第7話 変な朝
とろとろに思考が溶けている。いくの重たいまぶたの向こう側から小鳥の囀りが聞こえる。もう朝なのだろうか。体がだるくて起き上がるのが億劫だ。
ところで、母はまだ帰ってこないのだろうか。そういえば、今日は母親の為にご飯を作るのを忘れていた。習慣になっていたはずなのに、なぜ忘れてしまっていたのだろうか。……あれ、そういえば自分の母親って……
「おはよう!! 相棒!! 朝だぞ!!」
「うわぁっ⁉」
ベッドの上から覗く生首と目が合って、"ミギ"は飛び起きる。そうだ、自分はもうあのアパートにはいないのだ。
「なんだ‼︎ 朝っぱらからだらしない顔を晒すな‼︎ 涎が垂れているぞ‼︎」
「あ、あぁ、おはよ……」
朝っぱらだからだらしない顔をしているのだ。アシが勢いよく二段ベッドの上段から飛び降りて、ドシン、と重い音が響く。そのうち床が抜けたりしないだろうか。朝一番に食らうにはいささか高カロリーすぎるテンションを受けながら、ミギはもそもそと布団を出る。
顔でも洗おうかと思ったところで、アシの私物が散乱する部屋に、カーテンの隙間から柔らかな日が射しているのが目に止まった。カーテンを止めると、朝の薄く高い空が目に入り、思わず目を細めた。空は本当に綺麗だ。
「おはよう‼」
「ハイハイ、オハヨオハヨ」
「……おはようござい、ます」
「ンーオハヨ」
昨日コユビからこってり絞られた共有スペースのダイニングでは、黒いジャージにグレーのエプロンを掛けたハイが朝食の準備をしているところだった。まだ朝早いからなのか、特徴的な二本の触覚はなく、無造作なウルフヘアのままだ。どことなくバンドマンのような雰囲気だ。
「キミの席はアシの隣ね。お茶碗はオレンジのやつだカラ」
言われるがままにアシの隣、ダイニングテーブルの一番端っこにつくと、目の前に朝食が配膳される。白米、味噌汁、だし巻き卵、焼鮭、あとよくわからない緑色の野菜。おおよその日本人が和食と言われ連想する模範解答みたいなメニューだ。こんな家庭的な料理をハイが作る様子はあまり想像できない。
「おはよう。ちょっと、顔洗ってきたの?」
「おはよう‼」
「ぁ、……おはようございます」
そんな失礼なことを考えていると、キッチンからコユビが顔をのぞかせた。ラフなワンピースにアイボリーのエプロン。なるほど、見るからに神経質そうなコユビが作ったのであれば
このキッチリ均等な厚さで巻かれただし巻き卵にも納得である。
「洗った‼」
「目やに付いてるわよ」
「ム‼ 不覚だ‼」
ゴシゴシ目の周りを拭うアシを横目に、ミギは目の前に並ぶ朝食を不思議な気持ちで見つめた。母親と暮らしていたときは、一汁三菜だなんて概念はなく、おかずだけや適当にスーパーで買ったお惣菜のみが当たり前だった。その上、生活リズムなんてものは崩れているのが通常だったため、朝に起きて朝ごはんを食べるという行為すら数える程度だ。ミギはつやつやしたご飯と、湯気が立ち上る味噌汁を見つめる。どれからどうやって食べればいいのだろうか。
その時、ダイニングのドアが開いて男が二人入ってきた。
「おはよぉ〜……おいアッシ〜、ベッドから飛び降りんのやめろよぉ。隣まで響いてくンだけどぉ」
「フン‼ 朝起きれないお前たちには丁度いい目覚ましだと思え‼」
一番最初に入ってきたのは少し癖のある赤毛の少年で、年はあまりミギやアシと変わらな異様に見える。フランクにアシに話しかけている。少し眠たげなタレ目とそばかすが特徴的だ。
「おはよ」
「あ……ドウモ」
赤毛の後ろから入ってきたもうひとりの男がミギの正面の席に座り、ミギは思わず口ごもった。細く流れるような髪に、色の薄い肌。切れ長の瞳と高い鼻、細く尖った顎。男であるミギですら、目の前の男の顔の整い具合には目を見張る。そんなミギの様子を見て、男はフッと相好を崩した。
「君が新入り?」
「……はい」
笑った顔もまた蠱惑的だ。男とも女ともわからない、中性的な雰囲気と静かな語り口が彼のミステリアスな雰囲気を作り出している。
「あ、アッシーの新しいバディ? 気になってたんだよねぇ」
「おお‼ そうだったな‼ 俺の相棒だ‼」
アシと談笑していた赤毛もまたミギのほうを見やる。赤毛は人懐こそうな笑顔を浮かべながらよろしく〜と机越しに身を乗り出してくる。
「名前はぁ?」
「ミギだ‼」
「ミギ、です」
「ミギ! てことはぁ? 右〜……足ぃ? 腕ぇ?」
「腕だ‼」
「……腕です」
赤毛からの質問に答えていると、不意に目の前の美人な男が口を開いた。
「……ねえ、君66事件の子って本当?」
「え……?」
「はい、じゃあ全員揃ったネ」
ろくろくじけん。最近は聞いたことのない言葉を聞くことが多い。それはなにかと聞こうとしたが、その前にハイがやってきてできなくなってしまった。
「あれぇ、キンちゃんとキュウちゃんいなくねぇ?」
「二人は昨日の夜から出張よ。うちの主戦力だもの」
「へぇ〜、キュウちゃんが一番新入りのこと楽しみにしてたのにねぇ」
赤毛とコユビの会話から、普段はあと二人いるらしいことが伺える。ハイ、コユビ、ミギ、アシ、それと赤毛と美人の家族にも友達にも見えない奇妙な朝食が始まった。
目の前に座る男がまず味噌汁を手に取ったので、ミギも真似して味噌汁から飲み始めた。
「……で、さっきちょっと話したみたいだケド、新入りのミギ、ネ。みんな仲良くするよーに」
味噌汁を啜りながら、ハイが唐突かつやる気なさそうに紹介するので、ミギはご飯を掻き込みながら慌てて会釈をする。
「そして私がハイ。ここ、第七班のリーダーみたいなモノだカラ、ヨロシク。コユビと、アシはわかるよネ。そこのそばかすの赤毛がボン。骨、ボーンのボン、ネ。イケメンは脳みそのミソ。……コユビ以外の名付けは私」
「はぁ」
「言いたいことはわかるぞ‼ 相棒‼ 恐ろしくセンスのない名前だよな‼」
「えっ? いや、そんな……!」
生憎初等教育すら受けたことないミギには骨が英語でboneだということがわからない。それに何を勘違いしたのか、アシが意気揚々と喋る。
「……別に、そんな必死で否定してもらわなくてもいーケド」
「ええっ? いや、ほんとにそんなつもりじゃ……!」
口を尖らせるハイに余計にミギは慌て、それがはたから見れば帰って墓穴をほっているようだ。目の前でミソがこらえきれなくなった笑いを小さく漏らした。
「まぁいーじゃんいーじゃん、おれは気に入ってるよぉこの名前」
助け舟を出してくれたボンは何故か一人だけ箸ではなくフォークでだし巻きをつついている。それも本来の利き手ではないのか、随分と手つきがたどたどしい。
「あっ」
何気なく視線をフォークを使っていない方の左手に移したところで、ミギは思わず声を出した。
手首から先が、無い。
「あれぇ? 俺の手ぇ、気になるぅ?」
ミギの視線に気づいたのか、ボンがニヤニヤと身を乗り出す。だぼだぼのパーカーの下から覗くボンの左手には、明らかに手首から先が存在しなかった。包帯が巻かれていてその下がどうなっているのかはわからないが、先端の細さからそこに手のひらが存在しないことは明白だ。
もしかして、”異骸”のせいだろうか。
昨日、狼のような異骸から食らった体当たりの感触を思い出して、胃の中のものが逆流しかける。ゥ、とえづくと、ボンが小さく吹き出した。
「ブハッ、別にそんな怖がんなくてもいーよぉ」
「ゥ、すみません……それ、異骸にやられたん、です、か?」
たどたどしく尋ねると、今度はボンとミソが何やら顔を見合わせてニヤニヤ笑った。
「いやぁ? 別にぃ?」
「フフ、うん。ボンのは別に異骸にやられたわけじゃないよ」
「異骸には、ねぇ」
くすくす、何がおかしいのか。完全に二人の世界に入り込んでいる。
「……ホントに二人は仲イイネ」
「全くだ‼ 俺たちも早くああなろう相棒‼」
「うおっ!」
アシに強く背中を叩かれて、焼鮭が喉に引っかかる。ゴホゴホ咳き込んでいると、コユビが何やらタブレット端末を操作し、顔を上げた。
「仲良くしてるところ悪いけれど、早速出動よ。ミギウデ、ヒダリアシ、ホネ、ノウ」