を呼び終えている。

 ソファにちょこんと座っている渕之辺 みちるは、近くにあったクッションへ手を伸ばし、抱き抱えた。その手に、拳銃(ベレッタ92)はない。

 

「さすがスイート。私がいたセミスイートとは格が違うね」

 渕之辺 みちるは部屋を見回して、薄く笑う。

 自分がぼんやりと物思いに耽っている間に、渕之辺 みちるは、さっさとソファまで侵入している。

 どこから侵入したのだろう。非常階段やエレベーター、そしてこの部屋にも、部下を配置していたはずなのに。

 

 ヴァンサンの背中に、嫌な汗が落ちる。

 

 どんなに警備を分厚くしても、ありとあらゆる手段を使って、突き破ってくるに違いない。

 液体みたいに、音も立てずに、隙間を見つけたら、必ず入り込む。

 

「ジェレミーはどこへ?」

 ディナーのテーブルで、料理を囲んで一緒に話していた時のように、和やかに微笑み、ジェレミーの居場所を尋ねてくる。

 貼り付けた作り笑いは、ひどく無機質で、体温を感じない。


「僕がいるのに、ジェレミーを気にするなんてショックだなぁ」

 軽口を叩きながら、ヴァンサンはネクタイを緩め、渕之辺 みちるの向かい側に座る。

 この仕草が一番カッコよく見えると、経験上知っている。

 渕之辺 みちるは、ニヤリと口角を上げた。

 だが、その笑い方は、喜んでいるのではなく、冷やかしている。


「とっくに逃げたと思ってたのに」

 渕之辺 みちるがまだ硝子の塔にいるとは、本当に予想外だった。

 てっきり、旧リエハラシアの軍人とか言う、あの(いか)つい護衛(ボディーガード)と合流すると予想していた。

 合流したところを押さえれば、『神の杖』の情報を確実に手に入って一挙両得だと、ジェレミーが言っていた。

 

「追われるのも迷惑だからね。さっさと片付けた方がいいなって」

 クッションを抱えて座っている渕之辺 みちるは、歳相応の幼さを演出したいのだろうが、ミスマッチだ。

 

 感情を見せない黒い瞳は、じっとりとヴァンサンを見つめ、何かの(ふるい)にかけている。


 何度も会ってきた、老獪な大物の武器商人たちに通じる腹黒い態度と同じだ。

 ヴァンサンを見る優しい顔の裏で、底の浅い人間だと馬鹿にする眼だ。


「で、ジェレミーはどこ?」

 話を変えようとしてみるが、最初の質問に答えが返ってきていないのを、渕之辺 みちるはちゃんと覚えていた。

 

「支配人に用があるって言って、90階に降りたよ。すぐ戻ってくる」

 仕方なく、答えた。

 すると、渕之辺 みちるはまた口角を上げる。

 この笑みは、冷たく突き放してやろうとする時に見せる。

「戻ってこれたら、ね」

「嫌な言い方する!」

 渕之辺 みちるがぼそりと言うので、苦笑いしてしまう。

 気付かぬうちにこの部屋へ侵入した、この女が呟くから、嫌な真実味が出る。

 

「リエハラシアにあった『神の杖』開発データは、もう存在しない」

 すっと真顔になった渕之辺 みちるは、前置きなどなく、話を切り出した。

 

「ある人物が処分した」

 こちらをじっと見つめてくる渕之辺 みちるの声に、抑揚がない。

 クッションを抱き抱えながら、表情筋が全く機能していない顔が、ヴァンサンの一挙手一投足を見つめている。

 

「どうしてそれを、知ってるのかな?」

 数々の戦争で暗躍してきた武器商人が、死の直前まで追い求めていた「某国の新兵器」。

 まことしやかに噂されていたものが、実在する/していたのを、はっきり認めさせた。

 

 ヴァンサンは口元を笑う形に歪ませる。

 

「処分したのは、私の亡くなった養父なので」

 渕之辺 みちるは、感情を顔に出さず、淡々と言う。

 

「私の養父は、日本人だけど、生まれも育ちもリエハラシア。日本に来る前は、リエハラシア軍に所属していた」

「その辺の話はよくわかんないけど、お父さんから、ミシェルに『神の杖』の開発データを託された可能性は捨てきれないし」

 渕之辺 みちるの養父が何者だろうと、生きていないなら、大した興味はない。

 だが、

「あぁそっか! ミシェルの護衛も旧リエハラシアの軍人だもんねぇ」

 ここで点と点だった要素が、線になった。やっとピンときたヴァンサンは手を叩く。

 渕之辺 みちる眉間に、わずかに皺が寄った。ここに来てやっと見せた、心の揺れだ。

 

 もう一つ知りたいのは、リエハラシアの元軍人の護衛に、『神の杖』の情報を持たせているのか否か。

 

 白状させるためには、どうするか。

 

 こういう時にジェレミーがいないのは、歯がゆすぎる。

 これまでの交渉ごとには必ず一緒にいたのに、今に限ってジェレミーがいない。

 

「私の()()を殺すために、クルネキシアの人間を呼び寄せるなんて、最高に趣味が悪いですよ」

 渕之辺 みちるは、薄く笑いながら吐き捨ててくる。侮蔑と怒りの混ざった眼差しは、ヴァンサンを睨んでいる。

 

「心配しないで。まだ成功してないから」

 そう言った後、ヴァンサンは、まだね、と付け加えた。

 

 男女間に友情が成立するかは、人によって意見が異なる。

 ヴァンサンから言わせれば、男女に友情など存在しない。もちろん、存在する、と主張する人間がいるのは理解している。

 わざわざ説き伏せる時間が惜しいので、渕之辺 みちるの主張に食いつきはしない。

 


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