第1話 パンドラの部屋
俺って、幸せだ。
錆びついたドアの開く音が聞こえ、少年は眠りから覚醒した。玄関の方に、巻きの取れた傷んだ茶髪を揺らしながらブーツを脱ぐ女の姿が見える。
「ただいまぁ〜……あれ?いく、起こしちゃった?」
「母さん」
目元に疲れを滲ませながらも柔らかな笑みを浮かべる母親に、いくと呼ばれた少年は安堵した。
うん、やっぱり俺は幸せだ。
目尻と目頭に固まった目やにを擦って起き上がる。カーテンを閉め切った闇に、人工的な光がちかちかした。
「今日、調子良かったからご飯作っといたよ」
ほこりっぽい部屋の中では、寝た後必ず喉が痛くなる。いくの口から、少し掠れた声が出た。
「ほんと!?ありがと〜。流石いく!」
耐熱容器に鶏肉とカット野菜を詰め、レンチンしてポン酢をかけただけの料理だが、母親はそれだけで飛び上がって喜ぶ。いくは、それだけが生き甲斐だった。太陽光アレルギーだったか、なんだったか忘れたが、いくは生まれてからの15年間ずっと、外の世界を知らないままだ。幼稚園も、小学校も、高校も行ったことがない。この、6畳ほどの、小さなアパートの、これまた小さな部屋だけが、いくの世界を構成する全てだ。母親と自分の、2人ぼっちの世界。
「本当に偉いねぇ、いくは」
人差し指のネイルチップが禿げた手がいくの髪の毛を優しくかき混ぜる。薬指につけた指輪がひんやりとしている。この手つきを、いくは好きだった。しばらくして、胸まで伸びたいくの髪の毛が、母親の手によって耳にかけられる。少し視界が開けたいくへ、母親が静かに顔を近づける。少し化粧のよれた母親の顔。いくとはあまり似ていない顔。鼻先が触れ合う寸前で目を閉じあった2人は、静かに唇を重ねた。人の舌は柔らかくて生温かくて、芋虫に似ている。
幸せだ、俺は。
ぱんっ!
突如、破裂音が響き渡り、いくの顔に飛沫が散った。
「え……?」
目を開くと、眼前には広がる赤。フローリングに散らばる茶髪。
「母さん……?」
髪の毛の隙間から見えた瞳は、どこも映していない。いくの体からサッと血の気が引いた。
「え、な、なん、な、何……」
何が起こったのか、皆目見当もつかない。飛沫が頬を伝い、唇に垂れた。さっきまで触れ合っていた母親の舌の温もりが消え、口の中いっぱいに鉄臭い味が広がる。少し指先を動かしただけで、血の水溜りにぬるりと触れて波紋が広がった。
ピンポン、不自然なほど呑気なインターホンが鳴る。恐る恐る玄関の方に目をやると、ちょうどドアスコープのあった場所に穴が空いている。
「中、いるよね?」
ドアの向こう側で、何者かが囁いた。ハスキーで落ち着いた声。いくは昔読んだ七匹の子ヤギという童話を思い出した。狼だ。この、扉の向こう側で、狼が猫撫で声を出して自分が出てくるのを待ち侘びている。
ピンポン。
また、インターホンがなっていくはさらに小さく縮こまった。カギも締め、チェーンもかけてある。しかし、このような設備の古いアパートの鍵など、こじ開けることも可能だろう。スウェットのおしりが濡れ、冷たくなってゆく。足を抱え込む際に赤い水面が揺れてひたひた鳴る音すら大きく感じてしまう。
「お邪魔するね」
少年のような声がそう言うや否や、硬い鉄の扉が音もなく斜めに切れた。切れた、というのは比喩表現でもなんでもなく、言葉そのままの通りすっぱりまな板の上の野菜のように真っ二つに切れているのだ。ややあって、二つの鉄屑と化した扉が、轟音と共に崩れ去る。逆光に埃が舞って雪のようにちらついた。
「……あれ、女の子だったっけ?」
その眩い光の中から、ひょろりと背の高い人影が顔を出した。それだけではなく、隣には背の低い少女のような人影、その後ろにも似たような人影が数人群がっている。顔はよく見えないが、皆揃いの黒い服に身を包み、まるで存在そのものが影のようだ。
「……ぁ、あ……」
「あ、声は男だね」
引き攣った声がいくの喉からか細く漏れる。長身の影は、納得したように頷いて黒いコートのポケットから何かを取り出した。シルエットからしてあれは恐らく、銃。
「ほんじゃ、おやすみ」
影が引き金を引く。全てがスローモーションのようだった。動かない母をきつく抱きしめ、無駄とわかっても咄嗟に頭を庇う。右腕に抉るような痛みが広がった。
刹那、盛大な音を立てて壁が崩れ落ちる音がした。
「あれ……?」
痛みを感じたのも一瞬で、想像していた壮絶な痛みはやってこない。恐る恐る目を開けて見ると、いくのすぐ横の壁が崩れ、時計が5時42分のところで止まっている。慣れ親しんだ若草模様の壁紙の残骸から、折れた鉄骨が剥き出しになっている。
「え、な、何、これ……」
「あれー、驚いたな」
影は対して驚いた様子でもない。隣にいた背の低い影に脇腹を小突かれ、チェッと面白くなさそうに舌打ちした。今、すぐ目の前で人が恐らく死んでいる。そもそも、殺したのもこれらの影であるはずであり、今まさに自分も殺されかけた。それにもかかわらず飄々とした彼らの態度に、いくは相手が同じ人間ではないように感じてゾッとした。
「……ところでさ、右腕、大丈夫そ?」
影が緩やかにいくの右腕を指差した。突然話しかけられていくは思わず体を強張らせたが、確かにあの時、何かが右腕に触れた感覚があった。弾は当たったはずなのだ。それなのに、いくは全く痛みなどを感じていない。不思議に思ってすぐに手元に目をやると、その瞬間いくは絶句した。
「え……?」
肘の少し上のあたりから指先までが歪に肥大し、黒く、硬く変形している。生っ白くて骨っぽい、少年の腕はどこにも見当たらない。いくはこの時、場違いながらも昔テレビで見た恐竜映画を思い出した。ゴジラ。ゴジラだ。禍々しいそれはまさに、ゴジラの腕のようだ。
「……あ、あぁ、あえ、あ……」
それが自身のものであると自覚した途端、急に頭から血の気が引き、その場に倒れ込んだ。傷んだ茶髪と血の池に、今度は黒髪が浮かぶ。どうやら白目を剥いて気絶しているようだ。
「……アチャ」
そんないくの姿を見て、長身の影は呑気に呟いた。