◆前世 [一]
澄み通った木の匂いが彼の鼻筋を優しくなぞり、悠仁采は軽い呻き声をあげて、ゆっくりと瞼を開いた。
未だうっすらと霞がかったように周囲がはっきりとしないが、森に囲まれていないことはすぐに見て取れる。淡い榛色の視界というだけで、他には何も判別することは出来ないが、人のような気配を感じてはいた。
「兄様、おじじ様がお目覚めになりましたわ」
遠いような近いような……とにかく軽やかで優しい娘の声がする。徐々に鮮明に変わる光景に、二人の人影が映し出された。
匂いと様子で感じ取れるように、此処はおそらく茅葺き屋根の小屋らしい。ぱちぱちと爆ぜる焚き火の音が、人の住んでいることを証拠付けている。
「わしは……」
起き上がろうとはせず、ただ天井を見詰めて、悠仁采はあたかも独り言のように呟いた。
「おじじ様は小川を流れて、遠く此処までやって来られたのです」
人影の一つがこちらに近付いてくるのを感じて、その者へと目を向けた。色白の肌に長い黒髪が良く似合う、朱色の衣を着た美しい娘である。そして彼自身、良く知っている娘の顔であった。
「……月っ! ──……!」
勢い良く飛び起きると共に、驚愕な眼差しで娘を見詰めた。
──月葉。
「つき……?」
すらりと痩せ細ったその娘は、その言葉と共に唇から疑問符を洩らす。余りにも似過ぎていた。いや他人より同一人物と云われれば、そのまま信じてしまうかも知れない。それほど似ているにも関わらず、もちろん他人であることに気付いた悠仁采は、娘から視線を遠ざけて愕然と頭を垂れた。
「月と申されると、我等が祖母が左様の名ではありましたが……」
娘の背後で壁に寄り掛かり、腕を組んだ武士らしい若者が低い声を発した。顔つきが何処となく娘に似ているのは、おそらく兄妹であるのだろう。
「おじじ様……ともかく横になってくださいませ。お身体に障ります。私は月ではなく、秋と申します。……おじじ様は何処かでおばば様と会われたのですか?」
娘はそう言って微笑みを向け、悠仁采に優しく布団を掛け直し、雨のように降り注ぐ黒髪の中から、好奇心の瞳を覗かせた。
──月とは月葉のことなのか? しかし子さえ作る間もなく、病に倒れ死んでいった月葉に孫などいる筈もない。
悠仁采はただ一言“否”と答え、娘に促されるまま空を眺め始めた。
秋と申すこの娘には、月葉とは違う『意志』というものが感じられる。しいて言えばそれだけの違いで、他にはまず異なる部分など見つけることは不可能に近い。水沢家の姫であった月葉の哀しい気高さとは違い、憂いなど入り込む隙間のない秋の明るい気高さが、意志力となって溢れ出ているのかも知れなかった。
「此処は……?」
その姿発言より高貴な者達と悟った以上、不釣合いでしかないこの小屋の様子を、悠仁采はふと口走った。
「或る狩人の家です。今は狩りに出ていて留守にしておりますが、間もなく戻られることでしょう。何も心配せず、おじじ様はこちらでお休みください」
年は十七、八であろうか。明るい表情と仕草がそうさせるのか多少幼く見えたが、口振りは既に大人である。感情を面に表さない悠仁采に、こうも優しく微笑みかける娘がいることを彼自身不思議に思うのだが、秋の笑みはそんなことすら……今までの戦いのことすら忘れさせるほど、月葉に似ていた。
「おじじ様の御名は?」
秋がそんな問いを発した刹那である──。
戦に追われてきた性分故に、気配の察知が早い悠仁采は、果たして小屋に近付いてくる物音に気付いた。
鋭く研ぎ済まされた戸口へ向かう視線はすぐに二人に気付かれ、三人のそれが一点に集中するが、物音の主は狩人なのだろう、秋の表情は戸の開かれる前から優しいものに変わっていた。
「右京様だわ」
秋はそう言って戸口へと駆け出す。彼女の明るい笑みが多少変化を帯び、それは昔悠仁采が月葉を、月葉が悠仁采を見詰めた、あの柔らかい感覚に少しも違いがないことを悠仁采は悟った。自分の『半分』を見つけたあの感覚──。
「やはり姫でしたか。……伊織様、お久し振りでございます。あ……」
静かに歩み入ったその青年は、紛れもなく狩人であった。上着の上には何やら獣の皮を纏い、腰巻から筋肉質な素足が覗いている。左手には弓を持ち、右手には今日の獲物であった兎三羽がぶら下がっていた。
「……そちらは?」
好奇心を含んだ澄んだ瞳が、悠仁采の存在に触れた。頭の頂きから結われた黒曜たる長髪が不自然に揺らめき、男らしい野生の匂いを漂わせる。
「おじじ……様? どうなされましたの?」
その場にいる誰もが、悠仁采のただならぬ変化に気付かずにはいられなかった。色黒な肌は真っ青に冷め、再び、しかし今度はゆっくりと半身を起こしたその身を小刻みに震わせている。開いたままの口元は、何かを言いたげに動きはしたが声にならず、ただ獣のように妖しい瞳だけは、その青年から離れようとはしなかった──。