第5話 偶然の戦犯
「しっかり捕まっておけよ!!」
「えっ?」
アシが手早くミギの体を抱きかかえたかと思えば、黒く変形した左足が地面を蹴った。その瞬間、がくん、とミギの体が揺れて、とてつもないスピードで上昇する。
「おわああぁあああわああああああ⁉」
「ハハハハハ!! どうだ!! 車より速くて面白いだろう⁉」
高くそびえ立つ壁も軽々と超え、『対戦区域』の中が見える。八方を壁で覆われているほかは一見普通の街並みに見えるが、よく見ると人も車も通っておらずがらんどうだ。
「見ろ!! 相棒!! あれが異骸だ!!」
風の音で聞こえづらいが、アシの指さした方向を見てみると道路の真ん中に人型の何かが立っていた。足元はアスファルトがめり込んでおり、さっきの墜落の激しさを物語っている。
「分かったか⁉ 行くぞ!! 相棒!!」
「えっ?」
「突撃ぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいい!!」
「う、わああああああぁぁああああいやああああああああああ⁉」
ふわり、と体が半回転して、今度は地面に向かって真っ逆さまに落ちてゆく。車とは比にならない浮遊感。内臓が浮き上がって指先が縮こまり、目を見開いたせいでどんどん瞳が乾いてゆく。ミギは無我夢中でアシの体にしがみついた。厚い制服の冷たさと、その下にある筋肉の硬さ。母親の腕の、柔らかな部屋着と脂肪の感触を思い出したのも束の間、とてつもない衝撃と共に地面に着地する。
「イッ……!」
あまりにも急だったために強かに舌を噛んでしまい、口の中に鉄の味が広がる。方向感覚もめちゃくちゃで足がフラフラだ。
「……ウ、ガァ……」
突如、背後から獣の鳴き声のようなものが聞こえ、咄嗟に振り返る。
「おうおう、今回は獣型だな⁉︎」
さもよくあることかのようにアシが呟くが、ミギには目の前のものがなんなのか、生き物なのかすらも判別できない。
首から下は、人間だ。いや、正確には人間とは言い難い。何故なら人間にしては手足がやたらと大きく、刃物のような鋭い爪が光っている。そして、なんと言ってもその頭部だ。鼻先はぐっと前に迫り出し、耳まで裂けた口、鋭利な牙、尖った耳。まるで毛の無い狼のようだ。
「な、何、これ……」
「ん? だから言っただろう‼︎ 異骸だ‼︎」
その時、異骸と呼ばれたソレが、緩やかにミギに顔を向けた。充血し赤く濁った瞳に睨め付けられ、足がすくんだ。
「避けろ‼︎」
異骸が地面を蹴ったかと思えば、次の瞬間にはもうミギの目の前にいた。遠くでアシの声がする。異骸の右肘がミギの鳩尾にめり込み、そのまま後ろのビルに叩きつけられた。轟音と共に、ビルの壁が崩れ落ちる。
「ぅお"ぇっ‼︎」
胃の中の物が逆流し、後頭部がコンクリートにぶち当たって強烈な痛みと眩暈がする。ミギの体に馬乗りになった異骸が腕を振り上げ、咄嗟に右腕を変化させて顔を庇う。思った通りに右腕に衝撃が走るが、今まで経験した拳銃とは比にならない程強い。変化させる前より防御力が増しているとはいえ、骨に鈍い痛みが広がる。
不気味な見た目、虚な瞳、圧倒的な力。死ぬ。今度こそ、死んでしまう。
「サンダァァァァ‼︎ ライジングッ‼︎ スライダァァアアアァアー‼︎」
「ギャウッ‼︎」
どこからともなく叫び声が聞こえたかと思えば、ミギにのしかかってきていた異骸が吹き飛んだ。逆光の最中、得意げな顔をしたアシが振り上げた足を下ろしているところだった。蹴り飛ばした、ということだろうか。あの怪物を。
「あ、あの、ありが……いっ⁉︎」
お礼を言おうと口を開いた瞬間、パン! と乾いた音が響く。それと同時に、ミギの頬が焼けたように痛んだ。
「ぇ、え……?」
アシが平手打ちをしたのだ。それにもかかわらず、彼は満面の笑顔である。ミギは彼の行動の意図が読めず、無邪気な同年代の少年に、真顔で拳銃を放つ肺の姿が重なって鳥肌が立つ。
「判断が遅い‼︎」
アシは満足気に言い切って、異骸の吹き飛んでいった方向へ駆けて行った。
そう、彼は最近見た漫画のワンシーンをここぞとばかりに再現しただけなのである。しかし、対してミギは13年間に渡る軟禁生活によって漫画なんてものは人生でほとんど触れたことがなかったのだ。
「な、何……もうやだ……」
突然理不尽に頬をぶたれたミギは泣き言を漏らしながら、瓦礫から体を起こす。すると今度は目の前をアシが吹き飛んでいくところだった。
「どぅわああああああ‼︎」
派手な音を立てて、近くのカフェのガラスを突き破る。まさか、死んだのだろうか。そう思って近づこうとすると、店の奥で何かが動いている影が見えるので、どうやら死んではいないようだ。
そういえば、ミギもコンクリートが砕けるほど強く叩きつけられたのにも関わらず大したダメージを負っていないのはどういうことだろうか。
「グァルルル……」
「ヒッ⁉︎」
またしても、異骸がミギに目を向けた。先ほど蹴り飛ばされた影響か、顎が外れてやたら粘っこい涎が垂れている様子が余計におぞましい。今度こそ死ぬ。殺されてしまう。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「ひ、ひいぃぃいいぃ……‼︎」
「おっおい相棒⁉︎」
気がつけばミギは、一心不乱に駆け出していた。生憎その行動が余計に異骸の興味を引くことになってしまったことにミギは気が付かない。
「ァグオ、オァ、ギヒ、ギヒギヒギギヒ……」
どことなく笑っているようにも聞こえる意味不明な呻き声を漏らしながら、異骸がミギを追う。先ほどのスピードから考えて、異骸は追いつこうと思えばすぐに追いつけるはずだ。もともと生まれてこの方走ったことの無いミギだ。足も遅ければ体力もない。それなのにまだ追いつかない。この怪物に一体どれほどの知能があるかはわからないが、おそらく異骸は遊んでいるのだろう。
「ハァッハァハァ、ハァ、ハァ」
持久走で習う基本の呼吸法、通称スッスッハーも知らないようなミギの体力が次第に底をついてきた。このままでは追いつかれてしまう。いや、今のままだって向こうが追いつこうと思えば追いついてしまうのだ。アシがまた助けてはくれないだろうか。いや、助けてもらうにはアシのいたカフェから離れすぎている。どうしよう、どうすれば。今、ここで自分を守れるのは自分しかいない。自分しか。守れるのか? 守らなくては、守るしかない。自分で、自分を。
異骸とミギの影が重なるその瞬間、ミギはキツく目を瞑って、思い切り右腕を振り回した。
「う、う、うわあああああああ‼︎」
ぐちゃ、とか、めきゃ、とかいう音が聞こえた。
肉が潰れ、骨が砕ける感触がする。
「イギッ」
異骸から小さく呻き声が漏れ、生温かい何かが吹き出してミギの腕を伝った。鉄の匂いが充満する。
「っはぁ、はぁはぁはぁ……え……?」
恐る恐るミギが目を開けると、まずはきょとんとしたアシと目があった。そして、自分の腕に目を向けると、その先にはぐちゃぐちゃに潰れた肉塊が。さらにその先にはアシの振り上げた左足が。
暫く2人で不思議そうにお互いを見つめあっていたが、ややあってアシの顔に笑みが浮かぶ。
「なんだ‼︎ 俺様の足とお前の腕で挟んで頭部を潰したのか‼︎ 頭が良いな‼︎ 面白い‼︎ てっきり怯えて逃げ出したのかと思ったぞ‼︎ 見直した‼︎ 合格だ‼︎ 流石は俺様の相棒だ‼︎」
ハハハハハハ‼︎ と豪快に笑うアシ。人型の怪物の頭を潰しながら笑うアシ。それを見て怪物が死んだ安堵と、生き物を殺してしまったことへの罪悪感、目の前の男への恐怖が入り混じり、ミギの中の"何か"がぷっつりと切れた音がした。
「ぅ、ぅう、う……ぅえええぇぇぇえん‼︎」